ふえるわかめ

霧島ジュン

ふえるわかめ

「篠原、また昼飯それだけ?」

 とある国立大学理学部研究棟で、大学4年生の僕は大きな菓子パンの袋を開けながら溜め息をついた。

「うん、いいの。やっと1キロ減ったんだからこの調子で頑張りたいし。」

 研究室のパイプ椅子をぎしり、ときしませながら同じく4年生の篠原カスミはサラダの入った小さなタッパーを振ってみせる。

 大学に入学したころの彼女は中肉中背といった感じだったそうだが、昨年くらいから徐々に体重は増え、現在では見事にぽっちゃりになってしまった。

 彼女がダイエットを始めたのは、最近告白して振られたことに原因があるらしい。

「カスミちゃん、痩せて綺麗になって高橋君を見返すんだよね!」

 生物学の膨大な資料の山からひょこっと顔を出した新山リナは、篠原と対照的で華奢な体形をしている。

 篠原は新山の小さな顔を妬まし気に一瞥すると、かぱっとタッパーを開けた。

「リナはいいよね、お腹いっぱい食べても全然太らないじゃん。」

「そんなことないよぉ、この前も彼氏とケーキバイキング行って体重増えちゃったもん。」

 彼氏、という言葉を聞いてサラダをつつく右手が止まった。

 今の、もしかして新山はわざと言ったんじゃないのか…女子ってこわい。

「ま、まぁ、篠原もあまり無理せず頑張れよ。体調壊したらやばいから。」

「わかってるよ。」

 篠原は肩をすくめて笑ってみせた。

「うーん、ちょっとの量ですごくお腹いっぱいになる食べ物とかあればいいのにな。」

「ないだろ。」

 真剣な顔で考え込む篠原に、僕も肩をすくめた。


 次の日から篠原は研究室で昼食をとることは無くなった。

 昨日までは僕と新山と一緒にサラダを食べながら雑談をするのが日課だったが、本人は野菜スムージーだと言い張るドロドロで変な液体を流し込むように飲むだけだ。

「篠原、今日はサラダ食わないの?」

「今日はね、さっき学食で食べてきたんだよ。明日からもそうしようかなって。二人は気にせず食べて。」

「えー、なんかさみしい。」

 新山が口を尖らせる。

 とうとう断食でも始めてしまったのかと思ってひやりとしたが、食べたと聞いて安心した。

 篠原は三つ並べた机から離れ、研究室で飼育しているヤゴに餌をやるため窓際に歩いて行った。

 いつもサラダを食べるときのようにタッパーを開け、ピンセットでイトミミズを掴み、なんの感情も無さそうにヤゴの水槽に落とした。

 見慣れた光景のはずなのに、窓からの光で反射した水の影が、篠原の顔にゆらゆら映って目が離せなかった。


 研究室に顔を出す度に篠原が痩せてきたのは目に見えてわかった。

「カスミちゃん、やったじゃん!もう目標体重とどいたんでしょ?」

 新山に無邪気に祝福され、篠原も照れたように微笑む。

「うん、現状維持ってことでまだ油断はできないけどね。」

 新山と篠原は嬉しそうにしているが、僕は冷静に篠原の様子を観察した。

 確かに余計な贅肉は落ち、顔周りもすっきりしたように見えるが、血色がよくつやつやしていた頬は青白くこけ、表情は力無い。

「あっ、そろそろゼミの個人発表だよね。気合入れないと!」

 新山の一声で三人それぞれが席に戻る。

 篠原は合皮の白いトートバッグから、ペットボトルに詰め替えた不気味な色のスムージーを出し喉を鳴らして飲み下していく。

 ほんとうに何でできているのか全く予想もつかない色をしている。

 彼女はそのままヤゴの飼育水槽の前へふらふらと歩き、イトミミズをタッパーから摘み出すと、うねうねと蠢く2、3匹のイトミミズを熱っぽい目で眺め、ヤゴたちが美味しそうに食らいつくのを、じっと見つめていた。

