第3話 戯れる公主

 王妃が風花亭に近づくと、穏やかならぬ鳥の鳴き声がした。


 季節は春も過ぎ去ろうかというときで、棚の藤が重たげな房を幾本も垂らし、緑は日ごとに濃くなりまさっている。

 彼女は随従の女官達に待つように命じると、一人で風花亭に入った。後苑こうえんで最も瀟洒しょうしゃな佇まいを見せるこの四阿あずまやに、一人の少女が座っていた。


 小づくりな顔、星を宿したかのような瞳、薄い白磁のごとき肌。桃の花びらが皮膚の下に沈んでいるかと見間違える頬。薄い藤色の衣に濃い紫の上着を重ね、銀のかんざしや首飾りが若さを彩る。母親が一瞬たじろぐほど、娘は美しかった。


 だが、その美貌を大きく損なっていると王妃に思えるのが、まず少女の瞳の色が尋常ならざる深い紫であること、そして彼女の肩に乗った一羽の鳥だった。


 大きく、黒耀石こくようせきのような羽を持つ烏。


 その鳥は恵玲公主の肩に掴まりながら、王妃を睥睨へいげいしている。何もこれが初めての経験でないにせよ、この鴉を目にするたび王妃は動揺と恐怖を禁じ得ない。今も、我知らず襟をかき合わせていた。


 烏はそんな王妃を嘲笑うかのように一声鳴くと、ばさり、と羽を広げて飛び立っていった。


 烏がみるみる遠ざかり、やがて蒼穹そうきゅうの黒点になるさまを、公主は空を仰いで見送っていたが、やがて自分の母親に向き直った。

「――何か?」

 娘に促されて王妃は声を出したが、情けないほど力のこもらぬ声だと自らを恥じた。


「お前、またあの烏と一緒だったの?」

 公主は頷いたが、それきり何とも答えない。今日に限らず、公主は口数が極端に少なく、表情も変わらない。たまに口を開くと、兄が怒り出すような物の言い方である。

 母親は娘との間の沈黙に耐えきれなくなり、溜息をついた。

「この宮中にあっては人と遊ぶこともままならぬゆえ、禽獣きんじゅうと話すようになるのも詮無せんないこと…」


 あの烏にしても、不気味ではあるが、間違いなく幼いときから公主を訪ねて戯れ、あの娘が唯一心を開いて笑顔を見せるもの、つまり公主にとってはただ一人――いや、一羽の「知音ちいん」とも呼べる存在なのだ。


 とはいっても、と母親は思う。そもそも禽獣としか遊べぬようにしたのは、私達ではないのか、と。

 王と王妃がこの娘を養う際に、接する女官を極力減らし、宮中の最奥で半ば閉じ込めるようにして育てたのは、公主が幼少から、人には見えぬものを見て、聞こえぬものを見て、また人にはできぬ能力を顕現したからである。

 手を触れずに物を空中に浮かべたり、後宮の端から端まで一瞬で移動したり――。


 そればかりか、この紫の瞳。


 当国では、公主のように紫の瞳を持つ者がたまに生まれる。しかし古来から、その瞳は吉凶半ばする存在、特別な力を持つものと信じられているのだった。

 たとえば開国の君、すなわち天子様の末子にして初代の国君は、名君として知られた方だが、やはり尋常ならざる瞳の色だったという。

 しかし、尊い御方と同じ瞳を持つ歴代の王には、度し難い暗君も何人かおり、良きにつけ悪きにつけ、「紫瞳しどう」は多数の人々にとって、畏怖の眼差しで見るものであった。


 恵玲公主もまた紫瞳の持ち主だったが、彼女がこの世に生を受けた際、彼女が公子でなく公主だったことに、王妃は胸を撫でおろしたものだった。なぜならば、如上じょじょうの理由ゆえに、「紫瞳」の公子は王位継承の資格から外されるという不文律がすでに出来上がっていたことと、公主ならばあまり人目にも触れず生きていくことが可能だからである。


 ――だが、娘のためには果たしてこれで良かったのか、それとも他の養い方があったのだろうか?


 娘への困惑と罪悪感を押し殺しつつ、王妃は娘に語りかけた。

「興礼から委細は聞きました。またお前は、兄に対して無礼な物言いをしたとか」

「……」

 叱られてふて腐れるわけでもなく、かといって恥じる風もなく、公主はただ黙って母親を見返すばかりである。


「いずれ、そなたも他の人間と普通に口を利かねばならなくなる。というのも、お父様――王が仰るには、そなたにも二、三、縁談らしきものが舞い込んでいるとか。そういえば、そなたもそろそろ、そんな年頃だと……。何しろ興礼も、この年末には世子妃を迎えるのですからね」


 告げながらも、母親は虚しさを感じていた。

 ――かくまで変わり者の娘が、果たして無事に嫁ぐことなどできるのか。どんなに人目に触れさせぬよう育てても、宮中の壁に耳目あり、この子のことは、宮外にまで漏れ出ているに違いない。このまま誰にも嫁がず、後宮の奥深くで一生を終えたほうが幸せなのか。しかし、それではあまりにも不憫…。


 いっぽう娘のほうはというと、「縁談」の言葉に両の眼を見開いた。このような反応を見せるなど、絶えてなかったことである。そして、大きくかぶりを振った。


「まあ、お前。嫌だといったところで公主たるもの、いずれ他国に妃として嫁ぐか、臣僚に降嫁こうかするものと決まっているのに」

 しかし返答は、またも首を横に振った拒絶である。とりつくしまもない。

「…風が出てきたゆえ、あまり外に長くおらぬように」

 王妃は帰るよう促すとふうっと大きな息をつき、なお四阿から動こうとしない娘を残して居殿へ戻った。


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