果雨

 あれから一年。果雨ちゃんは二十一歳になった。


 『充人くん』と下の名前で呼ばれることに当初は気恥ずかしさを覚えていた俺であるが、この頃ようやく耳が慣れてきた。しかしその一方で、彼女を『果雨』と呼び捨てにすることにはまだどうにも照れがあって、話しかける際にも、


「あのさ」

「ねえ」


 とか、名前を呼ばずに話を切り出せる言葉を使ってしまう。『果雨ちゃん』『お兄ちゃん』という呼び方によって定義されていた俺と彼女の関係性の変化に、俺がまだ戸惑っているせいかもしれない。

 果雨を独立した個人として意識すると、台所に立っている二膳の箸とか、洗面台にある二本の歯ブラシとか、物干し場にぶら下がっている洗濯物とか、見慣れたはずのありふれた風景が、全く別の意味合いを持ってくるような気がしてしまう。懊悩する俺をよそに、果雨はこれまでと全く変わらない様子でいるのだから、どっちが年上なんだかわかったものではない。

 『お兄ちゃん』という立場に寄りかかっていたのはどうやら俺の方だったらしく、それが取り払われてみると、途端に自分の立場が不安定で頼りないものに思えてきて、本当はもうずっと前からこの家の主は果雨だったのではないかとすら感じてしまうのだった。


 細川果雨のおっぱいはIカップに成長し、グラビア界でも押しも押されぬトップスターへと成長した。


 『天乳』。神の祝福を受けた性なる、いや聖なる乳。

 部屋着の胸元はもはやパツンパツン、ボタンのあるシャツは今年に入ってから滅多に着なくなった。ふとした時に、ボタンが弾け飛んでしまうことがあるからだ。だからこの春はダボっとしたトレーナーを着ることが多かったが、それでも胸に聳えるエベレスト、Iカップのド迫力は隠しきれていなかった。

 俺は家で寛ぐ果雨の姿を見るたびに、天上におわすおっぱいの神に感謝し、彼女のおっぱいに柏手を打って拝みたい衝動にかられてしまうのだ。アーメン。


 夏の盛りのこの時期は部屋でも当然Tシャツで過ごすことが多いのだが、今年の果雨は常におなかが見えている。バストにシャツが引っ張られて、ずり上がってしまうからだ。最近グラビアの仕事が減ってきたため、全国に星の数ほどいる細川果雨ファンの中で、素肌の最新露出は俺の独占状態というわけである。いやあ、役得役得。


 何故グラビアの仕事が減ったのかについても説明が必要であろう。

 去年の短い休養期間でしっかりリフレッシュした彼女は、事務所の意向もあって、今年に入ってから仕事のスタンスを微妙に変化させていた。バラエティ番組への出演、雑誌のグラビア等が減った代わりに、少しずつ演技の仕事に取り組むようになっていったのだ。


 当初は連ドラの賑やかしのためのチョイ役や一話限りのゲスト出演のような扱いだったが、彼女の熱のこもった演技は視聴者からも評判を集めていた。無理をしない範囲で真面目に演技の勉強に取り組んでいた、その効果が出たのであろう。

 そして、初めて連続ドラマの中でメインキャスト級の配役を任されたのが、今年の春クールの青春恋愛ドラマ、『サクラ・トライアングル』だった。

 舞台は都内の動物専門学校で、主人公は地方から上京してきたばかりの動物が大好きな女の子。慣れない都会での新生活に戸惑う主人公に、都会育ちのイケメン先輩が世話を焼き、それが恋愛に発展していくというストーリーだ。

 果雨に与えられた役は、主人公と同じく新入生だが都会育ちで若干すれたようなところがあり、動物をアクセサリーのように捉えている女の子で、主人公より先にイケメン先輩に目を付け、積極的にアプローチをかけるが、最終的には恋敗れる、という役どころ。田舎者の主人公を気遣うふりをしながら内心では見下しており、ドラマ序盤では視聴者から反感を集めるのだが、主人公や動物たちとの交流の中で次第に変わっていく、やや難しい役柄だ。


 連ドラ初めての大役とあって、果雨はとても張り切っていた。台本の読み込みに余念がなく、何度か演技の練習に付き合わされたこともある。

 中でも強く記憶に残っているのは、キスシーンの練習だった。



「キキキキキキキ、キスシーン????」


 彼女からその日の練習内容を聞かされた俺は思わず、音飛びするCDのように間抜けな声を上げた。


「うん。だって恋愛ドラマだもん」


 そう言う彼女も、やはり少し恥ずかしそうにもじもじしている。

 手渡された台本に目を通してみると、内容はこうだ。

 主人公とイケメンの仲が急接近していくことに焦りを覚えた朱里(果雨が演じる役の名前)は、実習の準備中、イケメンと二人きりになった際に彼を問い詰める。そしてその会話の最後に、不意打ちで口づけを交わす……。


