グラスに半分

水戸けい

心のグラスにある水は

「うっそ。めっちゃ不満じゃん。なんでなんで」


「うーん、やっぱ彼氏いないと、寂しいからかも?」


「俺も、俺も寂しい!」


 どこか芝居じみている浮かれたやりとりに、アヤカは半眼になった。合コンという空間では、テンションが普段よりも三割増しどころじゃなくなるものだと、わかっている。無駄に明るく振る舞って疲れたり、普段とのギャップに驚いたりするのは当たり前。そう理解はしているのに、ばかばかしいとしらけてしまう。どこか冷めた目で、浮かれている面々を一歩引いた場所から眺めている自分に、さらに気持ちが冷めていく。


 こうなることはわかっていた。それなのに参加しているのは、付き合いのためだ。彼氏が欲しいのではなく、友人が離れてしまうのが寂しい。だから、参加する。


 下らない理由だと、アヤカは自分を笑った。それが皮肉な態度と取られないように、グラスに口をつけてごまかした。アヤカが飲んでいるのは、ウーロン茶だ。けれどウーロンハイということにしている。でなければ「せっかくだし、飲もうよ」なんて、強引にアルコールを飲ませようとしてくる人間が、座にひとりは必ずと言っていいほどいるからだ。それをハッキリと断る勇気も、やめなよと助けてくれそうな人も、持っていない。だからこっそりと店員に注文を伝え、そっと渡して欲しいと頼む。アルコールを摂取していないと、知られないように。


 なんて窮屈な時間なんだろう。


 アヤカはうんざりしながら、自分の弱さに嘆息する。誘いを断れる勇気があれば、もっと有意義な時間を持てただろうに。


「ねえねえ。アヤカちゃんは、コップ一杯の水の量、どのくらい?」


 酔いが顔に出やすいのか、茹蛸のようになったケンジが、だらしのない笑顔で問うてきた。アヤカは精一杯の愛想笑いを浮かべて、紙切れを彼に渡す。合コンの幹事が、座が盛り下がらないように、話題ができるようにと用意した、グラスの絵が書かれたメモ。


 これは心理テストです。グラスの中の水は、どのくらい入っていますか。ぱっと思い付いた量を、書いてください。


 バカみたい。


 そう思いながら、アヤカはみんなと同じようにペンを持って、記入した。


 どういう結果が発表されるのか、知っていながら知らないふりで答える問題。自分がどう見られたいかによって、返答を決められるテスト問題。空っぽに書けば現状に不満を持っている、という意味になり、たっぷりと入っているように書けば、満足をしているという結果になる。


 あたりさわりなく過ごすため、アヤカは真ん中に線を引いた。

 可も無く、不可も無い。


 メモを見たケンジが、会話を引き出そうと目を光らせる。


「アヤカちゃんは、半々?」


「普通ってこと」


 アヤカは愛想笑いを頬に張り付けて、さらりと聞こえるように意識して答えた。


 普通。


 これがいちばん、面白味が無く、つっこまれにくい答えだ。ケンジはアヤカの狙い通り、ふうんと呟いただけで終わらせ、カズミに矛先を変えた。


 目当ての相手がいるカズミは、一杯の水の心理テストに、不満という回答を出した。はにかみながら、目当ての相手にまばたきを送りつつ、彼氏が欲しいとアピールしている。カズミがタクヒロを狙っているのはミエミエで、周囲がはやしたてながらタクヒロの回答を回収する。


 タクヒロの答えは、グラスからあふれている水。現状で満足しまくっています。彼女がいなくても充実しています、という意思表示。


 それにもめげず、カズミは「うらやましいなぁ。その満足の秘訣、教えてよ」と、甘い声を出している。カズミを狙っているタダシが、自己アピールを開始し、タダシに好意を寄せているエリが話題に入り、エリを求めているリョウヘイがタダシにちょっかいをかけた。


 面倒くさい。


 アヤカは溜息をウーロン茶に溶かして飲んだ。浮ついている空間から離脱しきらず、入り込まない位置をキープするために。完全につまらないという態度を取ってしまえば、ノリが悪いだのなんだのと言われて、二度と声をかけてもらえなくなるかもしれない。


 どうしてこんなふうにしか、人と付き合えないのだろう。


 アヤカは自分の情けなさに、目の奥を揺らした。自分に自信が無いから、こういう態度を取っている。堂々と振る舞う勇気が無いから、誰かと同じ流れの中にいようとしている。


 楽しくないわけじゃない。それなりに、楽しいと感じる瞬間もある。大部分が、うんざりする時間なだけで。


 アヤカは自分に言い訳をしながら、手の中のウーロン茶のグラスを見た。


 グラス一杯の水の量。


 アヤカの心のグラスは、空っぽだ。とっくに飲み干してしまって、一滴も残っていない。グラスの水は、どうやって増やせばいいのだろう。どこで汲むことができるのか。


「可も無く不可も無くって、いいよね」


 耳元で声がして、アヤカはハッと顔を上げた。グラスから水があふれている状態を書いたタクヒロが、いつの間にか横に座っていた。


「えっと……」


 言われた言葉は理解できても、どういう意味なのかがわからない。アヤカはタクヒロから目をそらし、サラダのドレッシングで汚れた小皿に視線を置いた。


「グラスの水。半分」


 タクヒロが呟く。


 からかわれているのだろうか。アヤカは思考をめぐらせて、あたりさわりのない返答を探す。どう答えれば、場をしらけさせず、かつ深くつっこまれずに流せるだろう。


「あふれるくらい、いっぱいの水のほうが、いいと思うけど」


 現状の満足度が答えの心理テストだから、これが無難な答えだろう。そう思って返したアヤカに、タクヒロは「そうかなぁ」と物憂げな声を出した。


「あふれるほどあるってことは、ここから先に進まなくてもいいって、自分で成長を止めているようなもんだろ」


 意外な答えに、アヤカは落としていた視線をタクヒロに戻した。タクヒロの唇に、薄い笑みが乗っている。目の光は優しくて、人生を達観しているような寂しさがあった。


 アヤカはタクヒロの言葉を、どう受け止めようかと吟味する。どういう意味かと聞いてみても、そんなことないよと否定をしても、会話が繋がってしまう。早々に会話を切り上げられる答えを、必死に探すも見つからず、アヤカは曖昧な笑みを浮かべて、彼の言葉を流すことにした。


