エピローグ 新しい宇宙の記憶

 少年が目を覚ました時、巨大な筒の中にいた。

 弧を描く左右の壁は銀色に神々しく光り輝き、天井は手を伸ばしても到底届かないほどに高い。その筒は先が見渡せないほど前後に、ずっとはるか彼方まで伸びていた。

 一際目を引いたのは、弧を描いた銀色の壁面が細かく分割されており、時折、机の引き出しのように壁から立方体が分離して中空を飛び交っては、対面の壁の隙間に吸い込まれていったりしていることだ。その際、かんっきんっと金属製の打楽器を鳴らしたような不思議な音がする。金属のようには見えるが、金属ではないような。少年――エリクスには知りようもない材質。

「ようこそ。アカシック・クロニクルへ」

 頭上からそんな声が聞こえてきた。少年は体を横たえたまま、視線を徐々にずらしていく。そこで見えたのは、エリクスが一番好きだったリピカの笑顔だった。後頭部には柔らかい感触がある。膝枕をされているみたいだった。

「リピカ……ここ、どこ?」

「なんて言えばいいのかな。まぁ、図書館……みたいなところだよ。さしずめ、あたしは司書さん、ってところかしら」

 リピカは苦笑しながら、その手を床に這わせる。ふわっとリピカの手の周りが緑色に光り輝く。それを確認した彼女がゆっくり手を持ち上げると、併せて、銀面の床がせり上がってきた。宙を飛び交う立方体と同じもので、その中にはびっしりと本が収められている。

「これがこの図書館で保管しているもの。世界の記録の一部。本のようだけど、紙じゃないんだよ。この円筒の中にはこうやってありとあらゆる世界の、ありとあらゆる事象についての記述があるの。今、頭の上で立方体が組み変わっているのは、リタルダント・テレスが滅亡を回避したから――存続される未来への記述に書き換わっているの。まぁ、キミのおじいさんが原因で散らかった分を片付けてるところもあるのだけれどね」

「ふぅ、ん……?」

 エリクスには、リピカが何を言っているのか理解できず、ただの言葉としてしか捉えることが出来なかった。彼女は苦笑を強める。

「まだ、難しかったかな。ここには、キミに関する記述もたくさんあるのよ。過去、現在、未来。前世や来世にまつわる事象、細大漏らさず、その全てがこのメモリーキューブの中に」

「よく……分からない……」

 そうだよね。と、リピカはエリクスの頭を撫で付ける。エリクスにはそれがとても心地よく、再び重くなってきた瞼にあっさりと押し負けた。

「あたしは、リピカ。魔女リピカ。アカシック・クロニクルの管理人。そして、数多の世界を彷徨う魔女。故に、キミの想いに応えてあげることは出来ないの。今は、まだ」

 最後に見たリピカの表情はとびきり優しいものだった。

 銀色の中で、エリクスの意識が遠のく――

「おやすみなさい」


 あたしね、世界の事実に絶望してた。

 アカシック・クロニクルの記述をただ追いかけるだけの人生に。

 それは、あたしがアカシック・クロニクルの上からしか世界を見ていなかったから。

 世界には、あたしと同じ、色んな想いがあることも忘れて。

 生命は循環するの。

 いつかまた会える日が来るよ。

 あたしのこと、好きになってくれてありがとう。


 リピカが色々言ってくれたような気がするが、今はもう何も聞こえない。

「せめて、安寧たる来世への旅路を……」



 監獄暮らしが快適かと聞かれれば、否定する他ない。

 それが男と同じ柵の中だったらなおさらである。

「……なんで、俺が……」

 納得いかない面持ちでシャロウは不満を呟いたが、その不満を解消する納得のいく回答を持った者が聞いていたわけではない。そもそも納得のいく回答などないはずだ。いや、何を言われても納得できるものか。

