その手が離れるまであと、

秋月瑠奈

その手が離れるまであと、

【その手が離れるまであと、】



 さて問題です。――――その手が離れるまであと、何秒?



 今時さ、親の決めた婚約者なんて古いって、そんなの誰もが思うでしょ。だけどわたしにはその婚約者がいる。それも生まれた時からの。

 ここまでくるとなんだか漫画か小説のようだけれど、これは現実だ。

 わたしの両親は何としてでも、彼に結婚させたかったらしい。ずっと手の届かない人を追い求めて、不毛な恋をし続けている彼を。

 だからって、だいぶ年の離れた自分の娘を婚約者にする必要はないと思うのだけれど、彼が『先生の娘さんならいいですよ』と言ったので、わたしは彼の婚約者になった。『先生の娘さんならいいですよ』ってそれ、明らかに結婚する気ないよねぇ? だってわたしはまだ母親のおなかの中にいたのにさ。

 でもまあ、わたしの両親は大喜びして、――彼の両親も賛成して、わたしは母親の胎内にいるときから婚約者持ちになった。 

  小さいときは何とも思わなくても段々と大きくなっていけば、わたしがちょっと特殊なケースだってすぐにわかる。きっと彼はわたしが嫌がって、婚約破棄を申し入れてくるのを待っていたんだと思うけれど。

 わたしは彼の存在を思いっきり喜んだ。というか、相手が彼ならわたしでなくても喜ぶと思う。

 だって彼、イケメンだもの。しかもしっかり稼いでいるし、真面目だし。年の差なんて些細な問題である。そもそもわたしは年上が好きなのだ。これで喜ばないわけがない。

  しかしまあ、物語の中だったら、彼がわたしのことを愛してくれるようになるのだろうけど、ここは物語の中じゃないから。わたしは今、ピンチを迎えている。




 どこか見覚えのある、綺麗な女の人が彼の名前を呼んだとき、彼の表情が凍った。

 デート――わたしが勝手にそう思っているだけだったとしても――の帰りの楽しい気分はあっという間に消え去った。なぜかとてつもなく嫌な予感がして、そういうときのわたしの予感はよく当たるから本当はすぐにでも立ち去ってしまいたかった。

 わたしの手を握る彼の手に力が入って、緊張が伝わる。


「久しぶりね、元気だった?」

「……ええ、みよこさんもお元気そうで何よりです」


 ああビンゴだ。みよこという名前には聞き覚えがある。いつだったか酔った父がぽろっと漏らした、彼の想い人の名前。

 綺麗な人だ。十代の小娘なんかとても太刀打ち出来ないような、気品と色気と。

 そりゃあ、忘れられないよね。

 彼がわたしの前で自分の想い人について語ったことはない。わたしもただ彼には想い人がいるという話しか聞いたことがない。


「わたしね、この町に戻ってきたの。どういう意味か、わかるかしら?」


 彼女はわたしの存在などまったく気にも留めていない。そしてそれは彼も同じだ。ああ、これほどにみじめなことがあろうか。


「……離婚したの。主人と」


 お願いだからもう何も言わないで。あなたほど綺麗な人ならほかにもっといるじゃない。わたしは彼しか要らないのに。ずっと、好きなのに。ずっとずっと、好きなのに。

  彼の心が揺り動かされているのが、手に取るようにわかった。

あなたが現れなければ、このまま何事もなければ、わたしはこれから先も彼の隣に立てたのに。

 ねえあなただけが不毛な恋をし続けてると思っているなら、それは大間違いだ。わたしだってずっと、長い間、報われない恋をしている。いつかいつかこの想いが届きますようにと願いながら、わたしはあなたのそばにいたのに、やっぱりわたしじゃ無理みたいだ。

 婚約は破棄ですね。

 そもそも結婚する気なんて、わたしを好きになる気なんてこれっぽっちもなかっただろうけど。

 


 ――――――さてさて繋いでいるその手が離れるまであと、何秒?


 その瞬間をわたしは、涙を堪えて待つのだ。






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