脱走
詰所で床に敷いた粗末な筵の上で仮眠をとっていたカイは、大急ぎで飛び込んできた部下に揺り起こされた。
「どうした」
部下の顔は青ざめて見える。
「アシナ様が逃げました。居住区の出入り口は見張っているので出られないのですが、アシナ様は見張り台によじ登って、そこから飛び降りたのです!」
報告を最後まで聞かず、カイは見張り台に走った。
(あのおてんば小娘め……!)
心の中で悪態をつき、現場を素早く確認する。2人の兵士が追っているというがまだ連れ戻す気配がない。見張り台にも1人兵士が立っていたのだが、深夜で気の緩みが出て背後から人がよじ登ってきたことに気づかず、アシナは台の上に立つと兵士に体当たりして台の柵を乗り越えてそのまま落下したという。
「申し訳ございません!」
「謝ってる暇があるなら探せ」
そう言いつつカイも王の居住区を出て、少女でも進みやすい道を選びながらアシナを追跡した。逃げたのがつい先ほどなので、遠くには行っていないはずだ。日中は暖かいとはいえ、深夜ともなれば空気は冷たく地面の草はしっとりと濡れている。防寒着もなく外に出て、夜明けまで耐えられるとは思えない。
集落は環濠で囲まれており、東西南北には環濠を渡るための橋が掛けられているが、必ず見張りの兵士がついているので逃亡を図るのは至難の業だ。暗闇の中を手探りで進み、環濠に下りるのは不可能に近い。そもそもアシナはこの集落の構造や位置関係を知らなかった。
集落を一周して戻ってきた部下たちからは成果を聞くことができなかったので、カイは一度王の居住区へ引き返した。そして用心深くその周囲の建物を確認していく。
「……見つけたぞ」
鍵のかけられていないその竪穴式の建物は調理器具などが収納された納屋だった。松明を掲げて内部を照らすと奥まった場所に、確かにアシナが膝を抱えて座っていた。アシナは瞬間的に入口目掛けて突っ込んできたが、屈強な武人であるカイに敵うはずもない。
片腕で阻止されあっという間に担ぎ上げられてしまう。
「離してっ」
肩の上でアシナが両手両足をじたばたさせて暴れる。しかし、カイには子犬がじゃれている程度の振動でしかない。
「暴れても無駄だ。俺を誰だと思ってる、小娘」
今までのような丁寧な口調をかなぐり捨てて、カイはアシナの抵抗を鼻で笑った。アシナはうんうん唸りながらカイの腕を逃れようと試みるが、そうこうしているうちに王の館に引き戻されてしまった。
警備が格段に厳重になったので、次からはもう脱走などできないことはアシナにもよくわかった。
「明け方まで屋内で待って行動するつもりだったんだな。悪くないやり方だが、邪馬台国とその将軍を舐めてもらっちゃ困るぜ」
カイはアシナをいささか乱暴に下ろした。
この少女は王でも何でもない。形式的に敬って接していたが、脱走を図るおてんばのただの小娘だ。
アシナは目尻に涙を溜めていた。数拍の後には声を出して泣き始めてしまった。苛々がつのるばかりで、カイは少女の泣き顔を見ても一切同情心は沸かなかった。この娘が王となることを承諾しさえすれば、この国は安定に向かい、多くの者の命を奪った戦もなくなるのだ。
知らせを受けたオオガイが駆けつけてきたので、カイは状況を手短に説明して寝ぼけ眼の彼を下がらせた。どうせ昼間と同じように小娘に向かってバカ丁寧に頭を下げて、倭国の王になってくださいと頼むことしかできないだろう。それで済むならわざわざ捕物になど発展しないのだ。
アシナはしばらく泣きながら起きていたが、緊張やら疲れやらが高じて敷物の上で眠ってしまった。
陽の光が顔に当たり、アシナは身じろぎをして瞼を開いた。思い出したくないが、脱走に失敗し、また王の館に軟禁されているのだった。泣いてしまったことは覚えているので、きっと目のあたりが腫れてひどい顔に違いない。