 落ち窪んだ目は爛々として、かさついた唇が薄く開き、溢れる唾液にまみれた舌がちろりとのぞき唇を濡らした。

 一回目のヤゴの捕食が終わり、水面が静かになった時、篠原はまたピンセットでイトミミズを摘まんだ。

「し、篠原、もういいんじゃないか。今日はもう僕がさっきやっといたし。」

 ここでやめさせないとタッパーの中のイトミミズが全部無くなってしまう。

 僕に声をかけられて、篠原はぱっと振り向き、申し訳なさそうに微笑む。

「あっ、そうだったんだ。ありがとう。」

 さっきそこにいた幽鬼は僕の気のせいだったのだろうか。


 教授の前で行う研究発表も目前に控え、僕たちはそれぞれ仕上げの段階に入っていた。

 僕の向かいに机を並べ、パソコンに向かって資料の編集作業をしている篠崎だが、今日はいつもに増して顔色が優れない。

 息遣いも荒く、暑くないのに額には玉のような汗が浮かんでいる。

「篠原、大丈夫か。なんか苦しそうに見えるけど。」

「う、うん…さっきからなんだか気分悪くて。ちょっとトイレ行ってくるね。」

 ずずず、とパイプ椅子を引き、覚束ない足取りで研究室から出て行った。

「めっちゃ体調悪そうだったね、カスミちゃん。やっぱりごはんちゃんと食べてないんだね。」

 いつ聞いても篠原はしっかり食べているの一点張りだが、僕らの目はごまかせない。

「トイレから戻ってきたら無理なダイエットはやめるように僕たちで説得しよう。このままじゃきれいになるどころか大学にも通えなくなるかもしれない。」

「そうだね。リナ、またカスミちゃんとお弁当一緒に食べたいもん。カスミちゃんが頑張り屋さんなのは知ってるけど…」

 僕と新山はうなづきあって篠原の帰りを待った。

 また以前のような明るい篠原に戻ってほしい…太っててもいい、優しくて努力家な篠原は僕らの大切な仲間なのだから。


「…カスミちゃん、遅いね。」

 僕はパソコンから顔を上げて時計を見ると、もう30分経とうとしていた。

「具合が悪くて動けないのかもしれない。新山、見てきてくれないかな。」

「わかった。」

 新山はぱたぱたとトイレへ駆けていった。

 無理なダイエットで貧血を起こすという話は聞いたことがある。

 いざとなったら、ここから離れた医務室に運んでいく必要があるな…と考えていた時、耳をつんざく悲鳴が研究棟に響いた。

 新山の声だ。

 僕はパイプ椅子を突き飛ばし、女子トイレへと走った。

「あ、あ、カスミちゃん…」

 女子トイレの入り口で新山がぺたんと尻をつき、がたがたと震えていた。

 篠原は一番手前の個室の前でうつ伏せで倒れていた。

 一瞬僕もぎょっとして声が出てしまいそうだったが、篠原の足がぴくりと動いたのを見てほっと安心した。

「カスミちゃん、死…」

「大丈夫だよ、新山。足が動いてる。貧血かなにかで気絶してるだけ。でも医務室に運ばないと。」

 篠原をおぶさるため、一度仰向けにしようとした時、僕の前に幽鬼は再び現れた。

 僕は思わず後ろへ飛び退き、新山は二度目の悲鳴を上げた。

 限界まで開けられた篠原の口からは黒くてぬめぬめした物体が溢れ出て、トイレの床まで続いている。

 なんだこれは…

 血走った白目をむき、手足はぴくぴくと痙攣している。

 顔は紫色になっていた。

 医務室レベルの状態ではないことがすぐ判断できた。

「ひっ…!ど、どうしたんだよそれぇ」

 いつからいたのか、新山の悲鳴を聞きつけて来たどこかの研究室の野次馬が僕の後ろに立ってぶるぶる震えていた。

 変わり果てた篠原の姿を見ても、僕は不思議と冷静だった。

「今スマホもってますか、救急車お願いします。」

「は、ひ…」

 野次馬はポケットを探りながら慌てて廊下へ出た。

 気をしっかりもって、苦しそうに震える篠原に向き直る。

 一体何なんだ、この黒い物体は…でもどこかで見たことあるような。

 気味が悪く、背筋がぞっとするのを感じた。

 とにかく、この黒い物体が篠原の気道を圧迫し、このままでは窒息死してしまう可能性があるかもしれない。

 思い切って、指で黒い物体を摘まむ。

 ぬちゃあ、と指先に感じる粘液の質感にひるんだが、ぐっと掴み、篠原の口から引きずり出す。

 ずるる…と篠原の胃液にまみれた謎の物体がてらてら光りながら、篠原の喉から次から次へと出てくる。

 もご、おぇ、うぇ、とえづきながら篠原の腹からどんどん排出される黒い物体は、トイレの床に小山を作った。

「カスミちゃん、息してる!」

 耳を近づけると、喉からひゅーひゅーと呼吸の音が聞こえてきたので、なんとか気道は確保できたと確信した。

 救急車も到着した。

 救急隊員に状況を話し、篠原は担架に乗せられて病院へ搬送された。

 黒い物体の小山は、検査する必要があるらしく、隊員が大きなビニール袋に詰めてすべて持って行った。

 救急車が去ったあと、女子トイレに二人取り残された僕たちは、あまりにショッキングな出来事に脳が疲れ、しばらくぼんやりして、どちらからともなく篠原のいない研究室に帰った。

 篠原の口からもこもこと生き物のように這い出てきた不気味なあれはなんだったんだろうか。

 篠原の胃液でかさかさになった右手を見つめた。

「ねぇ…ちょっと…これ」

 新山は篠原のトートバッグを覗いていた。

 震えながら振り向いた新山の顔は篠原よりも青くなっていた。

 篠原のトートバッグから取り出したのは、おそらく開封したばかりであろう中身が半分くらいになった大きな袋…


【徳用!ふえるわかめ】


 と、印刷されていた。









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ふえるわかめ 霧島ジュン @orangepeco74

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