ホームドラマの終わり

 東京の短い冬が終わり、三寒四温の時期も過ぎ去った三月末。ニュースでは桜の開花も報じられ、季節は急速に春へと向かいつつあった。

 果雨は、冬クール連続ドラマの撮影と最終回に向けたプロモーション期間が終わり、現在久しぶりの休暇が与えられている。

 大学もちょうど春休みの時期で、彼女にしては珍しく、ここ数日は家でゴロゴロしながら本当に何もせずに過ごしていた。充実した休暇とは言えないかもしれないが、これはこれで、一つのリフレッシュの形である。


 そして、相も変わらず、しがないサラリーマンの俺。今日は仕事が奇跡的に早く終わり、家から最寄りのスーパーに寄った。果雨のおっぱいの成長もさすがに止まりつつあるので、もうおっぱい食材に拘ることもない。

 生鮮食品コーナーをぶらぶらと眺めていたら、旨そうなすき焼きの肉が目に留まったので、今日はすき焼きにしよう、と決めた。ここ最近、果雨が家にいるときはついつい夕食を奮発しすぎてしまうのだが、その割に、食費が家計を圧迫しているわけでもない。要するに、それだけ彼女と一緒に過ごす時間が減ったということだ。

 俺は買い物かごに卵と長ネギ、春菊、椎茸、しらたき、そして割り下を放り込んでレジに並んだ。豆腐は冷蔵庫に入っていたはず。霜降りの肉はとても柔らかそうで、甘辛い割り下を吸った牛肉が口の中でほろほろと溶けていく感覚を想像すると、思わず涎が落ちそうになる。果雨は喜んでくれるだろうか。彼女の喜ぶ顔を思い浮かべたら、足取りも自然と軽くなった。


 家には明かりがついていて、それだけで今日一日の疲れがいくらか癒されたような気がする。俺は玄関を開け、


「ただいま~」


 と声を掛けた。


 返事はなかった。

 また寝ているのかもしれない。起こしたら悪いと思い、俺はなるべく足音を立てないよう注意しながら居間へ向かった。

 しかし、そこにも果雨の姿はなかった。

 トイレかもしれないな、と思い、それ以上深く考えずに、俺は買い物袋を台所のテーブルに上げて、着替えのために自分の部屋へと足を向けた。


 そして、ようやく異変に気付いた。

 部屋の扉が開いていたのだ。

 俺がいない間はしっかり鍵をかけてあるはずの部屋の扉が、開いていた。今朝、家を出るときに鍵をかけ忘れたのだろうか。いや、それよりも――。俺は慌てて自分の部屋を覗き込む。


 巨乳グラビアアイドルのポスター、写真集、DVDがところ狭しと詰め込まれ、イカ臭い例の臭いが全てに染みついた俺の部屋。果雨はその中央で、こちらに背を向けてへたり込んでいた。部屋着の赤いジャージと白いシャツ。長い髪が今日は結われておらず、黒いヴェールとなって彼女の横顔を覆い隠している。


「果雨、そこで何を……」


 声をかけても、彼女は微動だにしなかった。


「果雨……」


 二度目の呼び掛けで、果雨はようやくこちらを振り向いた。だが、その瞳は錐で穿たれた穴のように虚ろで、まるで生気が感じられない。その表情を見て俺は、彼女が過労で倒れたときのことを思い出した。

 彼女はゆっくりと口を開く。


「なに、これ……」


 返す言葉もなかった。

 部屋中いっぱいに溢れかえる巨乳グラビアアイドル。その中にはもちろん細川果雨のものもある。女の子が見たら当然ドン引きするだろう。最も危惧していたことが起きてしまった。


「これは、その……」


 何と答えればいいのかわからず、俺は思わず口ごもった。しかし、彼女の次の一言、そしてそこから続く長い独白に、俺は更なる衝撃を受けることになる。


「ねえ、充人くん……私とおっぱいと、どっちが好きなの……?」


「……!」


 言葉に詰まる俺に構わず、彼女は続ける。


「私ね、ずっと自分の胸がコンプレックスだった。おっぱいが大きくなり始めてから、ただ普通に歩いてるだけで視線を感じるようになって……男の人に胸をジロジロ見られるのがたまらなく気持ち悪くて、嫌だった」

「果雨……」

「友達に誘われて断りきれずに参加したオーディションでたまたま賞をとっちゃって、グラビアアイドルとしてデビューするかも、ってなったとき、どうしようかすごく迷った。でも、テレビで見る女優さんにはすごく憧れてたし、事務所の先輩にはグラビアアイドルから女優に転身した人が何人もいるから、もし将来女優になれるなら……そう考えた。それともう一つ、もしかしたら、グラビアを仕事にすることで、自分の胸に対するコンプレックスもなくなるかもしれないって、そう思ったの」


 果雨の声が微かに震え始めた。


「でもね、やっぱりダメだった……私の気持ちが変わる前にどんどん人気だけが上がっていって、水着姿の私の写真が大勢の人に見られて……ファンの人は私を応援してくれて、お金を出して私の水着姿を見てくれているのに、私はそれが気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなかった。それでも、イベントではファンの人達に笑顔で接しなくちゃいけなくて、皆が心から応援してくれてるってわかってるのに、お金払って、イベントの参加権のために同じ写真集やDVDを何枚も買ってくれているのに、胸に視線を感じると、途端にその人のことを気持ち悪いと思ってしまう……それが申し訳なくて、ずっと罪悪感に押し潰されそうだった。だから、過労とストレスで倒れたあと、事務所にそのことを伝えて、仕事内容を少しずつ変えてもらったの」


