第7話 炎上
「キウィリスが降伏して、ゲルマニアの情勢が今まで以上に不穏になってきました。わたくしは、塔の中に蟄居しているお人形です。生きているとはいえない人生でしたが、本当の意味で死ぬのですね」
嬉しそうに、孤独の巫女は笑顔を浮かべた。しかし、黒を深く湛えた双眸からは泉のように涙が溢れ、二つの筋となって頬を伝った。
「ヴェレダ、その涙はどういうことですか? あなた、本当は死を望むのですか?」
「い、いえ、これは……」
「嬉し涙ということはないでしょう。確かに、死は全てからの解放でもある。でも、あなたは死のうと思えば、屋上から飛び降りて死ぬこともできた。生への執着、死への恐怖があるのではありませんか?」
プブリウスの目は、洞察の光を宿して、ブルクテリ族の巫女を射抜いた。
「プブリウス、あなたは、わたくし以上に物事を見通す透視力を持っているようですね。確かにわたくしは、本当はまだ死にたくありません。わたくし自身が予言したように、石の都のローマを見てみたい」
丁寧な言葉遣いを捨てて、プブリウスはぞんざいに言い放った。
「それが正直な気持ちなのか? だとしたらヴェレダは、ローマに行くために、俺に命を預けるんだ。俺はヴェレダを殺すと言った。俺はヴェレダの命を握っているのだから」
「わたくしに何をしろと言うのですか?」
「俺は辺境育ちで、実はローマの都には一度も行ったことがないんだ。ヴェレダ、俺と一緒にローマに行くんだ。そのために協力してくれ」
プブリウスは背負い袋から荷物を取り出し始めた。最初に出したのは丸っぽい白い物体だった。次いで、白くて長い棒状のものを数本。
「頭蓋骨、ですか」
「そうだ。あの泉の周辺は生贄を捧げる祭壇だと聞いた通り、骨があちこちに転がっていて探すのも容易だった」
プブリウスはその骨を床に適当に並べて、次の物を取り出す。
「ところで、塔の最上階のこの部屋に登ってくるための階段か梯子があるだろう。こっちでいいのかい」
「はい。梯子ではなく、急角度ですが階段です。わたくしのための食事や必要な物を持ってくるので、梯子では不便ですので」
ヴェレダの言葉を聞きながら、プブリウスは取り出した小さめの松明に火をつけた。室内に既に小さいながらも明かりがあるので、その火を移した。
「梯子じゃなくて階段なのは都合がいいな。ヴェレダ、松明を持って俺について来てくれ。暗いから足下を照らす感じで」
扉の外は踊り場になっていた。屋上に出る階段と、下へ降りる階段がある。ヴェレダの言う通り急角度で、幾度も踊り場で折り返すことになるらしい。プブリウスは背負い袋から取り出した革袋の口を緩めながら、階段を降りて行く。
下の踊り場に着くと、壁際に、革袋を少し傾けて中身をこぼす。自分たちが歩く箇所には掛からないように注意する。
「何ですかそれは」
「オリーヴ油だよ。ヒスパニアの油商人から安く買ったんだけど、品質がもう一つで料理は使いたくないから、丁度良い使い道を探していたところだったんだ」
プブリウスは更に下の踊り場に降りて、同様に油を散布する。ヴェレダはその後ろについて来た。
「この塔を燃やすんだ。ヴェレダには、焼死体になってもらう。そのために骨を持ってきたんだ」
踊り場にオリーヴ油を撒くことを繰り返し、二人は一番下の踊り場に到達した。ここより更に下は地階で、塔の外への出入口の扉がある。扉のすぐ外では警備兵が見張っているだろうから、二人は声を潜めて言葉を交わした。
「ここからは、階段に油を垂らして、松明で火をつける。俺たちは塔の上に逃げて、オークの木の空洞を通って秘密の地下道から脱出する。火は、踊り場を伝う感じで上に燃え広がるから、そうやって稼がれた時間で、俺たちは階段を最上階まで登るんだ。さあヴェレダ、先に階段を上がっているんだ」
