第3話「手繰り寄せ」
***
私は、心から誰かを愛したことなんて一度もない。誰かを求めて必死になったこともなかった。
駅のホームで電車が来るのを待ちながら、私は自分の人生を振り返っていた。何故、突然この思考に至ったか。それは、今私の瞳から溢れているものが原因だ。
――――変わらない日常。失われることのない生活。程よく付き合える友人。この三つが揃っていた私の人生は、とても恵まれていたのだとそう思う。
何も特別なことなんてなくても、満たされていなくても、ある程度の幸せの中で生きていけたらそれでいい。そう思っていたのに、どうして私は『彼』から目を離せないのだろうか。
「ッぅ…」
私は今、駅のホームで泣いている。ひたすら涙を流して、嗚咽を漏らす。溢れる雫が、頬を伝った。
突然泣き出した私を見て、周囲の人間は距離を取る。心配そうに私を見つめる者もいれば、面白がっている者もいる。
その集団の中で、ただ一人だけが、私と同じ涙を流していた。十二歳程度の少年だ。大学生の私とは、どう考えても接点がなく、初対面のはずなのに、この感覚は一体何だ。
――――会いたくて焦がれていた人に、ようやく会えたかのようなそんな気持ちに、体中が支配されていく。
「…………」
「…………」
私達は見つめ合う。
電車が到着する音も遮断し、互いを認識する。
あの日の想いを――――思い出す。
少年は私に手を伸ばした。そして、頬を濡らす涙を拭うことすらせずに、私へ微笑んだ。
「苗」
待ち望んでいた言葉。待っていた声。
「…苗」
「っふ、っうぅ」
抑えようとしても、涙が止まらなかった。
知るはずのない私の名前を、彼は懐かしむように口にした。呼ばれるがまま、私も彼に手を伸ばす。私達は囚われたように、引き寄せられるようにその手を重ね合わせた。
触れた温もりが、失った記憶と共に流れ込んでくる。
――――変わらない日常。
――――失われることのない生活。
――――程よく付き合える友人。
今の私が持っているある程度の幸せ。これ等はかつて、彼が私に望んだ未来だった。
「いつ、き……樹ッ!」
私は無意識に、目の前にいる少年の名を叫んだ。
「な? だから言っただろ。また会えるって」
私よりもずっと幼い少年が、慰めるように頬に手を滑らせてきた。その手を掴んで、私は必死に頷いてみせる。
私は彼を求めていた。彼との幸せを望んでいた。彼と生きることを許してくれる、そんな世界を望んだのだ――――。
「うん…約束した…覚えてる…全部覚えてるよ、お兄ちゃんっ」
彼の目を見て、彼の声を聞いて、思い出した。あの日、私達が命を懸けて繋いだ約束を――――手繰り寄せた運命を。
「私達は、世界を変えられたんだね」
「ああ。もう神様に頼らなくたっていいんだ」
精一杯背伸びをして、樹は私の頬に唇を寄せた。
「だから泣かなくてもいいんだよ、苗」
「樹も泣かないでね。もう私のお兄ちゃんじゃないんだから」
繋いだ運命に身を寄せて、私達は笑い合う。私達の選択は、決して正しいものではなかったはずだ。それでも手に入れたい人がいたから、足掻いた。だから、どんな困難があろうとも、私達は互いを失わない。手繰り寄せた想いを貫いて生きていく――――。
手繰り寄せ 伊崎 @isaki9696
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