 過労で倒れたあのとき、ごめんなさい、ごめんなさいとうわごとのように繰り返していた彼女の顔が思い起こされた。あれ以来、事務所が果雨を女優業へとシフトさせた理由にも合点がいった。彼女のおっぱいが、俺が育てたおっぱいが、彼女をそこまで追い詰めていたことにも気付かずに、俺は……。


「充人くんがこっそりイベントに来てくれてたこと、私、気付いてたよ。毎日顔を合わせてるのに、あんな下手な変装で私の目を欺けるわけないじゃん。私、充人くんがイベントに毎回足を運んでくれて本当に嬉しかった。充人くんがいなかったら、どこかで発狂してたかもしれない。……私ね、初めて水着のグラビアを撮ったとき、裸に近い自分の姿をカメラに収められるのが嫌で、仕事だって、やらなくちゃと思っても、全然表情が作れなかったの。そしたらね、業を煮やしたカメラマンさんに『初恋の人を思い浮かべて』って言われて。いないって答えたら、『じゃあ一番好きな人を思い浮かべて』って。それで私、充人くんのことを考えた。初めてこの家に来た日のこと、充人くんと一緒に囲む食卓、他にも色んな充人くんの顔を。そしたらようやくOKが出た。出来上がった写真は、自分でも驚くぐらい綺麗で、それから私は撮影のたびに充人くんの顔を思い浮かべた。それでね、気付いたの。私にとって充人くんはただのお兄ちゃんじゃないって。だから私……」


 果雨の両目から、大粒の涙がぼろぼろと零れ始める。


「ごめんね、充人くん。あんなに部屋に入っちゃダメだって言われてたのに。私から上手に隠してくれていたのに。今日、部屋の鍵が開いてることに気付いて、魔が差しちゃって……。それで、この部屋を見ていて、気付いちゃったんだ。充人くんが作ってくれる食事、胸が大きくなるものが多かったなって。充人くんは私の胸を大きくしようとしてたのかなって。そしたらね、なんだか頭の中がグルグルして、わかんなくなっちゃったんだ。充人くんが大事に育ててくれていたのは、私じゃなくて、私のおっぱいだったんじゃないかって。私は単なるオマケだったんじゃないかって。今まで私の面倒を見てくれたこと、本当に、心の底から感謝してるのに、あんなに優しくしてもらったのに、今はすごく悲しくて、どうしたらいいかわからない……」


 果雨は突然立ち上がり、部屋の前で立ち尽くす俺のすぐ傍までやってきた。既に目も鼻も真っ赤で、今をときめく人気女優・細川果雨の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。


「だからね、私、なんて言われても怒らないから」


 そう言うと、彼女は俺の両手首を掴んで、自分の胸に当てた。水風船のように柔らかいIカップの感触が手のひらに広がる。


「そんなにこれが好きなら、こんなの、もうどうにでも、揉むなり吸うなり好きにしていいから、だから、正直に答えて――私とおっぱいと、どっちが好きなの?」


 俺は、まるで頭を鈍器でガツンと殴られたような気持ちだった。

 俺が単純におっぱいへの好奇心で始めたことが、これほどまでに彼女を苦しめていたとは。そして、今の今までそれに気付けなかったとは。俺は彼女の養育者としては失格だ――そう思った。だが俺は、彼女の問いに答えなければならない。彼女を救えるのもまた、俺しかいないのだ。


 もし俺がここで『おっぱい』と答えたら、果雨はきっと俺を離れ、この家を巣立っていくだろう。彼女はもう立派な大人だ。仕事もある。女優・細川果雨は、もう俺だけの存在ではない。俺がいなくても生きていけるはずだ。彼女をここまで苦しめた悪い大人のことなどすっぱり忘れて、一人で生きていく――果雨にとってはそれが最善なのかもしれないし、彼女に対する俺なりの贖罪にもなるかもしれない。


 もし俺がここで果雨の名を呼んだなら……。

 俺はもう、彼女に対するあらゆる欲求を抑えられなくなるだろう。孤独への恐怖、薄汚れた恋愛感情、そして屈折した性的欲求。今まで必死に堪えてきた何もかも。そして最終的には、彼女を穢してしまうだろう。今まで散々彼女を苦しめてきたこの俺が。だがその代わり、俺はこれまで以上に大きな愛と責任を持って、彼女を守り続けると誓おう。


 しかし、いずれにせよ、俺はもう、この手記をホームドラマとして綴ってゆくことはできないだろう。


 だから俺は、


 ここで筆を折らなければならない。


 こんな中途半端な終わり方に憤慨される向きもあるだろう。お怒りはご尤もである。だが、今までこの下品極まりない手記に目を通し、俺と彼女の共同生活を追体験してきた読者諸君ならば、きっと俺と同じ結論に辿り着いてくれるものと信じている。


 俺は覚悟を決め、ひとつ大きな深呼吸をしてから、自分の気持ちを果雨に伝えた。


「俺は、――が好きだ」





 完

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おっぱいを育てよう! 浦登 みっひ @urado_mich

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