Juicy Rain

 果雨が出演したドラマ『サクラ・トライアングル』は平均視聴率二十パーセントを超える高視聴率を記録し、同クールで最高のヒット作となった。


 果雨が演じた役は当初こそ視聴者の反感を買ったものの、動物に心を開きながら少しずつ成長してゆく過程の演技が高く評価され、最終的には主役の二人を上回るほどの人気を得た。また、若い女性が主な視聴者である『サクラ・トライアングル』に出演したことで、果雨はこれまでの男性層に加え、若い女性という新たなファン層の獲得にも成功した。


 夏クールはドラマ出演がなかったが、その期間は新作写真集の撮影に充てられた。今度の舞台はなんとハワイ。新たに獲得した女性層のファンを更に開拓するため、これまでの水着中心の構成からガラリとイメージを変え、等身大の女性としての細川果雨に焦点を当てたものになった。

 満を持して発売された3rd写真集『Juicy Rain』はその年のアイドル写真集では最高の売り上げを記録した。彼女の人気は、最早グラビアアイドルという枠を飛び越えていた。


 秋期クールに出演した連続ドラマでの演技も好評だった。男性人気のみならず女性人気も獲得し、また清楚で飾らないイメージからお茶の間の好感度も高い果雨は、CMタレントとしても高いポテンシャルを持っていた。今や、一日テレビを垂れ流していて細川果雨の顔を見ない日はないと言っていい。

 年が明けて冬期クール、果雨はついに連ドラの主役の座を射止めた。

 やや地味な社会派ドラマで、『サクラ・トライアングル』ほど積極的なプロモーションが行われたわけではないが、二月末の現在まで視聴率はそれなりに堅調で、初主演ドラマとしてはまずまずの成功を収めていると言えるのではないだろうか。


 連ドラ、海外での写真集撮影、そしてまた連ドラ、その合間には学業もこなし、果雨の生活は相変わらず多忙を極めている。今度の連ドラは主役のため特に拘束時間が長く、夕飯を一緒に食べる機会はぐっと減ってしまった。

 冷蔵庫の中身を腐らせてしまってはもったいないから一応家に帰って飯は食うのだが、適当に冷奴だけとか、野菜切るだけとか、肉に軽く火を通すだけとか、もはや料理とさえ呼べない手抜きの夕食になっている。四十路のオッサンが一人奮発して料理をしたところで太るだけだし虚しいし、洗い物も面倒だし、だったらまあこれでいいや、ってな具合に手を抜いてしまうのは当然の成り行きと言えよう。


 流行に疎い会社の同僚や上司たちにも細川果雨の名前はすっかり知れ渡っていて、最近は彼らの世間話の中にも時々果雨の名前が上るようになった。


「すっげえよな、あのおっぱい」

「あれを後ろからぐっちゃぐちゃに揉みしだきてぇ」


 などという品のない会話が、蚊帳の外にいる俺にまでしっかりと聞こえてくる。こいつらと果雨が一緒にいるところを想像するだけで虫唾が走るけれど、俺だって果雨以外のグラドルを同じような目で見ているのだから、彼らを責めることはできない。

 無駄話に花を咲かせる同僚たちを横目に見ながら、俺は荷物をまとめてオフィスを後にした。帰り際に『お先に失礼します』と声をかけたが、誰も返事をしなかった。


 外はすっかり夕闇に包まれていた。暖房の効いた室内から外に出ると、冷たい空気がびゅう、と強く吹き付けてくる。

 誰そ彼たそがれ時とはよく言ったもので、家路を急ぐ群衆の顔には一様に宵闇色の影が差し、心身に蓄積した疲労の濃さを表しているようであった。

 まるで鏡を見ているようだ、と俺は思った。

 雑踏を抜け、帰宅ラッシュの電車に揉まれながら家路につく。年々足が重くなっていくのを実感する。地球の重力が強くなっているなんてニュースは聞いたことがないから、これはきっと体力の衰えのせいなのだろう。


 ここ最近、色々なところで果雨を見かけるようになった。ある時は街頭のスクリーンで、ある時は電車の吊り革広告で、またある時は売店に並んでいる雑誌の表紙で。しかし、そこに映り込んだ二次元の果雨を見ても、疲れは吹き飛ぶどころかむしろ増していった。街中で彼女を見かける機会が増えれば増えるほど、俺が帰るべき家が暗くなっていくように思えて、気が重くなってくるのだ。


