第6話 転変
●転
キウィリスに対する人々の信頼が崩れると、バタウィー族の間でもこのような議論が起こった。
「破滅的な戦いをこれ以上続けるべきではない。軍団兵を殺し、焼き討ちをかけて何になったのか。ますます大勢の一層強力な軍団を呼び寄せたにすぎなかったではないか。(中略)。もし主人を選ぶなら、ブルクテリ族の女より、ローマの元首に耐える方がまだ潔い」
これは大衆の意見であった。長老の考えはもっと過激であった。
「キウィリスの狂気のため、我々は無理矢理武器を取らされた」
タキトゥス『同時代史』より
事態は急転した。
急ぎの使者が来て、巫女の近親者に報告し、近親者は慌てて塔に入っていった。人が少なくなっていた広場に、また人が戻り始めてざわめいていた。群衆の中では、後ろ向きな感情が支配的であるようだ。不安、怒り、諦め、暗い気持ち。
塔の下で、首長などの有力者たちが激論を交わし始めた。その他の人民は周囲を取り囲んで見守っている。満月の後ではあるが、臨時の民会のような形になった。プブリウスもまた、群衆の中に混じって議論の行方を観察していた。
「キウィリス将領が、ローマのケリアリス司令官と会談し、降伏したというぞ」
「嘘だ!」
「本当だと思うよ。キウィリスの出身部族であるバタウィー族の中でさえ、キウィリスへの離反の動きが出ているよ」
「将領無しではローマとは戦えない。降伏しかない」
「いや、我々には巫女がいる」
「でも巫女は今回の儀式では、勝利を予言しなかったぞ。来年の豊作を予言しただけだ」
「それを言うなら、去年の予言だって、一時的な大勝利は予言したけど、その後の劣勢については言及が無かっただろう」
「黙れ。きさまら、偉大なる巫女様を愚弄するつもりか」
大声で一喝したのは巫女の近親者、大柄な隻眼の男だ。しかし、周囲の反応は明らかに冷たい。
「い、いやいや、巫女を蔑ろにするつもりは無いよ。でも、キウィリス将領降伏が本当なら、どうすればいいのか」
議論は長引きそうだ。プブリウスはそっとその場を離れた。
悠長に考えている暇は無くなった。キウィリス将領の降伏により、ヴェレダの巫女としての立場も非常に脆くなったようだ。
今ならば、ヴェレダがローマとの和平を訴えれば、ゲルマニアの民衆も素直に受け入れるかもしれない。だが、ゲルマニア人の間でも意見が割れて激しく対立しているので、先行きは五里霧中だ。
ヴェレダを殺すべきだ。今夜にでも、すぐに。
キウィリス降伏という報に接してもなおローマとの継戦を主張しているのは、ヴェレダの親族をはじめとした、ヴェレダ個人への心酔者が多いような印象を受けた。
ヴェレダが殺されれば、誰か別の女が新たな巫女として選出される。だが、新人巫女では今のヴェレダほどの求心力は発揮できないはずだ。そうなればヴェレダの親族は巫女の親族ではなくなる。強硬派の主張は勢いを失う。
方向性が決まれば、実施に万全を期すために準備が必要だ。プブリウスは必要な物資を調達するために行商人を見つけて声をかけた。
夜になって、塔の夜警以外の者は寝静まったと思われる頃合いを見計らって、泉の岩場にある秘密の出入口にプブリウスは潜り込んだ。
秘密の地下道は、ほとんど自然の洞窟に近い感じだった。最初は岩に空いた穴で、奥に進むにつれてやがて森の木の根が張っている下の空洞という感じになった。自然の洞窟なので、人間が歩く利便が考慮されているわけではない。ほとんどの道のりを、プブリウスはしゃがんで上体を前に倒した格好でゆっくりと手探りで進まなければならなかった。
手に持っていた短めの槍は途中で置いて行くことになった。洞窟が急角度で上に向いたと思ったらすぐに下方に折れる箇所があって、プブリウス自身は匍匐前進で先に進むことができたが、長さのある槍は引っかかって通過させることができなかったのだ。腰に提げた短剣があればなんとかなる。
しゃがんだまま、真っ暗な中での前進だ。幾度も頭をぶつけ、太腿も張ってきた。ヴェレダは、水浴びをするために毎回このような苦労をしているのか。
そうこうしているうちに、天井が高い場所に出た。いよいよ、中空になっている巨大オークの木の真下に来たらしい。
木の内壁に楔が打ち込んであって、それを伝って上り下りするようだ。外観では太い木であったが、中空になっている部分は人間がぎりぎり通れるくらいの細さだった。なので、背負い袋の分だけ窮屈で、苦労した登攀になった。
中空になっている部分が頭打ちとなったところで横穴があった。布が掛けられていて向こう側は見えないが、小さな明かりが灯っているらしく、布が淡白かった。ここが最上階の巫女の部屋なのだ。
「ヴェレダ、ヴェレダ」
最初は囁くくらいの声で呼びかけたが、どうせ他者に聞かれる心配も無いであろうから、もう少し大きな声で呼びかけてみた。布の向こうで人が動く気配がした。
ヴェレダが布をめくって迎えてくれるのを待つのももどかしく、プブリウスは自ら布をめくった。
「プブリウス、あなた、国に帰ったのではなかったのですか」
「帰りますよ。あなたとの決着をつけてから」
眠っていたところを起こされた格好のヴェレダは、やや不機嫌そうな表情だった。部屋の中は予想通りの狭さと、予想以上の簡素さだった。窓が無いから、常に明かりを灯しているらしい。
「俺は決めた。ヴェレダ。あなたには、死んでもらう」
一瞬息をのみ、それからヴェレダは穏やかな顔つきになった。
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