「住めば都と言うではないか、青年」

 日がな一日、ベッドの横たわって暢気に鼻歌など奏でているヒルベルトが適当なことを言ってくる。

「聞きたいことがあるんだが」

「なんだね、青年」

「お前、あれ以来、ずっとここにいるのか?」

「そうだよ?」

 それが何か。と言わんばかりに、即答するヒルベルト。

 魔法により錯覚を引き起こすことによって、いつまでも終端に辿り着けない廊下にあったあの牢屋だ。

「ほら、このごつごつのベッド。寝るところには困らないし。いちおう一日一食ぐらいは飯も運ばれてくるし。いいところだぜ」

「微妙に聞こえるのは何故だ」

 正確に言うと、牢の鍵は掛かっていないので、本人の意志でいつでも出て行っていいのだが、放り込まれてしまった以上は正統な手続きを経るまで、外に出るわけには行かないと考える辺り、シャロウの面倒くさい几帳面な性格が伺える。単に前回、脱獄してしまったという呵責が働いているだけかもしれない。後者でありながら、実は前者であるかもしれない。

「――何よりここは、アラクサラに近いからな」

「ヒルベルト……」

 鼻歌が止んで、最後の言葉だけがやけに響き渡った。突然降って沸いた静寂だったが、それを打ち破ったのは、ヒルベルト自身だった。

「いやぁー、なんかさぁ。アラクサラがずっとここにいたんだって思うと、もうそれだけで胸がいっぱいになってねぇ。俺もここで一緒にくたばっちまおうとか思っちゃうわけよ」

「お前ら……バカップルだったんだろ」

「およ、なんで分かった?」

「なんとなく」

「ハハハ、毎日ラブラブだったぜぇ。聞いてくれよ、アラクサラってばよー」

 聞いてもいないのに、生前のアラクサラとののろけエピソードに突入したヒルベルトの言葉から耳を塞ぎ、シャロウは深々と嘆息した。



 白昼の下、リタルダント・テレス宮殿を覆った巨大な銀月は、街で若干の話題になったものの真実を知る者は誰一人としておらず、早々に廃れていくこととなった。

 宮殿の最上層、空中庭園では専属庭師の努力もあってか、間もなくいつもの様子を取り戻したが、唯一修復前と異なるのは、広場の中央に石造りの大きな墓標が設けられたことだ。

 墓標には、ゲルム家面々の名前が連ねられている。宮殿の中でも有力者だった父娘が一度に亡くなったことを不審に思う者も大勢いたが、元騎士団長ガイダット・ハインラインは多くを語らず、ただ命を賭してリタルダント・テレスを救ったとだけ口にする。一部では、ゲルム家の墓標も彼の懇願だと言われているが、真偽ほどは定かでない。

 墓標の前には、手向けの花と共に一振りの古びた剣が添えられている。炎熱で刀身が曲がり、何者かの血を大量に吸って、もう何も斬れないであろう代物だ。

 違和感を唱える者もやがては見慣れて、いつか受け入れる。

 そうして、それらは蒼空に溶け込んでいくのだろう――



 かたん、と。

 いつか聞いた軽やかな音がして。

 鍵が掛かっていない部屋の扉が勢いよく開かれる。ヒルベルトは何事だと、硬いベッドの上から上半身を起こした。

 扉を開いたのは、ガイダットだった。その向こうには、腕組みをしているアレンもいる。何か文句のひとつでも言ってやろうと思ったが、ガイダットを押し退けて、黒いビスチェを纏った少女が前に出てきた。

「ごめん、シャロウ。あたしがアカシック・クロニクルの改変を確認している間、どこにも行かせないようにお願いしてたの」

「それはそれは信用のないことで」

 牢屋に放り込まれずとも自分が主を、リピカを放り出してどこかへ行くことなどありえないのに。根本的に見くびられているような気がする。今後はどうにかしてそこを正していかなければならないだろう。

 お願いはしていたけれど、まさか牢屋に入れられてるとはね。という続きは、シャロウの耳に届かなかった。

「フン、さっさとどこへなりと行くがいい。もう、ここへは帰ってくるなよ」

 とは、ガイダット。

 自分たちはある意味、凶兆の使者だ。本心かどうかはともかく、また来いよなどとは言えないだろうなと、苦笑する。

「ほらよ、俺からの餞別だ。大切にしろよ」

 続けて、アレンが肩に担いでいた白鞘を放り込んでくる。シャロウが愛用していた剣は空中庭園に捧げてしまったので、非常にありがたい。

「さて。行きましょうか。次の世界へ!」

「ええ」

「――頼りにしてるからね。シャロウ」

 リピカが伸ばしてきた手を取って、シャロウは大きく頷いた。


(了)

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