第2話「さいご」


 私達に希望と絶望を残して、神は姿を消した。


 ――――私と樹の運命を変える。その為に少年が出した『条件』は、それ相応の覚悟が必要なものだった。

 神が消えた後も樹は動くことなく、思い詰めた表情をして、踏み潰された花弁を見つめている。


「樹……」


 私にはわかる。

 ――――樹は、。神の条件を受け入れて、私と生きるつもりなのだ。だが、そうなればもうこれは、私達だけの問題ではなくなる。

 私達の未来だけではない。この世界の全てを変えることになってしまうのだ。


「ねえ、樹…本当にやるの?」

「うん。命を懸けてもお前を手に入れるよ」

「…後戻り出来ない。それでもいいの?」


 樹の手を握り、そう尋ねる。

 ここで私を選べば、もう二度と今の生活には戻れない。想いも命も――――全てを懸けることになるだろう。

 私の心配そうな声を聞いて、樹はくすっと笑った。そして、私の手を引き寄せると、抱き締める。


「…!」


 僅かな震えが伝わってきた。


「俺達、もうここまで来たじゃないか。今更戻れやしないよ、ただの兄妹には」

「…お兄ちゃん」

「神様が言ったんだ。俺と苗が一緒にいるには、もうこの方法しかないって――――……」


 私は、目を閉じた。そして、樹の言葉に耳を傾ける。


「俺達には、しか道がない」

「……うん」


 世界を丸ごと変えるとはつまり、過去、現在、未来。全てのことわりを掻き回すということだ。そして、私達が『兄妹』だという記録をこの世界から消し去る。その代償は――――『今』だ。私と樹が愛し合った日々。伝えた言葉。抱いた想い。苦しくともかけがえのなかった日々は、世界が改変されれば失われる。私達は、赤の他人となり生きていくのだ。


 樹との記憶も全て消えてしまう上に、再び出会えるという確証はどこにもない。それでも、私達はやるしかなかった。

 世界を殺してでも、私は樹と恋がしたい。知らない誰かの未来をねじ曲げて、悲しみをなかったことにして、世界を騙して掴み取る。

 ――――運命を手繰り寄せる。


「――――うん、そうだね。私もお兄ちゃんが欲しい」

「ありがとう」

「でも……怖いの、私」


 彼と出会えない未来なら、生きていても仕方がない。世界を変えても結ばれないのなら、この魂に希望なんてない。


「苗」


 頬に手を当てられて、俯いていた顔を上げさせられる。彼の目に迷いはなかった。


「苗、お前何が怖いの?」

「だって、樹と過ごした全部が……記憶がなくなっちゃうんだよ? 私達の思い出が消えちゃうのに、怖くないわけないじゃない」

「でも、あいつ言ってたじゃないか。俺とお前が再び出会うことが出来たら、その瞬間に記憶は甦るって」


 彼の瞳が一瞬だけ揺らぐ。


「互いを失ったまま、生きていくんだよ…?」


 それは、今よりももっと辛いのではないだろうか。

 そう脅える私を見ても、樹の決心は変わらなかった。本当は彼だって、心のどこかで恐怖しているはずなのに、それでも神の言葉を信じているのだ。


「大丈夫だよ。俺達は必ずまた会える」

「いつ、き…」


 その先に未来なんてなくても、彼が兄で幸せだった。その記憶が消えてしまうのは、とても恐ろしい。


 ――――だが、それでも私は樹を選ぶ。世界を歪めてでも手に入れたい人だから。私はこの感情を許されないなどと思いたくない。


 私達は額を重ね合わせて、互いの温度を焼きつけた。


「ねえ、苗。俺ね、お前にあげたいものがたくさんあるんだ」

「何?」

「……変わらない日常。失われることのない生活。程よく付き合える友人。今の俺じゃ与えてやれないものばかりだろ?」

「樹以外いらないもん」

「可愛いこと言うなよ、もう。俺は苗に幸せになってほしいんだよ。あわよくば、俺がそうしてあげたい。だから……」


 一度顔を離して、樹は私の肩に手を置いた。


「少しでも望みがあるのなら、俺はそれに懸けたい」

「なら、私も全てを懸けるよ、お兄ちゃん」

「いいの?」

「自分から言い出したくせに!」

「そうだけどさぁ…」


 樹が唇を尖らせて俯いた。その時だった。

 ――――キィイイイイインッ!!


「ッ、きゃああああッ!!」

「! 苗ッ」


 激しい耳鳴りが頭の奥から響いてきた。突然の衝撃と痛みに、私と樹は互いを庇うように抱き締め合う。

 一体何が起きている。そう混乱する私達の頭上に、あの少年が再び現れた。


「覚悟が出来たみたいだねぇ、人間?」

「…神、様っ」


 ――――そうか。世界が変わるのか。


「僕に運命が変わる瞬間を見せてよ」


 そう呟いて、神は再び姿を消した。最後の言葉と表情が、どこか切なく感じた私は、呆然と彼がいた場所を見上げた。


「もう、終わりなんだね」


 樹はそう言い、私を掻き寄せるように強く抱き締める。


「大丈夫?」

「うんっ…」

「苗」

「何?」

「……苗、苗、苗っ」


 忘れないように、私の名前を唱え続ける樹の頬に、私は唇を押し当てた。彼の瞳から流れた涙が唇に落ちる。


「お兄ちゃん、大好き。大好きよ」


 今しか伝えられない私の想い。


「俺も好きだよ、苗。大好き…」


 今しか聞けない彼の想い。


「俺が絶対に見つけてみせるから。たった一人の妹なんだ。見つけられるに決まってるだろ?」

「うん、待ってる。一生待つから、迎えに来てね」


 桜の花弁が宙を舞う。私達の視界を埋め尽くし、世界を包み込んだ。


 実の兄妹で恋をして、挙げ句の果てに世界を破壊する。歪んでいると言われても否定出来ない。だが、それでも私は想うことを諦めない。だって、私達は恋をしたかっただけなのだから。


 ふいに手繰り寄せられる。そして、意識が消える寸前に感じた彼の唇の温もりだけは、忘れたくないとそう思った。

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