彼女を抱きしめるまであと、



【彼女を抱きしめるまであと、】



 さて問題です。――――彼女を抱きしめるまであと、何秒?


  俺には婚約者がいる。彼女との婚約が決まったのは、彼女がまだ生まれてもいない頃だった。その頃の俺は不毛な恋の真っ最中で、みよこさんとの恋は叶わないとわかっていたけれど、この先みよこさん以上に愛せる女性はいないだろうと思い込んでいたから、周りに結婚をする意志がないことを伝えていた。


 孫の顔を見たがる両親以上に結婚を進めてきたのは高校時代の恩師だった。俺の片思いの相手のことも先生はよく知っていて、だからなのか先生は色んな相手を俺に紹介してきた。

『結婚する、しないは君の自由だよ。でもね、今にばかり囚われて、未来を決めてしまうのはどうかと思う。なあに可能性は無限大だよ』


 先生の家に遊びにいったとき、奥さんと先生が仲睦まじくしているのを見て、ふたりに憧れなかったわけではない。ちょうどそのとき先生の奥さんは妊娠中で、だからこそあんな言葉を漏らしてしまったのかもしれない。

『先生の娘さんとならいいですよ』だなんて。


 俺の言葉に先生は大喜びして、ついでに俺の両親も喜んだ。そして俺は年の離れた、しかもまだ生まれてさえいない女の子と婚約することになった。

 生まれてさえいない、女の子。彼女は一体どんな子だろう。そう思うと、まだ見ぬ彼女がもうすでに、ちょっとだけ愛おしかった。


 やがて彼女はこの世に誕生して、すくすくと大きくなっていった。大きくなるにつれて、何時しか彼女に疎まれるのではないかと怖くなった。でもまあ、それはしょうがない。

 彼女だって恋をしてみたいだろう。こんなにも年の離れた男ではなく、同年代の若い男と。それには婚約者なんて邪魔なだけだ。

 でも、願わくば彼女が自分に恋をしますように。

 いつの間にか、俺は彼女に恋をしていた。


 高校生になっても、彼女に婚約破棄を申し入れられることはなかった。そのことに安堵する。

 幸いにも彼女は自分を慕ってくれているようだが、それがいつどうなるかなんてわからない。

 休日になると彼女と一緒にあちこちに出かけた。彼女が行きたいという場所に連れていく。それをこっそりデートと呼ぶのは自分だけだろうか。

 昔、俺は確かに恋をしていた。彼女以上に好きになる人はいないと思っていた。今思えばそれは、叶わぬ恋に酔っていただけだったのだろうか。だから先生はあんなにも心配して世話を焼いてくれたのだろうか。

 

                


  俺から見るときみはまだ子供で、だからこの想いを告げることをためらってしまう。きみの可能性を、未来を、俺の言葉で縛り付けてしまいそうだから。

『愛しているわ。あなたが好きよ。わたしは、あなたが好きなの』

 かつて自分が、愛した人の言葉に囚われていたように。


                 

 

  最近は彼女が家に遊びに来ることが多い。散らかっている俺の部屋に来て、掃除をして料理をして、夕方になったら帰る。水族館や遊園地や映画館にも行くことは行くが、彼女はなぜか家に来たがる。俺の家と彼女の家はわりかし近いので、夕方になるといつも彼女を送っていく。その際、彼女は必ず手を握ってくる。えへへ、とちょっと照れたように笑いながら。

 かわいいなあと思う。愛しいなあと思う。こんな年の離れた男と手を繋いで、こんなにも幸せそうに笑ってくれる彼女が、ああ俺は好きなのだ。


 だから正直、今、あなたに登場されても、俺はもうなんとも思わないんだよ、みよこさん。


 遊ばれていたのだと、今ならわかる。

『あなたが好きよ。わたしはあなたが好きなの』

 何度も何度も囁かれた言葉。忙しい旦那を持つあなたは寂しかったのだろう。色気もある金もある美貌もある、そんなあなたの寂しさを紛らわすのに、なるほど、俺はぴったりだった。あなたのお眼鏡にかなうくらいに整った容姿と、そこそこ出来のいい頭と。

 勉強は出来たほうだったけれど、美しい女に愛を囁かれてあっという間に恋に落ちた。彼女みたいな女性が、俺みたいな普通の大学生を本気で相手にするはずがないと少し考えればわかったはずなのに。

 悲劇の恋愛小説の主人公よろしく、叶わない恋に酔って、もう誰も愛せないなんてそんなことを思って。

 一部の人間は俺が未だに彼女を忘れられないと思っているようだが、声を大にして俺は言いたい。あれは黒歴史だったと。

 消し去りたい過去なのだ。本当に。


  なのにみよこさんが今ここに現れて、離婚したことをわざわざ言いに来て。だから一体なんだっていうんだ。今度はちゃんと付き合えるわよ、って? 馬鹿馬鹿しい。

 ああ、俺の大事な彼女が泣きそうな顔をしている。きみは意外とわかりやすいから。

 ねえみよこさん、お願いだから余計なことを言わないで。あなたがかつての俺の想い人だって気づいた彼女を、これ以上不安な気持ちにさせたくない。


 俺が口を開いて、言葉を紡ごうとした途端、耐えられなくなったのか彼女が繋いでいた手を振り払って走り出した。俺が止める暇もなく、彼女は走って行ってしまう。

 追いかけて、伝えないと。誤解されたままなんて、絶対に嫌だ。きみから拒絶されるなんてそんなの、とてもじゃないけれど、耐えられない。

 でもその前に伝えないと。

 艶然と微笑む美貌の女性に俺は告げる。


「みよこさん、昔の俺は確かにあなたのことが好きだったけれど、今は彼女一筋なんです。だからもう、あなたのことは考えられない」


 ふふふと、みよこさんは小さく笑って。


「そうみたいね。実は離婚なんてしてないの。主人の都合でちょっとだけ、この町に戻ってきただけよ。心配しないで、もうちょっかいは出さないわ。……わたしは本当にあなたが好きだったから、あなたがどうしているかちょっと心配だったの。立派になったあなたを見て安心したわ。早く彼女を追いかけないと後悔するわよ?」

「……みよこさんの言葉はいまいち信用ならないけど、そうしますよ。今までどうもありがとう」


 みよこさんに一礼して急いで彼女を追いかける。彼女はきっと家に向かっているはずだ。急がないと、勝手に婚約破棄されてしまうかもしれない。

 それだけは絶対に阻止しないと。そうして告げてしまおう。今まで一度も言葉にしなかったけれど。

 きみが好きだよ、って。


――――――さてさて、彼女を抱きしめるまであと、何秒?


 その瞬間を俺は、歓喜に胸を震わせて待つのだ。

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その手が離れるまであと、 秋月瑠奈 @a-akizuki

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