気怠いまま上半身を起こすと、入口の隣で控えている、いや監視しているカイと視線がぶつかった。ふいと視線を逸し、玉座に向けるとちゃんと朝食が用意されている。しかし、アシナはそれを拒否した。とてつもなくお腹が空いているし、また盛大に空腹の音が室内に響いているが、断固として拒否した。
あの将軍は鬼だ、とアシナは思った。素っ気なくとも丁寧だった言動は仮面を被っていただけだった。
寝具を引き被って丸くなって寝ていると、背中側にカイがやってきた気配がした。顔を見なくても威圧感が感じられる。
「いい加減、食えよ」
鼻先で瑞々しい果実の香りがした。アシナはさっきよりも深く布の中に潜り込んだ。
「……いらない」
「倭国の中で最高級のメシだぞ」
「あなたが食べればいいじゃない」
「そうはいかねえよ」
「……嘘つき」
聞こえるか聞こえないかの声でアシナは呟いた。カイはアシナが騙されて邪馬台国に連れてこられたことを知りながら教えてくれなかった罪深い男だ。許さない、絶対に。
狗奴国の叔父も邪馬台国の偉い人たちも、大嫌い。
不貞腐れていると、カイが離れていったことがわかった。ほっとするような、見捨てられたような心細い気持ちが入り混じって、アシナはまた涙を一粒流した。
そうしてアシナは2日間ずっと食事を拒否し続けた。空腹状態を超えると、別に気にならなくなってくるものなのだと初めて知った。
だが、成長期の少女が水以外何も口にしないことの弊害はすぐに現れた。立ち上がると足元がふらついて、柱に頭をぶつけたり、床に躓いて横転したり、アシナを監視しているカイの気をやきもきさせた。
夕暮れとなり王の館の中が薄暗くなると、アシナは玉座に座りながらまどろんだ。
頭がぼうっとして起きているのか寝ているのか、はたまた生きているのかわからなくなっている。
「アシナ」
名前を呼ばれた気がして、明日は頭を上げた。暗さに目が慣れ、まっすぐに前を見ると微笑みながら胡座をかいて座っていたのはタクマだった。
(ああ、夢だったんだ。全部、私のおかしな夢のせいね。そうよ、叔父様がこんな酷い仕打ちをするわけがないじゃない)
今までのことが悪夢だとわかり、アシナの心は軽やかになった。また名前を呼ばれた気がした。もっと安心がほしくて大好きなタクマの首筋に抱きつき、顔を軽く上向きにする。
「ねえ、タクマ……」
こういう時、いつもタクマはそっと頬に唇を寄せ、それから情熱的な口づけをしてくれる。
だが、アシナが期待したようなことはいつまでたっても起きなかった。それどころか、頬を思い切り摘まれた痛みが走る。
「アホか、おまえ。いつまで俺にひっついてんだよ」
ぎょっとして目を見開くと、呆れた顔でアシナを見下ろしているのはカイだった。
「な、な、なにするのよっ」
慌ててカイの首筋から両腕を離した反動で、アシナの体は均衡を崩して床に転がってしまう。
「まだメシ食う気にならないのか」
「……タクマに会いたい。狗奴国に帰してくれるなら御飯食べる」
言っていることが支離滅裂だと思いながら、それが今のアシナに言える精一杯だった。
暗がりの中、カイはそうかと小さく答え、尻餅をついた状態のアシナに大股で近づき、片膝をつくと左手でアシナの背中を抱き寄せた。そして、よく聞こえるようにか顔をアシナの耳元にぐっと近づける。
「弱って死にたいなら勝手に死ねばいい。いや、俺が今ここで殺してやろうか」
いつの間にか、アシナの首筋にはカイが常に帯刀している銅剣の刃が当てられていた。
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