1、受胎

 テーブルの上には千円札が無造作に置かれていた。

 学校から帰ってきたばかりの栗原ひなたはそれに目もくれず、テレビを点けリモコンをテーブルの上に置いた。流れたのはニュース番組、昨日の事件についての話だ。曇り空の中、前触れなく街中に現れた巨大な肉塊と黒く大きな何かの映像。

 肉塊は人肌に似たようなもので覆われていて、未成熟な手足や感覚器が集まって形を成している。出来損ないの口からは赤子の泣き声のような叫び声を上げ続けていた。

 もうひとつの黒いそれは人の形に似た四肢の付き方をしていた。だが身体は金属のようなもので出来ていて、あからさまに命を持つものではないように見える。

 その黒い何かが得体の知れない肉塊を殴り、絞め、殺したと言う話。拳が打ち付けられる度に肉塊が大きな泣き声を上げるその状況は見ていて気持ちの良いものではないだろう。事件の映像としてテレビ画面に映るそれらは他人として見ると、ひなたの目には知能を持たないようにも見えた。

 ひなたは制服のまま椅子に腰掛け、その上で膝を抱える。凍えそうな身体を抱き締める様にも似たその姿勢はどこかぎこちない。家でのくつろぎ方を知らないみたいに足先を動かしている。

 しばらくして彼女はテレビを消した。抱えていた脚を床に降ろすと立ち上がり、テーブルの上の千円札を財布に入れる。彼女はその財布を鞄にしまうと玄関に向かい、気の進まない様子でローファーを履いた。


 街中、日が落ちても大通りは雑然としたままだ。数えきれない程の人と車が行き交うその中にひなたはいた。勉強道具一式と財布の入った重たい鞄を持ってふらふらと力なく歩く彼女の姿は、歩くというよりむしろ倒れることを先伸ばしにしているだけに近い。

 夕飯を買いに行くのだ。普段は近場のスーパーかコンビニで事足りるのだが、今日は最寄りの店をどちらも通り越している。

 足を伸ばしてまで欲しいものがある訳じゃない。ただ立ち止まる気になれなかっただけ。その理由は先のニュースと、彼女の中にあった。

「ねぇ、あなたは一体なんなの」

 歩きながらひなたは呟く。雑踏の中で消え入りそうなその声は、誰の耳にも届かなかっただろう。事実、ひなた自身にも自分の声は聞こえなかった。

「うーはね、ひなのおともだちなんだよ」

 なのに返事があった。自らをうーと呼ぶそれは舌足らずで子供のような声をしている。けれどひなたのそばにはその声の主と思われる人物はどこにも見当たらない。ひなたは自らの腹をさすった。

「嘘、そんな子知らない」

 うーとひなたとの会話は、端から見れば独り言だ。掃いて捨てるほど人にまみれたこの街中で彼女を気に留める人間なんてそういないが、彼女に気が付いた人間は距離を取った。汚いものでも見たかのように顔をしかめながら。

「うそじゃないもん! うーはひなといっぱい遊んだよ!」

 ひなたの言葉に姿の見えないうーは抗議した。ひなたは僅かに表情を強張らせる。その微かな変化からは苛立ちが透けて見えた。だからか、彼女はその話を続けることを避けた。

「それじゃあ教えて。昨日のあれは、何?」

 思い出すのはさっきもニュース番組に取り上げられていたもの。赤ん坊のように泣く肉塊と、それを殴り殺した黒い何か。ひなたはその時のことを思い出すと鳥肌が立つ気がした。

「それは――」

 突然ひなたは足を止めた。話し出そうとさていたうーもそれに気をとられて言葉が途切れる。ひなたの目は遠くを見ていた。ピン留めされたようにそこから僅かばかりも目を逸らせず、瞬きすら失うくらいに。そして呼吸が狂いはじめて一秒、二秒。

 しかしそれも長くは続かない。後ろから来た男が追い越し様に肩をぶつけ、ひなたを睨み付けながら舌打ちをした。それでようやくひなたは我に返る。慌てて踵を返すと今まで歩いてきた方へ足早に戻っていく。歩調は次第に速さを増して、どれだけ他人にぶつかろうとも止まることはなかった。

 自宅の鍵を取り出す。ひなたは目の前の扉にそれを差し込もうとするが、小さく震える右手が容易にはそれを許さない。左手で震える手を必死に抑えて、ようやく鍵は回される。

 すぐさまひなたは扉を開けてその内側に身体を滑り込ませると乱暴に扉と鍵を閉めた。ロックに手をかけたまま束の間放心して、それから靴も脱がずにその場にへたりこむ。このときになってはじめて、彼女は苦しい自らの呼吸に気付いた。次いで思い出したように込み上げてくる吐き気に慌てて口を抑え、呼吸を調える。

「ひな、だいじょうぶ?」

 うーは心配の声をひなたに向ける。一方のひなたにはまだそれに応えるだけの余裕はなく、その声は聞こえていないようだった。

 うーが思い出すのはあのときひなたが目にしたもの。友達たちと他愛のない話をしながら歩く一人の少女。それは人で溢れる街中において目立つわけではない、ごくありふれてたものだ。阿藤ゆうか、ひなたのクラスメイトで、

