9 覚えていない記憶
未だかつて、シャロウはこんなにも激しい怒りに駆られたことはなかった。
しかし、不思議な感覚ではある。身体が疼き、いてもたってもいられないのに、頭は馬鹿馬鹿しいほど冴え冴えとしている。そして、これが激しい怒りだと自覚している。
なんだか矛盾した思いがシャロウを満たしていた。
(そんなこと、関係ないけどな)
止まれと口々に叫んで、行く手を阻む騎士団の面々を一閃の下に叩き伏せ、リタルダント・テレス宮殿を上へ上へと駆け上がる。本来、シャロウの立場では、立ち入ることの出来ない区画だ。
思考が冴え渡っているからこそ、こんな強引なことは良くないという思いも後から沸いて来たが、もはや止まれない。そういう意味で叩き伏せた彼らには申し訳ないと思うが、あとからリピカに癒してもらうことにしよう。
「おい、シャロウ!」
後ろには、正気に戻ったアレンが付いていた。
聞いたところ、今朝、奴の部屋にサーシェが尋ねて来た後からの記憶がないらしい。次に気付いた時には、何故か公園に居て、そして、何故かガイダットに左腕を折られていたという。
――この話を聞く限り、レメゲトンに、ではなく、サーシェに魅了されていたようだ。
彼女に対しては全く無防備なアレンらしいといえば笑い話だが、
「いい迷惑だな」
「はぁ? それはこっちの台詞だっての。お前、気付いたらオッサンに骨折られてた俺の気持ち分かるのか!」
三角巾で吊り下げている左腕をこれ見よがしに突き付けられる。おそらくは、その辺りでサーシェが息絶え、魅了が解けたのだろう。確かに、正気でないと分かっていながら、重傷を負わせる方もどうかと思うが。本当に容赦ない。
そろそろ真打ちともいうべき、そのオッサン――ガイダットが足止めに現れるであろうと踏んでいたのだが、シャロウが目的の部屋に立った時、ちゃっかりアレンの後ろに付いていたのを見た。
さすがに少し笑ってしまう。
「もう騎士団長でもないんでな」
「いや、だからって」
「貴様が、今からすることが楽しみでたまらない」
「おい、オッサン! この腕の恨み、忘れねーぞ!」
当人からすればあまりの理不尽に憤るアレンを適当にたしなめ、素知らぬ涼しい顔のガイダットの相手もそこそこ、シャロウはその部屋の扉を力任せに蹴り飛ばす。
すなわち、
「――ダリアツォッ!」
リタルダント・テレス元魔法兵団長ダリアツォ・ゲルムの部屋の扉を。
憎々しげに吐き捨てると同時、部屋に押し入ったが、そこはものの見事にもぬけの殻だった。開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込んできており、とても老体の趣味とは思えないピンクレースのカーテンが揺れている。そのカーテンの先が机の上の写真立てをくすぐっていた。
「いないな、じいさん」
アレンの言葉に頷き、その写真を手に取る。リタルダント・テレス宮殿をバックに少しだけ若いダリアツォとサーシェ、そしてエリクスが写っていた。魔法が滅んだ後に開発された写真機は未だ一般人の手には余るほど高価なものだ。これは、魔法で台紙に念写されたものだろう。
「ダリアツォ老は、自分の部屋に居ない時は宮殿の最上部、空中庭園で日向ぼっこしていることが多いぞ」
と、ガイダット。
「なんとかと煙は高いところがお好き、ってか」
おどけるアレンを押し退けて、部屋を飛び出すシャロウ。その後にまたアレンとガイダットが続く。今まで入ったことのないエリアだったが、造り自体は単純だ。上へ上へ登ることは容易い。
「ダリアツォ――お前は、お前だけは!」
ぎりっ、と。勢い余って、シャロウは口内を噛み切る。
思い出せ。
もし本当にアラクサラの力がサーシェだけに集束されていたなら、デプス・レイヤーで豹変したダリアツォが炎の魔法など使えるはずなかったことを。
長く鬱屈とした廊下と階段が終わり、視界が蒼に開かれる。
澄み切った空の下。
リタルダント・テレス宮殿で一際高い三本の尖塔に挟み込まれ、支えられるようにその庭園は在った。
「ダリアツォ――ッ!」
