第3話 うるわしの歌姫
塔が近づくにつれ、その姿が明確になってきた。煉瓦も切石も使わず質素な住居しか造らないゲルマニアでは塔のような背の高い建物はあり得ないと思っていたが、創意工夫を凝らした例外が目前に屹立していた。
オークの木だろうか。森に立ち並んでいる他の木よりも明らかに太くて高い一本の木の上に住居を造った、というのが原型だろう。そのオークの巨木を柱の一本として、他に丸太の柱を数本立てて、その間に板を張って壁とした感じだ。オークの巨木から突き出ている幾本もの太い枝を梁として活用して、塔の階層としているようだ。上に行くに従って塔は少しずつ細くなっていって、最上階の部屋では人一人が寝起きするほぼ最低限の広さしかないと思われる。梁として使われている以外の枝は、下の方は刈り払われている。
そこに、巫女が住んでいるのだ。
塔の周囲では、何人もの大柄な男達が、ここが戦場であるかのような武装をして巡回している。巫女の親族の男たちだろう。巫女に対しては親族の者しか面会を許されていないということだ。
塔の警護の者たちから少し距離を置いて、広場には幾つもの人の塊ができていた。
恐らくは、最初はブルクテリ族の民会だったのだ。しかし、巫女の神聖な力が噂となってゲルマニア全土に広まり、各地から手の空いている者が押しかけてくるようになったのだろう。
森と沼地と荒れ地ばかりのゲルマニアに、こんなにも多数の人間が住んでいたのかと驚くほどだ。剣や短剣など武器を持った壮年の男が多いが、稀に女もいるし、子どももいるし、年老いた者も来ている。プブリウスも人混みに紛れ込んだ。
ゲルマニアの中で最も優れた巫女が、一年に一度、唯一、人々の前に姿を現す日。人の数は更に増えている。しかしそれでも、塔の近辺には誰も入り込まず、空白地帯を保っている。己の欲望に忠実な蛮族なのに、ここまで行儀良く並ぶだろうか、とプブリウスは軽く疑問に感じた。
その時、人々の間から一斉に歓声がわき起こった。プブリウスの前の男も、右隣にいる初老の男も、塔の頂上を指さしている。
高い塔の一番上、屋上に、長い黒髪で、袖無しの白いゆったりした衣装を纏った女が立っているのが見えた。女は、今年二二歳のプブリウスよりはやや若いだろう。恐らく二〇歳より少し前くらいだ。
あれが、巫女か。
過度に塔に近づく者が一人もいないはずである。巫女が屋上に登場するのなら、塔の真下にいたのでは、巫女の姿をよく見ることができない。
儀式とはいうが、具体的にどのような行為を実施するのか。
プブリウスは疑問を抱いたが、周囲の人に聞くわけにもいかない。「そんなことも知らんのか」と怪しまれてしまう。
答えはすぐに出た。塔の屋上の巫女が、歌い始めたのだ。
狼煙のけむりが
さあ上がったいざ行け
セラトゥス銀貨を今、手に入れよう
雌牛よもっと仔牛を産めよ
透明感のある高い若々しい声が、吹き抜ける緩い風を切り裂き広場に満ち満ちてゆく。狼の遠吠えや口笛が遠くにまで響き渡るように、巫女の歌声は広場全体にまで聞こえているようだ。
楽器の伴奏など勿論無い。しかし巫女の歌には進軍ラッパの音にも負けない力強さがあった。
最初は、その場に立ったまま歌っていた巫女だが、次第に自らの歌の世界に入り込んで忘我の境地になっていった。長い黒髪を振り乱して体を揺らし始めた。歌が進むにつれて、体の動きは優雅ながらも力強さと機敏さと切れのある舞いと呼ぶに相応しいものになっていった。それはあたかも、木の枝にとまって囀っていた小鳥が、風をとらえて翼を広げて大空に飛び立ちながら高らかに歌う様子にも似ていた。巫女が回ると、白い衣装の裾も可憐に広がった。
麦は実りこうべ垂れる
あしたはルーネン文字ささやくのだ
大地と森と耕地はなお余ってる
神よ
神よ
あるいは、狼か狐の神にでも憑依されているのか。巫女の情熱は、集結しているゲルマニアの民に伝わっていた。人々は腕を天に向かって突き上げ、前後左右の人とぶつかり合いながらも体を揺らし、首を前後や横に振って、細い短い鉄の刃が付いた手槍フラメアを打ち鳴らし巫女の歌と踊りに同調していた。
聴衆の中に混じっているプブリウスは、多くの人を動かす歌の力と魅力に圧倒されるばかりだった。あまりの歌声の美しさに酔ってしまい、群衆の動きに同調する形ではあったものの、プブリウスもまた首を前後に振りながら、巫女の歌に聴き惚れて時間の経過を忘れた。
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