グラビア界の修羅の国
あれから一年。果雨ちゃんは今年でニ十歳、つまり成人になった。
彼女がうちに初めて来た日のことを、俺は今でもはっきりを覚えている。あの身長もおっぱいも小さかった果雨ちゃんが、もう法律上では大人になってしまった。俺も気付けば四十路のオッサンだし、時が経つのは本当に早いものだ。一年を一話数千字ですっ飛ばして進めてるからだろって? いやいや、三十過ぎれば一年なんてあっという間だぞ、マジで。
果雨ちゃんのおっぱいの成長は未だに止まる気配がなく、おっぱいを超えたおっぱい、Hカップの『超乳』へとランクアップした。FカップやGカップのグラドルは数え切れないほどいるが、Hカップの域になると、その数はぐっと絞られる。巨乳を超えた巨乳の狭き門。大学受験より遥かに高いHカップの壁を、果雨ちゃんは易々と超えてみせたのだ。
グラビアアイドルにとって、Hカップを超えたおっぱいはそれだけで強力な武器になるし、Hカップなのにぽっちゃりしていないグラドルとなると更に数は限られる。故に、Hカップを超えるグラドルは決して多くはないけれど、その中にはグラビア界でもトップクラスの人気と知名度を誇るグラドル達が綺羅星の如く名を連ねているのだ。
Hカップへと成長した果雨ちゃんは、ランキングや話題性だけでなく、スタイルに於いても、グラビア界の修羅の国、その門を叩いたわけである。
しかし。
この『しかし』という接続詞を、俺は用いなければならない。
好事魔多しとはよく言ったもので、先日、テレビのバラエティ番組の収録中に、果雨ちゃんは過労で倒れてしまったのだ。
最も危惧していたことが起こってしまった。仕事と勉学で多忙を極める彼女の体には、見えない疲労が着実に蓄積されていたのである。事態を重く見た果雨ちゃんの所属事務所は、彼女に急遽一週間の休養を命じた。ただでさえ過重労働に対する風当たりが強くなっている昨今、将来の稼ぎ頭と期待している細川果雨は特に大事に扱うべきという判断だ。
そんなわけで、果雨ちゃんは今、大人しく自宅療養中である。
俺のようなダメ社会人だったら喜んで引きこもるところなのだが、真面目すぎる性格の彼女にとって、これは想像以上にショックな出来事だったようだ。仕事に穴を空けてしまったという自責の念にかられ、それを覚えたての酒で紛らわし始めた。
休養初日の昨夜、仕事から帰宅した俺は、居間のテーブルの上に並ぶ酒の空き缶、空き瓶の量に驚いて思わず声を上げてしまった。果雨ちゃんは顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏し寝息を立てており、耳元で大声を出しても容易には起きず、体を揺すってどうにか意識を取り戻すような有様だった。
「果雨ちゃん! 果雨ちゃん! どうしたんだ、これは!」
「う、う~ん……」
酒臭い息を吐きながら俺の体にもたれかかる果雨ちゃんは、これまでに見たどのグラビアよりも色っぽく、艶めかしかった。部屋着の緩い襟元から覗くデコルテと深い谷間。俺は慌ててそこから目を逸らした。
「だめじゃないか、こんなに飲んじゃ……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
がっくりと力なく項垂れながら、まるで神に懺悔する罪人のように、果雨ちゃんは何度もその言葉を口にした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……私はダメな子です……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「か、果雨ちゃん……?」
