さよならわたしの白い目見
七木香枝
はじめに食べたのは、なみだ
わたしたちのからだはいつも
虚ろにぴったりはまるものがいったい何なのか、わたしたちはよく知っていた。
だって、いつも一等欲しいものがすぐそこにあって、ほしいままにしたいという衝動が、身の内に鳴り響いていたのだから。
――そう、わたしたちはいつだって、思春期の熱に抗えない。
◇ ◇ ◇
衣更えは
二週間前にはすでに届けられていた夏服をハンガーからはずし、清潔に洗われ、糊の効いたシャツに袖を通す。袖に、花の意匠をあしらったカフスを留めた。すべらかで薄い、肌触りのよい生地が、否応なしに季節の巡りを意識させる。ただし、袖の長さは変わらない。もう半袖だなんて、ずいぶん着ていない。ここでは四季を問わず、無防備な手首は袖とカフスで、柔やわい首筋は心持ち高い襟にタイかリボンを合わせ、二重に封じるきまりだからだ。――わずかな例外を除いて。
初夏に相応しい、綿麻のジャケットを羽織る。春に測り直したはずだったが、心なしか肩幅が窮屈に感じられた。
うっすらと充血した目に気づかないふりをしながら、コンタクトをはめる。コンタクトが目の中で泳いで、落ち着かない。遅くまで本を読んでいたせいだ。でも、外すことはできない。何度か瞬きをして、目薬を点した。
続きになった扉から三度、控えめに鳴らされたノックの音にタイを掴む。部屋にたった一つだけある出入り口を見つめ、浅く息を吸う。
「いま行く」
ふと流し見た窓に映る自分は、平生のまま、静かな表情をしていた。
安堵して、
伸びやかに届く、はあいという声に、からだの内側が軋むように痛んだ。
――扉の向こうで、
扉を開けるのはいつも自分だということを、彼は毎朝思い知らされる。
扉が立てたかすかな音に、寝台にすんなりと腰掛けていたむすめが顔をあげる。
そうして目を閉ざしたまま、自身にむかってくる浩文の気配に、ゆっくりと首を傾けた。
「おはよう、浩文」
「おはよう、ちはや」
(おはよう、俺の捕食者)
胸の内で落とされる苦いつぶやきなど知らないように、ちはやは毎朝、すこやかに微笑む。それはそれは
ちはやの笑みを見ると、このところの浩文は、きまってこころを折りたたむようになっていた。柔らかい布を重ねた抽斗ひきだしの底に、掌でゆっくりと押し込んで、隠してしまうみたいにして。
差し出された櫛を受けとる。数日前に手入れしたばかりの櫛からは、慣れ親しんだ椿油のにおいがした。
浩文はいままで重ねてきた朝の思い出をなぞるように、柘植の櫛でちはやの髪を梳いてやる。
寝乱れて手ぐしで簡単にととのえられていただけの髪は、柔らかな光沢を帯びている。
「また硬くなったな」
「うん。……あ、ねえ、今日の朝ごはん、トースト」
「目玉焼き乗ってる?」
「ううん、メープルシュガー」
ほらね。
瞼を閉じたまま、ちはやは扉をさし示す。
浩文の部屋と続きになったそれではなく、共同の廊下へ繋がる方の扉だ。チャイムの鳴る音に櫛を置いた浩文を、ちはやが穏やかに引き留める。
「だめ。まだ、身支度が済んでいないでしょ」
「ああ……はい、頼んだ」
さしのべられた掌にタイを預けた浩文は、寝台の脇に膝をつく。喉をさらして顎を上向け、白い指先の訪れを待った。
ちはやの
畏れに、浩文は目を閉じた。
ややあって、タイが襟の下をぐるりとめぐり、第一ボタンのちょうど上で交差する。重なった生地に空いたボタンホールへ校章がはめられる感触に、かすかにからだが揺れる。
……ほんとうに、学校は、“大人”たちは、些細でどうしようもない規則を用意して、子供を諦念の中へ落とし込むすべに長けている。
いいわと揃えた指の腹で肩を押されて、浩文は目を開けた。
顎を引き、鏡を――眼前で輝く、精緻な三角形がいくつも繋がって円をかたち作る、ちはやの瞳を見つめた。
影を落とす睫毛の下で、カーテンを引き電気をつけずにいてもなお部屋の明るさを吸い込んできらめくそれは、
三角形の一つひとつに映し捕らわれた自分のすがたを、浩文はじっと見る。
おのれの襟元には、臙脂色の首枷が従順に嵌められていた。
再度鳴らされたチャイムに促され、浩文は届けられた朝食を取りに扉を開けた。
ワゴンは遠隔操作によって運ばれてくるため、人影はない――はずだったが、隣の部屋からワゴンを押し出したクラスメイトと目が合った。
ふと、ワゴンに載せられた食器に浩文の目は吸い寄せられる。きれいに空けられた皿と、食べさしのまま残されたもうひと皿が並んでいる。
鱗に覆われた指でワゴンの返送ボタンを押した水田は浩文の視線を追い、ちいさく笑んだ。他愛のない話をするかのように。
「
一拍遅れて、浩文は頷いた。
「そっか」
「なあ、今日の英訳見せてくれよ」
「ショコラタルトと交換」
「おっけ。昼に買っとく」
「ん」
ちはやの呼ぶ声に、浩文は水田ととくに目を合わせるわけでもなく、部屋へ引き返した。
朝食をちはやと二人、向かい合って食べる。
白いお皿の上には、サラダとスクランブルエッグ、ベーコンに囲まれておいしそうな色に焼けたトーストが載っている。ちはやの言ったとおり、メープルシュガー味だったトーストをかじると、やさしい甘さがひろがった。
季節や時間がゆるやかに頭上を撫でて通り過ぎても、ふたりの日常は、淡々とそこにあった。
「浩文、ねえ、お腹がすいたわ」
紅茶を飲み終えたちはやがねだるのに、浩文はすぐには返事をしなかった。
ワゴンの上に食器を重ねて置く。白い大皿が二枚、ヨーグルトが入っていたココットがふたつ。二杯分の紅茶が入った可愛げなポット、華奢なティーカップ。
――お前は分け与えてやり過ぎだ。
いつだったか、そう日野から忠告されたことを思い出した。
水田と同室だった日野は、我慢強そうな頬を震わせながら、噛みしめるように浩文へ囁いた。もたないぞと、苦しそうに。
けれども、袖を引かれるままに、浩文は椅子に腰かけたちはやの前に膝をつく。
スカートに覆われた丸い膝の上に手を乗せ、目を閉じた。そうすれば、ちはやの顔を目に入れずに済むから。
閉ざした瞼のふちを、細い指が優しく撫ぜる。
目に見えない、透明な涙をそっと指先ですくいとるようなしぐさだった。
ちはやはときどきそうやって、浩文の胸に不思議ななつかしさをかきたてた。
「あのね」
「うん」
「いいえ、なんでもない……」
瞼をすべり落ちたてのひらが、頬を挟んだ。
――いただきます。
囁いた吐息のあたたかさに、浩文はみじろぎする。
ちはやの
今日は、体育を休んだほうがいいかもしれない。
時間割を思い浮かべながら、浩文はちはやを受けいれた。いつものように。
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