甘いココアはおいしくない
indi子
甘いココアはおいしくない
真冬に降るつんざくような冷たい雪は嫌い。春の終わりに降るあたたかな雨は好き。真新しいプラスチックの机よりも、少しガタガタとうるさく動く木でできた机の方が好き。とやかくお節介をやかれるよりも、一人で黙々と手を動かしていることが好き。
なかでも一番好きだったのは、雪が溶けた後、埃臭さの中に混じる甘ったるい春の香りだった。毎年その季節が巡って来るたびに、せわしなさとときめきが混ざったような、胸の高鳴りを感じる。桜の花が咲くのと同じような、何かが始まりそうな気配を感じるのだ。何かが始まったためしはないけれど。
その季節がまわって来るより少し前、まだ雪が降っているような頃ころ、ものぐさだった僕もついにアルバイトを始めた。親からの仕送りや奨学金だけでは日々の生活で手一杯で、遊ぶ金もない。それに、僕のまわりのお節介やきたちが、口を揃えて言うのだ。
「バイトでもして、社会経験積んでた方が後々有利だぞ」
と。その言葉に背中を押されながら歩いた大学からの帰り道、ふと見かけた『アルバイト募集』という手書きポスターに、僕はすぐさま飛びついた。
家から歩いて数分のところにある、一度も入ったことのない小さな喫茶店で、僕は毎週火・木・日曜日、アルバイトとして働くことになった。
ずいぶんと古くなった木の床は歩くたびにギシギシと鳴るが、街の喧騒から切り離されたこの空間は、バイトが始まってまだ数か月しか経っていないが、とても気に入っている。
コーヒーを淹れるのは、もちろん店長の仕事だ。僕の仕事といえば、テーブルを拭いて、お店にやって来たお客さんにお水を出し、注文を取る。溜まったゴミを出す。それだけだった。
歩くたびにギシギシと鳴るフロアとキッチンを何度も行き来し、学校と家とアルバイト先の往復を何度も繰り返している内に、ようやっと仕事が一つ増えた。
それは、コーヒー以外の飲み物を作ることだ。
中でも、ココアを作ることが一番好きになった。
小さな肩手鍋にココアパウダーを入れて、弱火にかける。少し香ばしい香がたって来たら、砂糖を少し。そして、静かに牛乳を注ぎ、ふつふつと小さな泡が出てきたときに火からおろす。マグカップに移し、ハチミツをスプーン一匙、ポトンと加える。少し混ぜてココアが少し艶めいてきたら、最後にホイップクリームをたっぷり乗せて、出来上がり。
紅茶を淹れたり、ソーダにアイスクリームを乗せたりするよりも、僕はこれが一番好きだった。
そのココアをいつも注文するお客さんがいる。
日曜日のお昼過ぎに来る、僕と比べたら少し年上の、女の人だ。その人は、必ず一杯目はコーヒーを注文する。その一杯に砂糖もミルクも入れず、桜色のカバーをかけた文庫本をを読みながら、舐めるように少しずつ飲む。床がきしむ音以外はとても静かなこの店内には、ページをめくる音でもよく耳についた。
そして、帰り際にそのお客さんはココアを頼むのだ。これも、必ずと言っていいほど。文庫本を鞄に仕舞い、マグカップをまるで孵化寸前の卵を抱えるように大事に持ち、コーヒーを飲むよりもずっと早いペースで飲んでいく。そして、飲み終えるとすぐに会計を済まして店から出ていく。
そのお客さんが店を後にする頃になると、オレンジ色の夕焼けがアスファルトを照らしはじめ、店長も店を閉める準備を始める。
最近の僕にとって、日曜日の終わりを告げるのはアニメ番組ではなくて、あのお客さんになっていた。
桜のつぼみがほころんできたある日曜日、朝はスッキリと晴れていたのに、あのお客さんが来て少し経った頃からどんよりと重たいウロコみたいな雲が空を覆い始めていた。
お客さんは窓際の席に着いてすぐ、いつも通りコーヒーを頼んで本を開く。ギシギシと音を立てて近づき、テーブルに置いた食器が小さく音を立てても小さく頭を下げるだけだった。
この喫茶店という小さな空間で長い時間、お客さんと店員という立場で共に過ごすが、会話をするというようなことは一度たりともなかった。きっと、このままずっと過ごすのだろう、とグラスを拭きながら、お客さんを尻目に考える。別に、店員としての枠組みから離れたいと思ったわけでもない。ただ、一度でいいから微笑む顔くらい見てみたいという下心が、牛乳を火にかけた時みたいに小さな泡となってふつふつと沸いただけだ。
お客さんがページをめくる音といつものコーヒーの香りに混じって、にじり寄るように湿った空気がじわじわと広がっていく。注文が入ったココアをテーブルに置いた時、ドン、と小さな何かが窓に当たる音が聞こえてきた。お客さんと僕、二人で同じ窓を見ると、ツーッと一筋、水が流れていった。それに続くように空から降ってくる重たい雨粒は、あっという間にアスファルトを雲と同じ色に染める。
「通り雨ですかね?」
僕の呟きを拾ったのは、お客さんではなく店長だった。
「さあ。傘立て出しておいて」
「はい」
床をきしませて物置に向かい、忘れ物の傘がささったままの傘立てを出入り口に置く。窓ガラス越しに外を見ると、傘を持たない人たちが急ぎ足で駆けていくのが目についた。