「でも松明が無いと、真っ暗で足下が覚束ないですよ」
「そ、それもそうか。じゃあ下の階段に火をつけたら、二人で一斉に走って階段を駆け上ろう。時間勝負だ」
「はい」
油を撒き終わると、プブリウスは油が入っていた皮袋の口を締めて背負い袋に戻した。ヴェレダが持っていた松明を受け取り、地階へ下りる階段に火を近づける。
オリーヴ油で濡れた階段はすぐに燃え始めた。もちろん、火災発生は外の警備兵にすぐ発覚するだろうが、その頃には上の踊り場にも延焼して、消火は難しくなるだろうし、ヴェレダ救出のために最上階に上ることもできなくなっている。焼け跡からはあの骨が発見され、ヴェレダの焼死体の一部と判断されるだろう。
炎はまだ地階への階段の表面を炙っているだけだが、延焼し始めたら一気に大きくなるかもしれない。かなり煙が発生し始めている。
「よし、俺たちが火や煙に巻き込まれる前に、最上階に戻って脱出だ」
ヴェレダが急角度の階段を駆け上り始める。そのすぐ後ろに松明を持ったプブリウスが続く。
下の方で、人の騒ぎ声が聞こえ始めた。気づかれたようだ。振り返ってみたが、既に踊り場で折り返したので、下の様子は窺えなかった。火と煙は広がりつつある。
「プブリウス、どうしたのですか。急ぎましょう」
「大丈夫、追っ手は来ないようだ。あっ」
ヴェレダの呼びかけに応えて急階段の上を仰ぎ見たプブリウスは、自らが持つ松明の炎に照らし出されたヴェレダの姿をほぼ真下から見上げる形になった。白いゆったりした衣装の裾の奥に、素肌の太腿が見えた。その更に奥には白い下着に包まれた尻が、申し訳なさそうにまろみを帯びて盛り上がっていた。
「ちょ、ちょっと、プブリウス。こんな時に何を見ているのですか」
ヴェレダは後ろに手を廻して衣装を抑えたので、下着の純白はプブリウスの視界から遮られた。
「い、いいから急げヴェレダ、恥ずかしがっている場合じゃないぞ」
叫ぶように言ってから、プブリウスは少し咳こんだ。煙が上昇してきている。
「う、上を見ないようにしてください」
「最初に会った時は、全裸だったけど堂々としていたじゃないか。なんで今更恥ずかしがるんだ」
「あの時は、月がきれいでしたから、わたくしなどかすんでしまいますので」
「言っていることの意味が分からないぞ」
焦げ臭くなりつつある呼吸に耐えながら、それでも二人は最上階に戻った。
「よし。あとは、火が広がってオークの木の幹が燃え始める前に地下通路まで到達できれば大丈夫だろう。追っ手は来れないだろうし」
ヴェレダが先にオークの幹の空洞を降り始める。松明を持っているのはプブリウスなのでヴェレダにとっては暗闇の中での下降だが、さすがに慣れている様子で身軽に下っていった。
松明を持ちながらなのでややぎこちない動きではあるが、プブリウスも楔を伝って下を目指す。火は、塔の内部を焼いてはいても、外壁やオークの木にまでは今のところ延焼していないのだろう。
「プブリウス、もう逃げ切れたかのような余裕を持っているようですが、追っ手については、来る可能性もまだあるとは思いますわ」
「そんなまさか。あ、もしかして、泉の側の出口に先回りされている可能性があるってことか」
「いいえ。その可能性はほぼ皆無だと思います。そうではなく……」
「じゃあどこから来るんだ?」
「とにかく急ぎましょう。秘密の地下道を抜けて泉に出て、すぐにそこから離れれば、それ以上追われることはないはずです。大多数の者は塔の火災に気を取られるはずですから」
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