 道なんて世の中には数限りなくあるはずなのに、どうして毎日同じ道を歩いているのだろう。俺は自分を条件付けされたモルモットのように感じることがある。何千回も通った路地の先にある暗い我が家は、住宅街の片隅で小さく身を縮こまらせていた。

 玄関の鍵を開け、戸を開き、靴を脱いで、家に上がる。この一連のルーチンワークの中から、『ただいま』の一言が抜け落ちて久しい。

 やっぱり今までのことは全て長い長い夢だったのではないか。あるいは、本当の俺はまだ一人暮らしのアラフォー男で、寂しさの余り、好きなグラビアアイドルが我が家に転がり込んでくる妄想を、スキゾフレニアのように強固に信じ続けていただけなのではないか、という錯覚。それはとても自然なことのように思われた。


 もう、毎日俺より早く家に帰り、『おかえり』と出迎えてくれた果雨ちゃんはどこにもいない。

 これでいいのだ。バカボンボン。


 家の中はシィンと静まり返っていた。暗い廊下を進み、誰もいない居間に入る。

 だが、この時俺は微かな違和感を覚えた。その違和感の正体が、どうやら部屋中に漂う香ばしい匂いによるものであると気付く。


 パン!

「わっ!」


 足元で突然破裂音がして、驚いた俺はその場で尻餅をついた。直後、聞き慣れた声の聞き慣れない歌が、無音の室内に響き渡る。


「ハッピーバースデートゥユー、ハッピーバースデートゥユー、ハッピーバースデーディアみつひとくん〜、ハッピーバースデートゥユー」


 頭上からカチ、という音がして、二本の蛍光灯が室内を照らし出す。

 食卓いっぱいに広げられたおいしそうな料理と、その真ん中に置かれた小さなケーキ。そして、蛍光灯からぶら下がった紐とクラッカーを手にした果雨の姿が目に飛び込んできた。床には、クラッカーから飛び出した小さな紙吹雪がばらばらと落ちている。

 彼女の笑顔はLEDの蛍光灯よりずっと眩しかった。


「お誕生日おめでとう、充人くん」


 白いニットワンピースを着た彼女の姿はまさに天使のようだ。

 果雨は今日も仕事のはず。俺もいよいよ幻覚を見るようになったのだろうか。恐る恐る彼女の幻影に語り掛ける。


「あ……あの……どうして……」

「ふふふ、サプライズだよ。充人くんの誕生日だけはどうしても外せないって、マネージャーにお願いして、今日は一日オフだったの。今までずっと充人くんに料理作ってもらってばっかりだったから、誕生日ぐらいはゆっくりしてほしくて、昼間のうちから準備してたんだよ」


 ほら、はやくはやく、と果雨は俺の手を引き、食卓の椅子に押し込んだ。寒風に曝されて冷え切った体に、彼女の手はとても温かく感じられた。それは幻影でも幻覚でもなかった。

 小さなケーキに立てられた蝋燭は、大きなものが四本、小さなものが三本。果雨は手早くマッチを擦り、蝋燭に火を灯してゆく。そういえば今日は誕生日だったか、と俺はようやくこの状況を理解した。この年になると誕生日なんて死へのカウントダウンでしかない。だからすっかり忘れていたのだ。

 果雨は食卓を挟んだ俺の向かいの椅子に座った。十年前から変わらない、彼女の指定席だ。


「……どうしたの、充人くん。今日のお仕事大変だった? ……でも、この時間に帰ってくるってことは、そうでもないはずだよね……。ほら、はやく蝋燭吹き消して。そしたら、お料理温めるから」


 そう言って微笑む果雨の顔と、ケーキの上の七つのともしびが、こみ上げる涙で滲んでいく。

 嬉しかった。しかし同時に、寂しくもあった。


 ローストビーフ、野菜とチーズのサラダ、サーモンのマリネ、他にも色々。どれも皆美味しそうだ。

 果雨はいつの間にか料理も覚えていた。

 俺が彼女にしてやれることは、もう……。

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