指先で、触れられるとも思わない

 まだ目覚めはじめたばかりの朝の教室は、もうすっかりお馴染みとなったさざめきに揺れていた。


 うっすらと波打つ小さな声やひそやかな目交めまぜは、またひとり、誰かが熱に奪い去られてしまったことを知らせる合図だ。用のなくなった私物を机の中から淡々と抜き取る音が、さざめきの間を縫って届く。

 いなくなったのは誰なのかを知っていたので、浩文は遠巻きにされている机のほうをちらりと一瞥しただけで視線をはずした。


 ちはやは教室の雰囲気など気づいていないみたいに穏やかな顔で、自分の席へ腰を下ろす。目を瞑ったまま授業の支度をするちはやのもとに、仲の良い皆木みなぎが寄ってきて何やら楽しそうに話している。


 ――ふいに、せつなさにも似た息苦しさが鋭くはしった。


 浅く、限りなくあさく息を吐く。暗がりに呑み込まれそうになった意識を繋ぎとめるように、シャツの胸元を掌がさまよう。

 ゆっくりと椅子を引き、静かに身体を椅子の上に落とした。


「日野だってな」

 しばし目を閉じて痛みをやりすごしていると、がたんと乱暴な音がした。

 まだ頭の奥が揺れるようなのをごまかして、瞼を押し上げる。

 鈍る視界に、友人の精悍な顔立ちが浮かび上がった。

「そうらしいね。とうとう、って感じだ」

 前の席に勝手に腰を下ろした時田ときたは、浩文のことばに眉を上げた。

「ま、時間の問題だったもんな」


 瞼の裏側で、このところ苦しそうに青ざめていることの多かった日野の顔が浮かんで消えた。

 思い出しても、せんのないことだ。


「顔色悪くね? 何か食べれば」

 頬杖をつく時田の腕や四肢にはしなやかに筋肉がついていて、行儀わるく片方のくるぶしをもう一方の膝へ預けるしぐさも、ふしぎと粗野には見えない。

「今はよしとく。検診で何かもらえるだろうし」

 ふうん、と乾いたくちびるが呟いて、浩文もまた中身のない相槌を返した。

「あ、水田」

 時田が顎をしゃくるのに、浩文は振り返る。

 登校してきた水田が視線に気づいて手を振った。手首に巻かれた、持ち主を失ったタイの先がひらひら揺れる。

都筑つづき、約束約束。ノート!」

「はいはい」

「サーンキュ。あ、聡の机、もう片してくれてんだ」

 俺、やったのに。

 呟いて、水田の青く濁った目が、つい昨日まで日野の席だった机を撫でる。

「水田、機嫌よさそーじゃん。よかったな」

 囁いた時田の声は、とても柔らかで優しい音をしていた。

「まあね。念願だったし。それに……」

 言いさして、水田はしばし口をつぐんだ。薄青を透かした瞼を伏せ、ややあって、静かに首を振る。

「……しばらく疑似餌ぎじえもいらないかも」

「マジで?」

 がたん、と椅子が揺れる音がした。

 隣の隣に座っていたクラスメイトが、ひとりぽつんと立ち上がっている。浩文の目は、彼女のからだが、それとわからないほどかすかに震えているのを見てとった。

 ――春に転入してきた女子だった。

 ブレザーから覗く、何もつけられていない襟元が寄る辺ない。

 くちびるが、わずかに動く。白い歯が、きつく、きつくくちびるに押し当てられた。

 音を結ぶことなくこぼされたことばを隠すように、彼女は掌で口を覆う。頑なにこちらを見ようとはしない視線は、空席となった日野の席に注がれていた。

 浩文の視線を追って、ふいと顔をそむけて廊下へ出ていった女子の背中を見送った時田が、何とも言い難い顔をした。

「……自分が食われたわけじゃあるまいに」

「あー、あの子、聡のことちょっとすきだったんだよ。あいつ面倒見いいから、いろいろ世話してあげてたみたいで」

 水田が、天気の話でもするような穏やかさでそう言って、肩をすくめる。

「何でか付き合わなかったんだけど」

 (それはそうだろうよ)と思ったが浩文は口にはせず、ポケットに手を突っこむ。一年ほど前から支給されているタブレットを噛み砕くと、口の中に人工甘味料でつけられた甘い味が広がる。