「友達、なんでしょ」

 うーがそう訪ねるとひなたは耳を塞いで、その場でうずくまる。そのまま低く小さく、殆ど空気の掠れる音にすらなっていない声で彼女は呟いた。

「やめて」

 今にも死んでしまう人みたいにぞっとする声音。その短い言葉にうーは怯える。外での時と同じように言葉を詰まらせていると、ひなたは呪いのような言葉を続けた。

「友達は、私を置いていったりしない」

 ふたりはそれっきり黙り込む。うーは何も言えない、ひなたは何も言わない。その時間がしばらく経って、ひなたは遠くから聞こえる音に気付いた。

 ひなたはその音を確かめながらゆっくりと立ち上がる。それは大きな何かが蠢くような、小さな者が悲鳴をあげるような。そして、赤子が親を求めて泣くような。

「行かなきゃ」

 ひなたの震えは治まっていた。どころか勢い良く玄関の扉を開け放ち、外へと駆け出す。そこはマンションの三階、音の聞こえる方向は乱立する建物に阻まれ見通せるわけではなかったが、その程度どうだって構わない。右往左往する人の群れは確かに異常を表しているのだから。

 階段を降りきりひなたは道へと出る。そこも当然人でごった返していて、軽く吐き気を催すほど。だが彼女は災禍の真中へと歩を進めた。足早に、まるで待ち合わせの相手を見付けたような様子で。


 それは地団駄を踏んでいるように見えた。

 ひなたの見上げた先にいるのは、キメの細かい皮膚で覆われた巨大な肉塊。未成熟な手足や、何になりたかったのかすらわからないような小さなこぶが無数に身体についている。いくつあるかもしれないまだ歯の生えていない口をぱくぱくさせて、それは這うように転がるように蠢いていた。

 悲鳴と叫喚。その片方は当然逃げ惑う人々のものだがもう一方はそうではない。先ほどのニュースの映像でも流れていたように赤子の泣き声が、産声が響いている。

 ひなたはそれを認めるとゆっくり俯く。道の真ん中、逃げようと走る人に時折ぶつかりながらも彼女はそれに近付いていく。距離がなくなればなくなるほど周りには人なんていなくなる。世界には本当は誰もいなかったんじゃないかと思うほど。

 それは一体どんな表情だっただろうか。確かなことは、その口が下弦に歪んでいたことだけ。ひなたは不気味なそれを前に下着を下ろす。それを片足から抜き去ったところで、彼女はもう一度肉塊を見上げた。

「うー」

 その呟きは静かな合図となって、彼女のスカートの中から何かが落ちた。鉄屑で出来た胎児のようなものが地面にがしゃんと音を出す。ひなたとへその緒で繋がったそれはぎしぎしと蠢くと、一気に成長を始めた。

 その最中にひなたの身体すらも飲み込み、巨大でいびつな人の形へと変わる。ひとりの少女から生まれたどうにも命と呼べないそれは、自らの胸ほどの大きさの肉塊を見下ろした。

「……ごめんなさい」

 幼い胸を罪悪感で痛め付けたような小さな声だ。その舌足らずさは、ひなたの胎の中にいたうーと同じで。黒く歪な人形、それがうーの姿だった。

 黒くあるそれはその言葉を先触れに哀れな出来損ないに拳を振るった。柔らかい肌は幼い暴力にいとも容易く傷つけられる。のたうつ肉塊を人だとしたならば、血だと呼んで良いだろう赤い液体が皮膚の裂け目から滲み出す。引いた拳の先では血が飛沫いた。

 うーが暴力を振るえば振るうだけ、一層泣き声は大きくなる。その声は痛みを訴える子供のそのままで、だからうーはありもしない自分の耳を塞ごうとした。

 だが、どうやらその行動に意味はなかったらしい。両耳に手を当てたままぶんぶんと首を左右に振ると、自分の腕を泣き叫ぶそれの未成熟な口の中にねじ込んだ。小さな口を引き裂く暴力に、その肉塊はじたばた使い物にならないいくつかの手足を喚かせる。

 だがうーがもう片方の腕でふにふにした身体を押さえると、その微笑ましい抵抗は無意味になる。身体を押さえ込むうーの指先は、白く綺麗な肌を抉ってゆく。

 鈍く重たい腕が身体の中を侵していく。そして気が済み、腕を引き抜いた時には可哀想に、不出来な子供はぴくりとも動かなくなっていた。


「……ねぇ、ひな」

 大人しくなったがらくた人形は呟く。舌足らずで子供のような声。その声音は今にも泣き出しそうに震えている。

「これで、良かったの……?」

 その言葉を最後に、巨人は事切れたように膝をつく。そして股の間から多少の粘度を持った大量の液体と共に、あるひとつのものを落とした。

 そこに倒れていたのは、自らの膝を抱えたひなた。その表情は母親の腕の中で眠る赤子のように安らかに見えた。

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uterus @holly_omochi

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