第5話 予言の未来

 本来ならば喜ぶべき千載一遇のこの状況。だけれどもプブリウスは逡巡した。

 殺すのは簡単だ。だが、本当に殺さなければならないのだろうか。

 ヴェレダがゲルマニアの者たちに熱狂的に崇拝されていることは実際に目の当たりにして実感した。だが実際にゲルマニアの諸部族を糾合して軍事力を発揮しているのはキウィリス将領だ。ヴェレダはあくまでも心の支えだ。単にヴェレダを殺しただけではゲルマニアの叛乱軍は弱体化しない。それどころか却って、神聖で崇高な巫女を殺されたという怒りと恨みで一致団結して手強くなってしまう危険もある。

 堰き止めた川のように、思考が詰まってしまっていたが、そこで思い出した。

 最初に戻り、ヴェレダと話し合って和平に持ち込む、という選択肢がある。

 しかし熟慮の迷宮を脱出する前に、ヴェレダが先に言葉を発した。

「ここでローマ人と出会ったのも何かの運命でしょう。プブリウス、あなたにお願いがあります。このわたくしを……殺してください」

 巫女の影響力を殺すために、プブリウスは港町ナルボンヌスから森を通って苦労しながらもここまで来たのだ。だが、相手の方から殺してくださいと言われることは想定外だった。

「あなたはドルイドの巫女じゃないんですか? ドルイドが命を粗末にするようなことをするのは禁忌なのではないですか?」

「確かにわたくしのような役割の者が、ガリアの地あたりではドルイドと呼ばれていることは知っています。わたくしもまた、自然を尊び、自然の恵みを受けて部族の繁栄のために民を導いて行くのが役割です」

 少し悲しげに目を伏せて、水面に映った満月を見下ろすようにしてヴェレダは溜息をついた。

「ゲルマニアでは、全ての女には程度の差はあっても神聖で未来を見通す不思議な力が内在している、と考えられています。部族の中で最も強い予知能力を持っている女が部族の巫女になります。しかしながら、大抵の場合は予言能力は単なる迷信に過ぎないのです」

 夜風に、全裸のヴェレダは幽かに震えた。

「ですが例外的に、本当に未来予知能力を持つ巫女も存在します。過去にはアウリーニアという巫女がいました。そしてわたくしにも、ささやかながら、本当に予知能力があるのです」

 ヴェレダは真っ直ぐにプブリウスの目を見つめた。プブリウスに異論を唱えることを許さぬ口調だった。

「去年、キウィリス将領がローマ軍に大勝すると儀式の時に予言しました。今年になって予言は成就しました。わたくしには、その時のローマ軍瓦解の様子があらかじめ見えていたのです。湖の三段櫂船は、その時の大勝で鹵獲した旗艦です」

「そんな……まさか」

 ゲルマニア軍がローマ軍に大勝すると予言して当たったとなると、尋常なことではない。ヴェレダの口調からすると、根拠無しに言ったことが偶然その通りになったのではなく、本当に巫女は異能力で未来を視たのだろう。

「かつての巫女アウリーニアの頃に、塔は建てられました。その頃から巫女は檻の中です。特にわたくしは幼少の頃より長く巫女を務めてきたことにより、ゲルマニアで最大級の力を持った偉大な巫女として祭り上げられてしまいました。秘密の地下道から抜け出して沐浴するくらいしか楽しみが無いのです」

 再び、ヴェレダの長い睫毛が悲しげに伏せられた。風に吹かれた雲が一瞬月を横切り、地上に刹那の陰を落とした。

「そして、先ほどの儀式で、わたくしは視てしまったのです……わたくし自身の未来を」

 プブリウスは固唾を呑んだ。月下のヴェレダの美しき裸身から目を離せないのと同時に、ヴェレダの語る内容からも心を離すことができない。

「どれくらい先の未来かは分かりませんが、わたくしは石の都にいました。石を使って大きな建物が幾つも造られている。恐らくはローマの都なのでしょう。どういう理由によるものかは不明ですが、わたくしはローマの都に行くことになるのです。状況から考えたら、ゲルマニア軍が負けて、わたくしがローマに捕縛されて連行された、と解釈すべきでしょう。その後のことまでは分かりませんでしたが、きっと、処刑されるのではないでしょうか」

 ヴェレダは鳩尾の前で両手を組み合わせた。小ぶりながらも形の整った二つの乳房が、少し震えているように見えた。

「そ、そういう未来を視たということを、ゲルマニアの人々にどう伝えたのですか?」

「いつもは、予言の内容は、わたくしが歌った歌詞の中に盛り込んであります。ただし、今回に関しては、正直に述べると混乱を引き起こして大変なことになりますので、無難に、来年は家畜がたくさん子を産み、麦は多くの穂を実らせる、といった本当に無難な予言にしておきました」

 無難という語を二度も繰り返して言った。

「わたくしは、塔の上に幽閉された身で、その上ローマの虜囚となる未来も視てしまいました。生きることに何の意味があるのか。ならば、ここでローマ人であるプブリウスと出会ったのも運命かと受け容れることもできます。わたくしを殺してください」

 単刀直入に、ヴェレダはプブリウスに懇願してきた。相変わらず、白い裸身を隠そうともしていない。

「今、俺がここでヴェレダを殺してしまったりしたら、ヴェレダがローマに連れて行かれるという未来はどうなるのですか?」

 ヴェレダは少し首を傾げて思案するような表情を見せた。

「それは、確かに仰る通り不自然なことになってしまいますね。ですが、わたくしの未来予知は、ゲルマニアの人々が信奉している程には大きな力ではないのです。わたくしが幼い頃の予言は、大筋では合っていたけど細部は微妙に異なっていた、などといったことがよくありました。小さな異能力でしかないのです」

 予言のことは気にする必要は無いだろう。ヴェレダを殺すか、殺さないか。和平か。プブリウス自身の意志が問題だ。

「殺す殺さないの前に、俺はヴェレダに、ケリアリス司令官からの伝言を言わなければならないのでした」

「司令官? 伝言?」

 一度呼吸を整えて背筋を伸ばして、プブリウスはケリアリス司令官の言葉を述べる。

「多くの禍をゲルマニアにもたらした戦争の不運を、ローマ国民への時宜を得た奉仕で変えたらどうか? トレウィリ族は殺され、ウビイー族は降参し、バタウィー族は祖国を奪われた。反逆者キウィリスとの友情から得られるものは、刀傷、逃亡生活、喪の悲しみ以外に何も無いのだ。ゲルマニア人は何度もレーヌス川を渡ってガリアに侵入するという、もう十分に間違いを犯した。もしこれ以上まだ何かを画策するのなら、ゲルマニア側に不正と罪が、ローマ側には懲罰と神々の味方があろう」

 ヴェレダは寂しげに目蓋を伏せるだけだった。その仕草は癖になっているのだ。

「それは、仮にわたくし一人が肯んじたとしても、部族の人たちは納得できないでしょう。現実にローマに敗れた部族ならばともかく、この辺りのブルクテリ族は士気も高いままです。わたくしがそのような一方的に不平等な和平に応じては、かえって混乱を招いてしまいます」

 やはり、説得は簡単ではなかった。

「わたくしを殺さないというのでしたら、ローマ帝国へお帰りください。わたくしは服を着て塔に戻らねばなりません」

 何も言えず、ヴェレダの全裸の姿を瞳に焼き付けただけでプブリウスは背を向けた。


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