【貞淑という仮面】ーある不倫妻の告白
千葉七星
*—ジキル&ハイド—*
【貞淑】:女性の
春の生温い風が、開き放たれたリビングの窓から吹き込んで来て、レースのカーテンをふわふわと揺らしている。私は、紅茶のカップを片手に、昼のテレビ番組をぼーっと眺めていた。
私、
相手は、大学時代に付き合っていた二つ年上の、元カレです。
私は、結婚して二十年、夫と二人の子供のために必死で家庭を守ってきたつもりでした——。ええ、あの時までは……。
夫は、一つ向こうの町の某信用金庫の支店長です。銀行マンとしてそんなに秀でた実績があったのかは知りませんが、旧態依然なその信用金庫の人事評価制度は、真面目だけが取り柄の男であっても、ちゃんと出世させてくれたようです。私は夫には何の不満もありあせん。ギャンブルや酒、女に手を出すこともなく、ただ、家と職場を規則正しく往復するだけの男だったので、家庭内はいたって平和に時が過ぎていってました。
平和すぎるほど、平和に……、退屈すぎるほど、退屈に……。
とうぜん、人さまに後ろ指など指されるような間違いも起こさずに——。
あれは、去年の夏の暑い日でした。銀座に買い物に出かけた私は帰り際にすごい勢いの雨、そう、ゲリラ雨に見舞われてしまって、仕方なく地下街の珈琲館で時間を潰していたんです。
——恵子……じゃないのか?
隣の椅子に腰掛けて居た男が私の名を呼びかけて来たので、声の主を確かめてみると、それが元カレだったのです。もう、二十数年も前のことですけれど、彼は全然変わっていなくて、いや目尻の皺やふとした仕草にも男の色気が増していて、ギラギラした目の男になっていました。ええ、夫にはない男臭さもです。
取り留めもない話を一時間ほどしてから、私たちはその珈琲館を出て地上に上がったのですけど、まだ雨の勢いは強くて、仕方なく地下鉄の駅まで走ろうかと考えていた時、彼はタクシーを止め、私を先に乗せて「渋谷」と言ってドアを閉めました。降り着いた先は「ラブホテル街」でした。
——わたし、帰るね
そんな風に拒絶したつもりですが、彼は私の腕を掴んで強引にホテルに連れ込んだんです。数十メートルの距離でしたが、私たちはずぶ濡れになって、部屋に入りました。
——脱いだら? 風邪引いちゃうよ?
私は、今朝家を出るとき、なぜか買ったばかりの自分には少し派手かもしれない上下の下着をつけて出てきたことを思い出し、心のどこかで安堵し躊躇するふりをしながらも、ジャケットとスカート、ブラウスと脱いでゆきました。それはまるで、こういう時が来るのを知っていたかのようなタイミングだったのです。
シャワーを浴びることもなく、彼は私の身体を性急に求めて来ました。私だって四十五になる女ですから、それがどういうことかも知らずこの原色に彩られた部屋に付いて入ったわけではありません。当然、男と女のすることは一つです。
ただ、私は、この元カレと別れて、いや、捨てられてすぐに今の夫と結婚を決めたので、夫以外の男とセックスをするのはそれ以来ということになるのです。
彼のセックスは全く違いました——。
付き合っていたあの頃はまだ若かったのでしょう、今のそれは数々の女と経験をこなして来たのであろうと思わせるほど老練で、セックスに未熟だった私の身体は一瞬で彼の蠢く舌に捕縛され、容赦なく刷り込まれていったのです、この年まで知りえなかった、セックスの悦びを。
身を固く閉ざして受け身でいた私の耳元で、彼は何度も私の名前を呼び、ずっと好きだった、今でも大好きなんだ——と。あのとき別の女を作ってあっさり私を捨てた男が白々しいのにもほどがあると、違う目で二人の絡みを見ている冷静な私が居て、しれーっと呆れていたのでした。
それでも、何度も繰り返されるその甘美な言葉は、私が身に纏う鎖を徐々に解きほぐしてゆき、舌を絡め取られ強く吸われたときには、もう冷静な私はどこかに消えて居なくなっていました。
私の中で何かが弾けた、いや、切れた——、とでも言うのでしょうか、プチんって音がしたかと思うと、私の顔から何かが転げ落ちたのです。そのあとの私は、彼の後ろ髪を搔きむしり、大胆にも大きく股を開いて彼を受け入れていました。
その時彼は、三度も私の中で果てました。
セックスを終えた後も、彼は私の耳や髪にキスをしては、なかなか私を解放してくれませんでした。
それが、どんなに新鮮だったか——。
夫にとって、私はただの家政婦であり、二人の娘の面倒を観る母親なのであって、決して耳元で「好きだよ……」などという甘い声など呉れない、ただの働き人だったのです。
それは、結婚当初もそうでしたけど、まだ週に一度とか、月に一度の儀礼的なセックスがあったときは我慢もできましたけど、二人の子供を産んだ私はもはや、夫にとっては「女」ではなく、「妻」であり「母親」というポジションに移り変わってしまったのです。
私だって、時には男が欲しいときはあります。そんな夜、気恥ずかしいのを我慢して淫靡な下着姿で、半ば娼婦のように夫を誘ってみるのですが、なにか汚いようなモノでも見るような目で拒絶され、早々に寝入ってしまう夫の背中を恨めしく見た三度目の夜には、私は夫の「妻」を辞めたのです。それからは、ひたすら「貞淑な妻」を演じることにしたのです。貞淑で賢母——、それが私の演じる唯一の立ち位置だった気がします。
あの男に抱かれた時、私の顔からこぼれ落ちたもの——、それは今思えば「貞淑」という仮面だったのかもしれません。事実、それまでの私は「貞淑」を絵に描いたような人妻を演じていたのですから。
