第4話 飛ぶ公主

 東宮殿とうぐうでんでは、先ほどから何かを撃ち合う鈍い音が聞こえる。世子の興礼が短衣と籠手こてを身につけ、一人の侍衛じえいを相手に剣術の稽古をしているところだった。


「……?」

 興礼は、視界の隅に異様なものを捕えた。遥か彼方に離れた、高さ一丈ほどはある塀の上に、何か鮮やかで不自然な色彩の固まりが見えたからである。


「つっ…!」

 次の瞬間、彼は呻き声を上げた。気を逸らしたために隙が生じ、稽古の相手に籠手を打ちこまれたのだ。木剣ぼくけんを降ろした主人を前に、撃った若い侍衛は跪いて無礼を謝した。

「良い、油断したこちらが悪い」


 首を横に振った興礼は、木剣を侍衛に預け、差し出された手巾しゅきんで額と首筋の汗をぬぐった。そして、自身は塀のほう――東宮殿と後宮を隔てる塀に足を向けた。急ぎその場に向かう彼は、塀の上の奇怪なものの正体を知るや、駆け足になる。

 息を切らせて、彼は「そのもの」の真下に立った。顔には怒りで朱が上り、まなじりは裂けんばかりである。


「…この馬鹿!早く降りてこい!!」


 視線の先には、妹がいた。塀に腰かけ、相変わらず無表情に兄を見下ろしていた。折からの風に、恵玲の簪の飾りがぴらぴらと翻り、淡い桃色の裳裾もすそも揺れている。


「――隙を見せれば、打ち込まれる。当然の理だ」

「なっ…!!」


 興礼は怒りのあまり、口をさせた。眉は濃く上背うわぜいは高く凛々しい外貌で、若い女官達から密かに憧れの的となっている世子も、妹の前では一切の調子が狂う。先ほどの稽古での無様さを彼女に見られていた、いやそもそも、侍衛に一手を取られたのは――。

「誰のせいだと思っている!さては、この塀の上から見ていたな」

「見ずともわかる。人のせいにするでない。忙しく口を開けたり閉じたり、まるで池の鯉だな。それに、私がここにいるのは、そのようなつまらぬものを見るためではない」


 無礼な言葉の数々を流れるように繰り出しつつ、公主はすっと塀の上に立った。も鮮やかな袖口がと翻る。

「お、愚かな真似をするな!そこに立ったりなどしたら…」

 今度は、兄は焦り始めた。自分の身長よりずっと高い塀の上である。万が一、妹がこの状態で平衡を失い落下でもすれば、ただではすまない――。


 そんな興礼の焦りもしらず、恵玲は両のかかとを浮かせた。

 ――飛ぶのではないか。

 そう錯覚した興礼は、何事かを叫んで、思わず両腕を差し出す。踵が塀から離れ、彼女が空中に躍り出た。

「わっ…」

 本当に、公主はふわりと飛んだ。そのままゆっくり宙を舞い、兄の腕のなかにすとんと納まる。彼女の身体は鴻毛こうもうのようで、まるで重さを感じなかった。


「何てことをするんだ、怪我でもしたら…」


  自分の顔を見上げる妹に、兄は小言を投げかけたが、それも長くは続かなかった。大人と少女の狭間にあって、臈長ろうけているような、あどけないような面差し。その輪郭を彩る艶やかな黒髪。深々とした紫の瞳、わずかに開いた、紅を塗った唇。抱きとめた時、彼女の服越しに感じた柔らかな肌。


 どう形容すべきなのか、見てはならぬものを見て、触ってはならぬものを触ってしまったかのような心地がするのは何故だろう――。


 須臾しゅゆの間とはいえ目の前の少女、実の妹に魅入られてしまった、その罪におののきながら、兄は身体を離し、両腕のなかに咲いた花を解放した。

「大丈夫か?」

 いつもより優し気な言葉はいたわりではなく、自分に突如沸き上がった、湿った気持ちを覆い隠すための嘘だった。


 ――何ということだ。俺は、妹に対して何という!すでに世子妃も決まり、年末には人の夫となる身である俺が。もしや、逢魔おうまが時の見せた戯れだろうか。どうか恵玲に悟られぬよう…。


 脳裏に、婚儀の前にと一度だけ引き合わされた、世子妃の顔が浮かんだ。ひっそりと咲く路傍ろぼうの花のごとき相貌の、慎ましく温雅おんがな物腰の少女だった。

――いや、違う。世子妃と妹を比べるなどと…。

 恵玲は兄のそんな動揺を知ってか知らずか、二、三歩後ずさると口を開いた。


「人はなぜ、飛ぶことをせぬのだろう?」


 そして相手の答えを待たずに、くるりときびすを返した。

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