第4話 巫女との対決
●承
「多くの禍をゲルマニアにもたらした戦争の不運を、ローマ国民への時宜を得た奉仕で変えたらどうか? (中略)。もしこれ以上まだ何かを画策するのなら、ゲルマニア側に不正と罪が、ローマ側には懲罰と神々の味方があろう」
タキトゥス『同時代史』より
夢見心地の儀式であった。
ゲルマニアの民たちは儀式を見て満足して、それぞれ故地に帰って行く。地元ブルクテリ族の者も、巫女の塔の近辺に居を構えている訳ではなく、トイトブルクの森の内外に広く散在しているので、それぞれ帰路につく。
いつしか夕方になって空は橙色に染まっていた。カラスの鳴き声も聞こえてくる。
広場に残っている人は随分少なくなった。塔を見上げても既に巫女はいなかった。寂寥の夕焼けの幻であったかのようだ。
とにかく、巫女の偉大さはよく思い知った。どのようにして和平に合意させるか。それが無理なら排除するか、だ。
広場に集まっていた群衆が散っていっても、塔の周辺では相変わらず巫女の近親者が重武装で巡回警備を継続している。薄暮の時間帯は、いよいよ夜に近づこうとしていた。その時だった。広場に残っていた男の一人が、歩いて塔に接近して行った。まるで自宅に帰るかのような自然な動作で扉に手をかけたが、その瞬間に警護の男三人に取り囲まれた。
「何者だ?」
「い、いえ、ちょっと、巫女にお会いしたいと思いまして」
「巫女様への面会は、親族以外は禁止されている。巫女様に対して不埒な行動に及ぼうとする不審者め」
「いえ、決してそんなつもりは。あっいててて、離してください」
「詰め所の拷問具の方がもっと痛いぞ」
不審者の男は、大柄な隻眼の警備兵に連行されて森の中へ消えた。無論、その間も塔の警護が疎かになることはない。他の者がしっかりと周囲を巡回して目を光らせている。離れた場所からプブリウスは一部始終を見ていた。
「やっぱり潜入は難しそうだ」
こっそりとプブリウスはその場を去った。先ほど、警備兵たちが向かったのとは別の方角に行く。相変わらず道らしき道も無い深い森だ。
「となると、会って和平交渉は無理だな。じゃあ、殺す方向で考えるか。巫女の食べ物に毒を入れるか」
毒ならば、水松(イチイ)の木の樹液が良い。どこにでも生えているありふれた木だ。だが、塔の中の巫女に食べ物を運ぶのは当然近親者だけだ。どうやって混ぜるか。毒味で発覚する可能性もある。
辺りはすっかり暗くなっていた。この近辺は木々が特に深く生い茂って暗がりが濃いような気がする。木の根に躓きながら歩くプブリウスは、軽く身震いした。寒さというよりは、光の一切届かないような闇に原初的な恐怖のようなものを感じていた。まるで、虐殺が行われた戦場の鬼哭啾々たる様子にも近いとも思える。
足下が明確に見えない中で、太い枯枝を蹴飛ばしてしまったようで、乾いた軽い音がした。暗闇に目が慣れているはずだが、それでも暗さが勝って歩きにくい。背負い袋の中の火口箱と小さめの松明を使おうかと思い始めた頃、不意に森が途切れて開けた場所に出た。
森の中にいる時は気づかなかったが、東の空に満月が出ていた。ゲルマニアでは民会は満月か新月の時に行うのだという。
僅かに紅さを帯びた月光に照らされているのは、静かな水を湛えた泉だった。泉では、一人の女が水浴びをしている最中だった。長い黒髪が白い肌に映える、細身の若い女だ。プブリウスの方に背を向けているので、見られていることには気づいていない様子だ。
ゲルマニア人は、ローマ人が羨むような美しい金髪の者が多い。黒髪はむしろ珍しい方だが、あの長い艶やかな黒髪には見覚えがあった。
巫女だ。いつの間に塔を出て、こんな所まで来たのか。
まさに女神の降臨だ。
月の光に照らされた巫女の肌は、暗い夜闇の中でも瑞々しく輝いていた。黒髪は長く、背中のなだらかな曲線を彩っている。尻は若鹿のように活力に満ちていて引き締まり、太腿は雲間から降り注ぐ太陽光線のごとくに清らかさを凝縮した白さだった。
「何者ですか」
ゲルマニアの言葉での鋭い誰何の声を発して、巫女はプブリウスの方に振り向いた。気配を察知されたのだ。
月光の下、プブリウスの姿を認めた巫女は、麗しい裸身を隠そうともせずに、プブリウスに対して真っ正面に向き直った。そして先ほどよりは幾分落ち着いた声で言葉を発した。
「何者ですか」
今度は流暢な発音のラテン語だった。ゲルマニアの者は無知でもなければ蒙昧でもないという事実を改めて実感したプブリウスは、自分の拙いゲルマニアの言葉で会話するよりは、ラテン語で話した方が良さそうだと判断した。
「俺はプブリウスといいます。お察しの通り、ローマ帝国の者ですが、なぜ俺がローマ人であると分かったのですか」
「わたくしのことはヴェレダとお呼びください。この泉の周辺は、罪人を神への生贄として捧げる禁忌の場所です。わたくし以外のゲルマニアの民は、この泉に近寄ることはありません」
ここまで来る途中で感じた不気味さや怖気は、そういうものを肌で感じたからだろう。乾いた木の枝を蹴飛ばしてしまったが、骨だったのかもしれない。
「じゃあヴェレダは、この泉に一人で来たのですか。こんな夜中に、護衛も無しで」
「わたくしが住んでいる塔を支えているオークの大木は、幹が中空になっていて、そこから秘密の地下道へ通じているのです。地下道は、そこの大きな岩に空いている小さな洞窟へと通じています。塔の最上階の部屋に住んでいる巫女しか知らないことです。ですからこうして、一人でこっそりと水浴びをしに来ることができるのです」
プブリウスが言われた方を見てみると、月光に照らされた岩肌の中に、より深い闇が蟠っている場所があった。
つまり、今は近辺に巫女の親族の護衛はいない。プブリウスと一対一で向き合っている。相手の巫女は全裸で丸腰だ。殺すとすれば絶好の機会だ。
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