それ以来、彼とは毎週のように会ってはセックスに溺れています。夫や家族には絶対バレないようには気をつけていますが、少し勘ぐれば私の最近の行動は大胆なものかもしれません。
以前には付けたことのないような色の下着を買ってみたり。さほど気にもとめなかった肌の劣化には敏感になり、こっそりエステにも通うようになったのです。
そんなことをしていても、夫は全く私には無関心で、ベランダに、ベッドルームからも見えるように派手な色の下着を干しておいても、何の疑いも持っていません。
ただ——。
最近、上の娘、大学一年生なんですけど、彼女は時々私をまじまじと見ていうのです。
ママ、最近、綺麗になったね——、と。
私は、夫に言われるよりもドキりとして、ただ曖昧な微笑みしか返せないでいました。きっと、この不貞な私の罪を暴き咎めるのは夫ではなく、この娘なんだろうなと、最近はその断罪の時がいつやって来るのか少し不安です。
都心から一時間半という閑静な郊外に家を買ったのは十年前。まだ十五年もローンが残っている。末の娘だって大学に行かせなきゃいけませんし、夫はそんな家族を守るために、毎日毎日、職場であるあの小さな町の信用金庫に出かけてゆきます。グレーのスーツに紺色の靴下。ネクタイは主張を抑えた色目のもの、本店からの厳しいノルマに疲れ切った目を隠すような分厚いレンズのメガネ。
そんな夫の背中を玄関で貞淑な妻として見送った後、私は変身の準備に掛かるのです。
今日は、木曜日だ——。あの男との逢瀬の日。
念入りにシャワーを浴び、クローゼットの奥に隠した薄紫のキャミを着け、鏡の前に座って髪をとぐ。
今の私にとってこの時間が一番の至福の時なのです。逸る気持ちを抑えて時間をかけて化粧をし、最後に一雫のコロンを指先で受けとめ、両の耳たぶに刷り込む——。
そうやって、私は変身を遂げると、人目を憚って裏通りを歩き、駅でもずっと下を見つめて電車を待つのです。
後ろめたい、というのもありますけど、高鳴る胸の鼓動を誰にも気取られたくない、というのが本当のとこです。
女子高生が初めてのデートに行く時みたいです。
そして、ほんの二、三時間の時を、狂ったようにあの男を求め、夫の前では出したこともない歓喜の声を恥じらいもなく出しては、あの男のものを自分の体の奥深いところで受けとめて、何か勝ち誇ったような優越感に浸るのです。
こんなことが長く続くとも思っていませんし、彼も私も今の生活を壊すつもりなど毛頭ありません。ただただ、逢ってケダモノのようなセックスをして帰るときは別々に部屋を出る——、そんな関係なのです。世間はそれを「不倫」行為だというのは分かっています。
最初の頃は、まだ彼の感触が下半身に残っているにも拘らず、遅く帰ってきた夫の食事の支度を健気にする貞淑な妻を演じたり、娘のテストの結果に一喜一憂する賢母の顔を平気で作れる自分がいったいどんな悪魔なのかと夜中に身震いすることは何度かありました。
けど———。
けど、私はこの不倫と呼ばれる男と女の関係を止めるつもりはありません。まっ、また彼に捨てられたなら別ですけど、そうでない限りは、ずっと「貞淑」の仮面を被って偽りの姿を家族の前に晒して生きていくつもりです。
こんな私には、いったいどんな重い罰が待っているのでしょうか———。
* *
ふと、顔をあげ掛け時計を見ると、午後三時を指していた。私は、テレビのリモコンを掴み取り、電源を切った。
『ある不倫妻の告白』という、そのテレビ番組は、主婦たちの間では結構人気があるらしい。自分にはできないけど、人がしていることを少し斜め目線で興味本位に見ては、最後には告白主を社会正義という錦の御旗を振りかざしては断罪して変わらぬ日常の鬱憤を晴らしているのでは?——と、その番組の人気ぶりの理由をネットでは語られている。
今日、その番組で読まれた「不倫妻の告白」の主が、私であることは、誰も知らない。
誰に聞いて欲しくて投稿したんだろう。曝け出して何の得もないのは分かっていたけれど、自分の投稿が読まれたことに私は満足感を得て少し小躍りしたい気分だった。
誰だっていい、誰にでもいい——、認めて欲しかったのかもしれない……。私という女の存在に僅かでも
————————————————
末娘が、学校から帰ってくる時間だ。育ち盛りだから、きっと何か食べさせて、と言うだろう。私は、パンケーキでも焼いてやろうと思い立ち、台所へと立った。食器棚の上にスタンド型の小さな鏡が置いてある。気になって自分の顔を映し出してみた。
目尻の小じわが気になり薬指の腹でゆっくりマッサージしながら、その存在を確かめた。
貞淑、という仮面を被った私が、そこに居るのを———。
——ただいまー ママー、お腹すいたよぉ
平和な日常がそこにあった。
私は、もう一度鏡に自分を映して、それを確かめてから振り向いた。
——おかえり。パンケーキ焼くね
パンケーキの粉をボールに注ぐ私の背中に、断罪の一矢が飛んで来た。
——ママって、ジキルとハイドみたい
私は、背中で娘の視線を受け止め、無言でパンケーキの粉を混ぜ続けた。
ちらりと横目で、鏡に映る自分を確かめ、乱れた息を整える。
そして、賢母の微笑みを携えて、言うのだ。
——ママ、ジキルがいいな。だって、ハイドって陰気じゃない?
毒を皿まで喰らった、気分だった———。
【貞淑という仮面】ーある不倫妻の告白 ー了ー
千葉 七星
【貞淑という仮面】ーある不倫妻の告白 千葉七星 @7stars
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