「……な、なるほど……話はわかったけどさ、俺と果雨がキスシーンの練習をするのはさすがにまずくないか?」

「じゃあ、他の人としろって言うの?」


 彼女の眼差しには明らかに非難の色が混じっている。


「いや、違う、他の男とキスなんて仕事でもしてほしくないけど……ってああ、何を言ってるんだ俺は。で、でも俺と果雨はいとこでだね……」

「……だめ?」


 目に入れても痛くないような果雨に上目遣いでそう尋ねられ、断ることのできる男が、この日の本にいるだろうか。いや、いないはずだ。

 結局、問題のキスの部分は、直前に俺の口にラップを被せて行うことになった。俺と果雨は台所のテーブルの傍らに並んで立つ。最初は果雨の台詞だ。


「先輩、最近あの子と仲いいですよね」

「あの子って?」

「しらばっくれないでください。桜子ですよ」


 桜子とは、このドラマの主人公の名前だ。今時の若い子でこんなに和風の名前をした女の子も珍しいと思うのだが。


「べべ別に、そんなんじゃないよ」


 台本には『べべ別に』などとは書いていない。俺が噛んだだけである。


「あんな鈍臭い子のどこがいいんですか? 先輩にはもっとふさわしい相手がいるはずです」

「……な、何が言いたい?」

「例えば、私とか」

「お前なあ……」


 と、俺(台本上はイケメン先輩)が向き直ったところで、果雨が不意打ちのキスをする、という場面だ。台本通り果雨の顔を見るとすぐに俺の口にはラップが当てられ、目を閉じた果雨の顔がどんどん近付いてくる。


 ヤバい。かわいい。


 こんな至近距離で彼女の顔を見たのは初めてかもしれない。みずみずしい肌、ゆるく結ばれた唇、目を閉じたその表情はあまりにも無防備で、俺の心拍数は一瞬のうちにはね上がった。口から心臓が飛び出そうだ。


「ちょ、ちょ、タンマ……」


 思わず体を仰け反らせるが、果雨の顔はぐいぐい近付いてくる。Iカップ、すなわち『天乳』の柔らかい感触が体に当たり、今度は股間が一瞬でカッチカチやぞ!

 これ以上体が密着すると股間の状態に気付かれてしまいそうで、俺はさらに体を引いた。果雨は突然眉根を寄せ、かっと目を見開いて口を尖らせる。


「もう! 何で避けるの? 練習になんないじゃん!」

「……ご、ごめん……」

「真面目にやってよね!」


 もう一度最初から台詞を読み上げ、同じように向き直る。口にラップが当てられて、目を閉じた果雨の顔が近付いてきた。二度目だからか、さっきほどの緊張感はない。体を仰け反らせたりしなければおっぱいが体に当たることもなく、それが少しだけ残念でもあった。


 ラップ越しに感じる柔らかい唇。

 へえ、キスってこんな感じなのか……。

 童貞四十路男の俺は、キッスにすら無縁の人生を送ってきたのだ。


 数秒後、果雨の顔が遠ざかり、瞼が開かれる。その目はまるで豹のようにぎらついていた。背筋が凍るような気迫。狼狽えた俺の頭の中は一瞬で真っ白になった。


「私、先輩のこと諦めませんから」

「……は?」


 果雨の唇が『せ』『り』『ふ』という形に動く。あ、やべ、すっかり忘れてた。今目の前にいるのは果雨じゃなくて朱里なのだ。


「あ、あああ、えと……お、『お前は何にもわかってないな』……」


 これがこのシーンの最後の台詞。俺と果雨はほとんど同時に大きく息を吐いて、心身の緊張を解きほぐす。


「うん、まあ、こんな感じかな……ありがとね、充人くん」

「あ、ああ……」


 頷きつつも、俺は少し落ち込んでいた。仕事とはいえ、演技とはいえ、果雨がキッスをするのか。

 俺にとってはキッスなんて別世界の出来事だったから、今それを疑似体験してみて、彼女が他の男とこれをするということに、軽いショックを受けたのである。

 いや、そもそも、果雨はもう二十一だ。彼女の生活を全て管理してきたわけじゃないんだから、既にどこかで誰か他の男と経験していてもおかしくはない。キッスだけじゃない、このおっぱいも、もっと他の……。

 横目で果雨をちらりと見る。唇、胸元、さらに視線は下へ……と、その時彼女が再び口を開き、俺は慌てて目を逸らした。


「よかった。ちょっと安心。わかんなかったんだよね、どうしたらいいのか」

「どうしたら……って?」

「私、したことないから。キス」

「……え?」

「恋愛とかする前にアイドルになったから。キス、まだしたことないの」

「……へ、へえ……そうなんだ……」


 なるべく平静を装いながらそう答えたが、俺の心は安堵に満ちていた。この感情はなんだろう。親心? それとも……。


「ねえ、充人くん」

「ん?」


 振り向くと、目の前に果雨の顔があった。

 唇に柔らかい感触。

 口元に彼女の鼻息が当たっている。

 閉じられた瞼は少しだけ震えていて、さっき使ったラップは彼女の手に握られたままだった。

 クチュ、という音が微かに。

 体に押し付けられるIカップの柔らかさ。

 ええと、これはいったい……?


 状況を飲みこむ前に、果雨の顔は離れていった。


「はい、練習終わり」


 彼女はそう言うと、くるりと身を翻して居間に向かい、再び台本とにらめっこを始める。

 俺の唇は心地よいサラサラとした質感の唾液で湿っていた。



 それから数週間後、問題のキスシーンの放映日。

 イケメン俳優と口づけを交わす果雨を見て、俺はテレビの前で涙が涸れるほど泣いた。

 もう恋愛ドラマで泣くほど若くはないつもりだ。


 だとしたら、この涙の意味は何であろうか……。

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