「あの子、春からだっけ。まだ慣れてないなんて、随分とまあ。あのまま卒業できりゃあいいけど」

「だねえ」

「きみらが言う?」

 ふたりは、顔を見合わせた。浩文はため息する。

 友人に呼ばれて去って行く水田の背にタルト忘れないでよと声をかけ、物憂げに視線を引き戸へ寄せる時田を見上げた。

「気になる?」

「すこしだけ」

「お前は同級生には手を出さないよな、そういえば」

「有紀の友達かもしんねーし、面倒だもんよ。

 ……脅えている割には不用意に廊下に出てるけど、いいのか? あれ。狙われてるんだろうし。今日は中等部と高等部の合同授業があるしさ」

 時田はとん、と指先で胸元を示す。

 その襟元、太い首筋に浩文と同じ色のタイが留められている。違うのは、時田は校章を使だということだ。

「中等部が高等部をってこと?」

「中等部だったら、高等部のほうがよりおいしそうに見えるんだよ」

「そんなもの?」

「だって俺もよく合同授業の時に目星つけて、いただきますしたもんな。……あーあ、ほら」

 時田はぐるりと目をまわした。

 そのからだと同じように発達した彼の耳は、おそらく閉じた引き戸の向こう、階段の踊り場や廊下の暗がりで、クラスメイトが物音や悲鳴を聞きつけでもしたのだろう。

 丸ごと食べられたのかどうかはわからないが、そうでなければ、あの白い襟元にもいずれリボンが揺れることになるのだろう。

 まっさらな襟元はどこか淋しげだったから、それはそれでいいのかもしれない。

 薄情なことだとぼんやり思いながら、浩文は小テストのために単語帳をめくる。

「浩文はどうすんの。再来年、ここ出たら」

「さあ……。大学は行ってみたいけど」

「お前勉強できるもんなあ」

「必要に迫られてね。……大学の目星とか、つけてるの?」

「や、ぜんぜん。でも、新歓とかサークルとかって憧れるよな!」

 そうだね、と浩文は特に否定をしない。

 時田は笑う。その、まくられた袖から伸びたしなやかなからだと、笑みに覗く犬歯は、ふつうのそれよりも黒みを帯びて、やわらかな鋼めいた艶がある。


 時田には、卒業式の先がある。

 そもそも、時田もまたちはやと同じく捕食者なのだから、被食者である浩文と違って先のことを考えられるのは当然なのかもしれない。


 昔は、そう、初等部のはじめの一年くらいはいいなあと思えたし、羨みの気持ちだけでなく、いたいけな憎しみのようなこころさえあった。


 教室の真ん中に、ひとつ空いた机を見る。今朝はやく、とうとうまるごとほふられてしまったという、日野の席を。

 机の横には、もう使われることのない私物を詰め込まれた紙袋が、無造作にかけられていた。

 あとで水田がどこかに捨てるのかもしれないし、親元に送ってやるのかもしれない。水田と日野は、隣同士の家に生まれた仲だったというから、親の顔も知っているだろう。


 ――かわいそう。


 日野の席を見つめて、声にならない声で囁いた女子のくちびるがかたちづくったことばを、浩文は思い出す。


 クラスメイトがある日突然いなくなったり、その意思のほかで捕食されてしまっても傷つかないし、もう何とも思わない。


 子供は――それも初等部からここにいる子供は、誰に説かれるまでもなく知っていた。

 入学式から卒業式まで、皆一緒に迎えることはできないのだと。


 そう、ぜったいに。



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