俺は、驚きのあまり彼女を責めてしまった自分の軽率さを激しく後悔した。真面目で責任感の強い彼女のことだ、既に決まっていた仕事をキャンセルしなければならなくなったことで、自分を責めていたに違いない。今回の事務所の素早い対応だって、そんな彼女の性格を考慮したものだったのかもしれない。子供の頃からずっと彼女を育ててきたのに、俺はなんとバカなのだろう。
この時、俺の脳裏を最悪の予感がよぎった。
このままでは、彼女はうつ病になってしまうかもしれない。
そして同時に、こうも思った。
今の彼女を救ってやれるのは、俺しかいないのではないか。
その翌日、つまり今日から、俺は会社を休むことにした。
うまい理由を思いつかなかったので、会社には適当に『インフルエンザ』と報告した。まだ有給もたっぷり残っていたはずだが、上司は電話口で激怒して、『こんな真夏にインフルエンザなんて見え透いた嘘をつくんじゃない!』と喚き散らしていた。だが、細川果雨の同居人が俺であることを事務所が未だに伏せているからには、本当のことを言うわけにもいかない。まあ、もういいんだ会社なんて。どうせ昇進の望みはないし、クビになったら仕方ない。俺にとっては、職場なんかより果雨ちゃんのほうが遥かに大事なのだから。
休養初日に大量の酒を呷った果雨ちゃんは、今朝から胃腸の調子を崩していた。慣れない酒をいきなり浴びるように飲んだのだから無理もない。だから、俺の料理も今日はなるべく彼女の胃腸に負担のかからないものにしなければならなかった。
今日の夕飯の献立は、たまご粥、ささみと豆腐のハンバーグ大根おろしがけ、キャベツの千切り、パパイヤとヨーグルトのデザート。果雨ちゃんの胃に最大限配慮したメニューとなった。
最近は何かと目の敵にされやすい炭水化物だが、本来は人間にとって最も欠かせないエネルギー源であり、胃腸の調子が悪くても、負担にならないような形でしっかり摂取しなければならない。その上で、お粥は当然の選択である。
また、胃の粘膜の元となる蛋白質も不可欠となるが、脂っぽいものは避けなければいけない。その上で、卵、鶏ささみ、豆腐は低カロリーで蛋白質を補える優等生の食材だ。豆腐と鶏肉はこれまでおっぱいの成長を促す食材としても取り上げたことがあるが、健康的でバランスのとれた食事は、いついかなる時でも我々を助けてくれるのだ。
大根にはアミラーゼというデンプン分解酵素、プロテアーゼという蛋白質分解酵素、リパーゼという脂肪分解酵素が豊富に含まれていて、いずれも消化を助けてくれる。また、大根はすりおろすことでイソチオシアネートという成分を生み出し、このイソチオシアネートには消化促進、抗酸化作用など様々な効用があって、美肌効果も期待される。消化酵素もイソチオシアネートも熱に弱く、生のまま大根おろしで食べるのが望ましい。整腸作用に限らず、古くから『大根おろしに医者いらず』と言われるほど様々な効用がある健康食材なのである。
おっぱいの成長を促す食材として紹介したことのあるキャベツは、『天然の胃腸薬』とも呼ばれるほど高い整腸作用を持っている。胃腸の粘膜の修復を促進するキャベジン、リゾホスファチジン酸という二つの成分を含むキャベツは、生でなるべく細かく切って食べることで高い効果を発揮する。揚げ物に脇役として添えられるキャベツの千切りは、実はこれほど重要な役割を負っているのだ。
パパイヤは、植物の中では最強の消化酵素を持っていると言われる食材だ。パパイヤが持つパパイン酵素は、脂質、糖質、蛋白質全ての分解を強力にサポートする能力を持っている。ヨーグルトの乳酸菌が持つ整腸作用については、今更俺が説明するまでもあるまい。胃に負担のかかる牛乳はしばらく避けて、ヨーグルトで乳製品を補おうという狙いである。
おっぱい食材はお休みだ。今回は果雨ちゃんの胃腸を労わることが至上命題なのだから。
……と思っただろ?