 感じ悪いと受け取られただろうな。


 ひやりと胸のあたりが冷たくなる。けれど他に、どんな切り抜け方があるだろう。タクヒロを狙っていると、勘違いされてはたまらない。彼を求めているカズミに睨まれたくはないし、カズミを応援している面々に白い目を向けられるのもイヤだ。彼女達からの評価を下げないためには、タクヒロからの評価を下げるしか無い。日常の時間を多く過ごす相手に、悪く思われないことのほうが大切だ。誰からも好かれるなんて、夢物語。ならば接点の低い相手の印象を、悪くするほうを選ぶのは当然のこと。


 アヤカは凍えた動悸をなだめようと、深く息を吸った。


 仕方が無いと自分に言い聞かせるのは、納得していないからだ。誰からも悪く思われたくはない。嫌われたくない。特別で無くていいから、存在を認められていたい。ひとりぼっちはイヤだ。だから、立ち位置を間違えないように、当たり障りの無い存在でいたい。


 アヤカは気持ちを暗くした。明るくはしゃいだ空間にいるのに、暗く静かな、湿気た場所にいる気がする。大勢でいるのに、孤独を感じている。


 私の心のグラスは、空っぽだ。


「俺はさ、半分って、すごくいいと思う」


 タクヒロの声が、アヤカの耳朶に触れた。それは静かで優しく、気分を害した気配は微塵も無かった。


「腹八分目って言うだろう。満たされすぎると、苦しくて身動きが取れなくなる。半分って、天秤で言えば吊り合いが取れている状態だから、自分次第で可にも不可にもなれるんじゃないかな」


 アヤカは顔を上げられず、テーブルに目を落としたまま、じっとしていた。どうすればいいのか、さっぱりわからない。どうしてタクヒロは、会話を流したことに気を悪くしないのだろう。


「空っぽだと、動く気力が起きないか、ガムシャラになりすぎて、とんでもないことになるかもしれない。多すぎるとこぼさないように、慎重になる。動かせなくなったりもする。でも、半分だと、増えたり減ったりしながらも、自分の道を進んでいけそうだよな」


 アヤカはそっと、上目遣いにタクヒロを見た。タクヒロは遠くを見るような目を、グラスに向けている。彼のチューハイは、グラスに半分の量だった。


「俺の満足度のグラスは、あふれちゃってるからさ。多すぎるぶんを、そっちのグラスの空いているところに、少しだけ移させてもらいたいんだけど」


 タクヒロにぎこちない笑みを向けられ、アヤカは目をまたたかせた。


「……えっ」


 だから、とタクヒロが眉を下げる。


「俺はあふれて動けないから、そのぶんを――」


「タク!」


 タクヒロの言葉は、ケンジの呼び声に遮られた。一瞬くやしそうに顔をゆがめてから、なんでもないふうにタクヒロが席を立つ。アヤカはケンジとふざけあうタクヒロを、呆然と眺めた。


 いまの言葉は、どういう意味だろう。


 視界の端に、鋭い目をしたカズミが見えて、気づかないフリをしながらグラスに口をつける。ちらと横目で、タクヒロが置いていったチューハイのグラスを見た。グラスに半分だけのチューハイ。空いている部分に、あふれそうなものを入れる。それはとても合理的に思えた。


 ――半分だと、増えたり減ったりしながらも、自分の道を進んでいけそうだよな。


 そんなふうに、考えられる人がいるなんて。


 アヤカは静かな驚きに満たされる。誰もが心のグラスいっぱいの、充足を望んでいるものと思っていた。それを不自由だと、タクヒロは言った。


 あふれているタクヒロの心の水。それをアヤカの空いている部分に移したいというのは、共に色々なことを分かち合いたいと、遠まわしに言っているのか。


 アヤカの頬が熱くなる。


 アヤカの心のグラスは、本当は空っぽだ。あふれている彼の水を受け止めれば、互いに半分となる。タクヒロの言う、吊り合いが取れている状態になる。


 けれど彼は、カズミが狙っている人だ。彼女達との平穏な日々を望むのならば、聞かなかったことにするのが最良の選択。


 それが、一番いいことだ。


 アヤカはそっと、タクヒロを見た。彼の考え方を、もう少し聞いてみたい。そうすれば、どうにもできない窮屈な状態から、抜け出すきっかけを掴めるかもしれない。自分で見つけた立ち位置から動かないように、息をひそめて生きる以外の道を、見つけられるのではないか。


 ――空っぽだと、動く気力が起きないか、ガムシャラになりすぎて、とんでもないことになるかもしれない。


 空っぽだから、動けない。


 アヤカは口内で呟いた。このまま空っぽではいたくない。けれど動くことが怖い。ひとりでは動けない。


「半分に、なりたいな」


 グラスの水は、どのくらい入っていますか。


 アヤカは、真ん中に線を引いた偽者の自分が、うらやましくなった。


 心の中のグラスの水の、本当の量を書いた人は、いるんだろうか。


 疑惑の瞳で楽しげな空間を見れば、誰の顔にもピエロのような涙の跡が、頬に描かれている気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グラスに半分 水戸けい @mitokei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