雨はしばらく経っても降り止むことなく、古ぼけた店のあらゆる隙間から、冬の名残をまとった冷たい風がピューピューと吹き抜けた。細かく身震いして暖を取ろうと腕を擦っていると、ふと、あのお客さんが目についた。すでに空になっているココアのマグカップをテーブルに置き、口をへの字に曲げて、窓の向こうを見ている。
僕も、つられて窓を見る。雨はカーテンのように窓を覆いながら流れていき、寒々しさが募るばかりだった。
いつもと違うお客さんの様子に、僕も少し眉をひそめるが。少しだけ思い至るところがあった。
「あの」
寒さか緊張からか、少し震える僕の声に、お客さんは顔を上げた。驚いたように何度もまばたきをする隙を縫うように、その黒目の中に僕が映った。鏡で見るよりもずっと小さいその姿は、とても居心地が悪い様子で、体中を駆け巡る寒気を追い払うように左腕をこすっていた。
「あの、もしかして、傘持っていないんですか?」
「ええ、はい。そうですけど」
お客さんは、深く頷いた。
「あの、他のお客さんの忘れ物の傘とか、うちに残ってるので良かったら使ってください」
「でも、悪いですから」
「いいんです、大丈夫なんで」
随分と慣れてきた古ぼけた床に立っているだけなのに、僕はきまりの悪さを感じて、早口で会話を終わらせるとすぐに、傘立てに向かった。ささっている忘れ物の中から一番キレイに見えるビニール傘を持ち、もう一度お客さんに向き直った。
お客さんは、口を少しだけ開いて僕を見ていた。
「どうぞ、使ってください」
お客さんはまるで初めての物を持つかのように、おそるおそる手を伸ばす。指先同士が触れあわないように、僕がすぐに手を離した。
傘の柄を持つ指先は、まるで桜みたいにほんのりピンクに塗られていた。
「ごめんなさい、すぐにお返ししますので」
「いいです、気にしないでください」
お客さんは何度も繰り返し、会計の時ですら頭を下げた。すっかり僕も恐縮してしまい、つられるように頭を下げる。どこからか、息をもらす様な小さな笑い声が聞こえてくる。
「今度来た時、必ずお返しします」
「いえ、本当に大丈夫なので」
「本当にありがとうございます、助かりました」
「いいえ。……桜、散らないといいですね」
お客さんは、目を丸くさせる。
何も用意せずポロッと溢れた言葉を取り繕うため、僕はまた早口になる。
「あの、爪の色とか、本のカバーとか、ピンク色なので。てっきり、桜の花、好きなのかなって思いまして。勘違いなら、ごめんなさい」
お客さんは小さく首を横に振る。
「ううん、桜、好きです。また今度」
ドアが開き、最後にお互いまた小さく会釈をした。
軒先から傘を開く音が聞こえたと思ったら、すぐに足音は雨の中に溶けるように遠ざかっていった。
雨は結局一晩中振り続け、次の朝には桜の花びらがアスファルトを覆うようにぴったりと張り付いていた。
枝に残った花は、その日のうちにゆっくりと開き人々を楽しませていた。
次のシフトの火曜日には、すっかり晴れて、青い空に浮かぶ白い雲は心地よさそうだった。
オレンジ色の太陽の光が店の中にさしこみ、そろそろ看板を片づける時間が差し迫ってきた頃、ドアベルが弾むように音を響かせる。
ドアノブを持つ左手首にはビニール傘がかかっていて、顔を見上げると、あのお客さんが立っていた。
「先日は、傘をありがとうございました」
そう言って、深く頭を下げるお客さんの右腕には、包装紙にくるまれた何かの枝が抱えられている。
その枝についている薄いピンク色のつぼみは、今にも咲いてみせようというエネルギーに満ちている。
「こちら、お礼に。桜の枝なんですけど」
お客さんはその枝をこちらに差し出した。
「すいません、返ってありがとうございます」
「いいえ。お花、好きなのかなって思っただけですし」
「え?」
今度は、僕が目を丸くさせる番だった。
「ほら、いつもお花の水替えしてる姿が楽しそうだったから」
「……ああ、はい。ありがとうございます」
深くお辞儀をして頭を上げると、彼女は小さく笑っていた。
その頬は、ほんのり桜の色みたいに色づいていた。
もう一度ドアベルが鳴り、彼女は帰っていく。店長は彼女の背中を目で追っている僕の腕から桜の枝を引き抜き、洗面器にはった水の中に枝を浸けた。一つ一つ、つぼみをつけた小さな枝を広く切り、同じように水の入ったグラスにさしていく。
「陽のあたる席に置いておいて」
ぶっきらぼうに言うが、その横顔は少しだけ笑っている。僕は小さく、はい、と返事をして、グラスを慎重に運んで行った。
もちろん、彼女がいつも座る窓際の席にもグラスを置いた。
家に帰ってすぐ、鍋を取り出し店でつくるのと同じようにココアを作ろうとした。あいにく、うちにはハチミツが無く、目分量でさらに砂糖を加えて、ふつふつと温めていく。香ばしいココアの香りと、甘い牛乳の香りが鼻からスッと口の中にまで広がっていくが、僕はどうしてもあの桜の香りの方がずっと甘く感じられて仕方がなかった。
出来上がったココアを一口飲む。いつも作っているココアに比べるとずっと甘く、舌が驚く。
あの彼女が持ってきた桜を思い浮かべると、一層甘さが増していったような気がした。
甘いココアはおいしくない indi子 @indigochan
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