甘い。甘すぎる。
果雨ちゃんは既に修羅の国へと足を踏み入れてしまったのだ。最早一日たりとも休むことは許されない。
今回俺が注目した食材は、『パパイヤ』である。
世界一のパパイヤ生産国であるブラジルでは、パパイヤのことを『マモン』と呼んでいるらしい。これは、おっぱいを意味する『mama』と、大きいことを形容する『ão』という語尾を足してマモンと読む。つまり、ブラジルでは『パパイヤ=巨乳』なのだ。
何だ、今回は名前だけか、と思ったそこの君。甘い、甘いぞ君は。
パパイヤは女性ホルモンでお馴染みのエストロゲンを豊富に含む食材としても知られている。中国では、パパイヤを用いたスイーツを毎日のように食べ続けた女性が、おっぱいが過剰に成長してしまう『巨乳症』になってしまったという例もある。パパイヤは、正にワールドワイドな巨乳フードなのである。
果雨ちゃんの胃腸を労わりつつ、おっぱいへの投資も欠かさない奇跡の巨乳トリック、ここに極まれり。
いつもなら『果雨ちゃ~ん、ご飯できたよ~』というお決まりの台詞が出てくる場面だが、重い二日酔いに苦しむ彼女は、今朝からずっと居間で横になっている。食事のために体を起こすことぐらいはできるのだが、歩くと頭がガンガンするらしい。だから、今日は居間まで俺が食事を運ばなければならないわけだ。まあ、たまにはこんな日があってもいいじゃないか。
思えば、果雨ちゃんとこうしてゆっくり過ごすのも随分久しぶりのような気がする。彼女の仕事が忙しくなってからは週末もスケジュールがびっしりで、家にいないことが多かったからだ。
俺の可愛い可愛い扶養家族だった細川果雨は、成人し、既に俺の手を離れつつある。この先、こうして彼女に尽くしてやれる機会はあとどれだけあるだろう。そう考えると、上司の不興を買うことぐらいは屁でもない。
「果雨ちゃん、ご飯持ってきたよ」
居間のテーブルに食事を並べると、彼女はのっそりと布団から体を起こした。髪はボサボサ、目はどんより。辛そうに頭を押さえる猫背の細川果雨は、今をときめくグラビアアイドルとは別人のようだった。だが、俺はそんな彼女の姿を見て不思議と安心した。今までずっと無理をしていたのだろう。こんなにリラックスした素の表情を見られたことが、俺にとっては何よりも嬉しかったのである。
「うん……ありがとう」
果雨ちゃんは、温かいたまご粥の入ったお椀を持ち、スプーンで掬って口に運んだ。
「どう? おいしい?」
彼女は、これまでで最も語彙と気力に欠ける、しかし心の篭もった口調で一言だけ答えた。
「うん……おいしい」
その瞬間の彼女のほっとした表情を、俺は一生忘れないだろう。
どんな凄腕のカメラマンでも撮れないような、本当の細川果雨の笑顔がそこにあった。
初めて彼女がうちに来た時、俺が『しばらくの間、うちで面倒を見てあげよう』と言った直後の、あの笑顔。
彼女は俺にとって、紛れもなく、俺の生活を変えてくれた天使なのだ。
「よかった。何か、食べたいものとか、してほしいこととかあったら、何でも言ってね。俺、果雨ちゃんのためなら何でもするからさ」
「じゃあ……一つだけ」
彼女は少し間をおいてからぽつりと言った。
「あのね、私のこと『果雨ちゃん』って呼ぶの、やめて欲しい」
「えっ……」
俺は一瞬パニックに陥った。彼女の言葉の意味するところ、その様々な解釈が頭の中を乱れ飛ぶ。
「私、もうニ十歳だよ。お金だってそこそこ稼いでるし、そりゃお兄ちゃんから見たらまだまだ子供かもしれないけど、何ていうか……今まで養ってくれたことにはとても感謝してる。でも、私はもっと対等な関係になりたい。会社、今日は私のために休んでくれたんでしょう? 迷惑かけてる真っ最中にこんなこと言うのも気が引けるけど……」
「果雨ちゃ……」
習慣とは恐ろしいもので、言われたそばから俺は彼女を『果雨ちゃん』と呼ぼうとしていた。
この日が来るのを、俺は心のどこかでずっと恐れていたのかもしれない。彼女を『果雨ちゃん』と呼べなくなるその日のことを。
しかし、何でもすると言ってしまった手前、今更それを撤回するわけにもいかない。
「わかったよ、果雨……」
「ありがとう。だからね、私も、お兄ちゃんのことをお兄ちゃんって呼ぶの、やめようと思うんだ」
冷たい予感が背筋を走る。
果雨はまっすぐこちらに向き直り、ゆっくりと口を開いた。
「
細川充人。それが俺の名前だ。
親父が死んで以来、誰にも呼ばれることのなかった名前。最近では病院の受付ですら名前を呼ばれることはない。だから、自分でも忘れかけていた、俺の名前。
心の奥底から、懐かしく温かい感情が泉のように湧き上がってくる。
これが終わりの始まりであることに、この時の俺はまだ気づいていなかったのだ。
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