玉座と夢

 そよ風が優しく頬を撫で、視線を上げると雲母によく似た蝶が淡い色の空を横切っていった。2、3度瞬きをすると今度は地上から遥かに離れた空から真下を見下ろすような風景に変わる。

 鳥にでもなったのかと思ったが、広げた両手は人のものだ。

 あり得ない状況にも関わらず、アシナは自分が空中を浮遊していることを受け入れ、ゆったりと体を回転させる。

 それは奇妙で、見たことのない美しい光景だった。

 眼科に広がる大地は平地と山々と大小の川と青くきらめく海が絶妙な均衡で配置されているのみならず、新緑の森林、銀白の雪原、赤く染まった尾根、それに薄紅色の野の花に溢れた海辺など、この国の四季をまるで無視した色彩が与えられている。

 しばらく、うっとりと不思議な世界に見入っていると、アシナは山の麓に集落が存在することに気づいた。その瞬間、アシナの両足はしっかりと地面を踏みしめていた。

 集落はとてつもなく大きかった。アシナの立っている場所は小高い丘だったので、四方がよく見渡せるのだが、どんなに顔を上げて視線を遠くまでやっても建物が並んでいる。集落の境界がどこにあるのかわからないくらい敷地が広いということだ。

 それに、木造の建物が異様に大きく、なんだか自分の体が小さく縮んでしまったような錯覚に陥る。大きいというよりも巨大といった方が相応しいかもしれない。

 くるりと後ろに振り返ると、倉庫群が目に入った。アシナは近づき、ものは試しに倉庫の扉を手前に引いてみた。開いたという手応えを感じて、思い切り引っ張る。その中は黄金色に輝く稲穂がぎっしりと詰まっていた。

 それからアシナは次々と他の倉庫の扉を開封していく。今まさに海から引き上げられたような魚介類、まだ狩られたばかりで体温の残る鹿、細かい紋様が描かれた食器、鮮やかな色合いの絹布、赤や橙や瑠璃のガラス玉で作られた装飾品、磨き上げられた鋭い武器――。この世のあらゆるものが完璧な状態でうず高く倉庫の中に積まれていた。

(一体どういうことなのかしら……)

 首を傾げてみるもののこの不思議な世界の理由などわからない。

 しかし、アシナの心はなぜだか喜びで満たされていた。ここには人影が全く見えないのに、この集落には人の幸せがそこかしこに漂っているように感じられるのだ。

 もっと集落のことが知りたいと思い、アシナは一人で歩き回った。

 工房が乱立する区画を一周してみると、建物の間を走る小川の辺りに1本の木があった。まだ若く背はそれほど高くはないが、しなやかな枝が育ってきている。

(あれ、1つだけ何かの蕾が……)

 もっとよく見ようと枝の先端に手を伸ばし、その蕾に指先が触れた瞬間、アシナの意識はぷっつりと途絶えた。


 再び意識が戻った時、アシナが最初に見たのはカイの横顔だった。

「おはようございます」

「う……ん……?」

 まとまらない状況をなんとか整理すると、アシナは即位の儀式を行っていたことを思い出した。

「あっ、私――」

 すかさずカイは寝台に身を起こしたアシナに向かって深く平伏する。

「アシナ様、あなたはもう倭国の王となられました。即位の儀式はきちんと終わったのです」

 祭壇の前で瞑想をしているうちに、頭が朦朧として倒れてしまったのだが、それこそが全国から集められた守護霊のなせる業だったと、カイは言った。カイは倒れて意識を失ったアシナを大型建物の左奥に設けられた寝台に運び、彼女が再び目覚めるまで傍らに付き添っていたのだった。

「なんだか全然実感が沸かないけど」

「そのうち嫌というほど責任の重さを味わうことになりましょう」

 あまり慰めにもならない言葉をかけたカイが用意した水桶で顔を洗い、いそいそと食事を済ませると、ちょうどよい頃合いで高官たちがやってきた。

 正式に新しい王となった今、アシナは先日まで使用していた王の館ではなく永久にこの建物で暮らすことになった。玉座は右奥の祭壇の前にあり、薄い布を垂らして作られた衝立によって臣下の者とアシナは隔てられている。

「おめでとうございます」

 オオガイを筆頭に高官たちが一斉に頭を下げた。オオガイは初対面からアシナを軽んじているふしがあったが、それは今でも変わらない。彼にとって重要なことは、倭国の王を邪馬台国の玉座に据えることであって、アシナという本来は王家の出身ではない少女を畏れ敬うことではないのだ。

 だが、オオガイの望みどおりアシナは玉座に腰を下ろした。その限りでは重鎮としての役目を怠るつもりはないだろう、と以前、カイが教えてくれた。

 アシナはカイから真実を告げられた時から、もう自分には家族のような心の繋がった関係の中に生きることはできないのだと理解していた。相手が求める役割を果たさねばならない。だから、アシナも同じようにすれば良いだけだ。

「これからよろしく頼みます」

 王らしく言ってみたものの、実際に王としてどうしたら良いのか皆目わからない。自分が王になったことで本当に倭国が安定するのか、大陸の国とうまくやっていけるのか、不安しかない。

 何か言わなくてはと思案していると、オオガイの息子のゴウリが尋ねてきた。

「儀式の間、神のお告げなどはございましたか?」

「お告げ……」

 そんなものがあっただろうか。カイは儀式の途中で倒れてしまったのは守護霊のせいだと言っていたが、直接、何か告げられた覚えはなかった。ただ、奇妙な風景を見た記憶はある。

「見たものがあります。色と物と幸せな気持ちに溢れた集落でした。居心地が良くて、ずっとここで生きたいと思えるような場所です。何でも揃っていました」

「それは、邪馬台国の中なのでしょうか?」

「わかりません。倭国のどこかだと思います。きっと交易が頻繁でそれで栄えていたのかもしれません」

 そこまで言って、アシナは思いがけない言葉を紡いだ。

「私は倭国をそういう場所であってほしいと思います。私が王になったことで分断される国々がなくなれば、交易はもっと進むでしょう」

 まるで自分ではない誰かがそう言わせたかのようだった。しかし、その考えはとても魅力的に思える。倭国が一つになり、一人の王のもとで民が憂いなく生きていける――。

「素晴らしい! いやあ、素晴らしい。理想的な女王を得ることができましたねえ。教育のし甲斐があるってもんです」

 場違いなほど明るい声が座している高官たちの後方から響いた。アシナは聞き覚えのあるその声に破顔したが、オオガイは突然の闖入者を一喝した。

「部外者が気安く王の手前に現れるなど許されんぞ!」

「しかし、オオガイ殿。私は部外者ではありませんよ」

 どういう意味だと眉を吊り上げたオオガイに、アシナは努めて穏やかに語りかけた。

「私が呼んだのです。私がこの国を統治するからには、私が選んだ者を側近にと。あなたに不満はありませんが、今後は私の側近をこのカイと、そしてそのナツメに任せます」

 ナツメと呼ばれた青年は遠慮なくオオガイよりもやや前に腰を下ろすと、薄い布越しにアシナを見つめ、深々と頭を下げたのだった。

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