庭には、シャロウが見たこともない草花が植えられていたが、その草花が依り代とするように要所要所に大きな珊瑚のレプリカもあった。色鮮やかな珊瑚礁はこの空中において、海底の景色を再現しているようでもある。
その、中心。
ダリアツォはそれらに囲まれ、備え付けのベンチに腰掛けていた。
「……なんだね、騒々しい」
数日前、海底であれだけの醜態を晒したことも忘れたように、ダリアツォは威厳もそこそこ、重々しく言い放つ。
ご老体にとっては憩いの場かもしれない空中庭園に踏み入ってきたふたりの傭兵とひとりの騎士を一瞥してもなお、奴は部屋の椅子に腰掛けていた。翳すその手には、サーシェが身に付けていた、いや、サーシェと一体化していたあの機械のドーム型端子部分だけが乗っていて、ぐぉんぐぉんと例の重低音を響かせている。
「実の娘をていのいい生贄にしたのか、ダリアツォ!」
「そうか。サーシェは逝ったか。く、くく……」
ダリアツォの小さな小さな呻き。
しばらくはそれだけが空気を揺らしていたが、やがて、押し殺せ切れなくなった奴の甲高い笑い声が響き渡った。
「くははははははははははは――ッ!」
「何が、おかしい」
「これが笑わずにおれようか。魔女の力をその身に下ろすなど、我が娘ながら愚行という他あるまいなッ!」
「てめぇ……」
ここに来るまでに詳しい話は出来なかったが、アレンはシャロウの最初の一言で事態を概ね理解したようだ。当人がどこまで本気だったか、シャロウには計り知れぬところではあるが、サーシェに関わることだ。ともすれば、シャロウ以上の怒気を孕んで、アレンはダリアツォを睨み付ける。
「お前は……知っていたのか」
「知っていた。というよりは、常識的に考えて、大気に漂う魔女の力を一個人に集束するなど、まず無謀であることは少し考えれば誰にでも分かるであろう。本人も承知の上で行ったのだ。サーシェは万一の可能性に掛けたようじゃが。結果は、お前たちの知る通り、魔女の力で辛うじて生き延びている哀れな姿。自らを滅ぼした力に生かされるとは、皮肉なものだと娘を見るたび思ったよ。ククク……」
椅子から立ち上がった好々爺は、表情だけは穏やかに語る。
「不治の病魔に冒されたエリクスを救うには、それしかなかったのじゃろうな。アラクサラの死後も流出し続けた魔法の力――フライパンで目玉焼きを作る際に火を起こせる日常生活に困らない程度――では、孫の命を繋ぐことは出来なかったのじゃよ」
「今更、サーシェさんの是非について語るつもりはないんだ。ダリアツォ。既に故人。旦那さんと一緒に静かに眠らせてやるべき。だが、お前は――」
ダリアツォが手に持っていた機械を差し出してくる。こちらに良く見えるように。
「テーマを明確にしようではないか。これのことであろう」
「それが、本物か」
「そうとも。これが本物の収束機だ。サーシェの体に埋め込まれていたものは、ワシがこれを参考に作成したただの中継機じゃよ」
「リスクは全てサーシェさんに背負わせ、魔女の力だけは最終的にお前のところに流れ着く、か……サーシェさんはろ過装置じゃねぇぞ」
「いい例えだ、アレン・グリザリッド」
また、ダリアツォのあの不快な高笑いが空に響く。
が、最後までは笑わせなかった。
シャロウとアレンが同時に飛び出して、その面を左右から同時に殴り飛ばす。避ける素振りすら見せず、ダリアツォは軽く宙を浮いてベンチに叩き付けられた。その衝撃で真っ二つに割れるベンチ。
「おい、ガイダット」
空中庭園の隅っこ、尖塔のひとつに寄りかかり、腕組みをして成り行きを見守っている騎士団長に問い掛ける。
「出来れば、アンタには迷惑掛けたくないが、どうも我慢できそうにない」
「馬鹿言え、シャロウ。このじいさんは俺がぶっ殺す。お前には譲れん」
「俺はお前のことを親友だと思っている。だからこそ、こんな汚れた役目は――」
「シャロウ。それに関しては、俺も同意見だ。お前にこんなこと――」
「いや、俺が――」
「いやいや、俺が――」
「面倒くさいな、お前ら」
ぴしゃりと、ガイダット。
「俺はたまたま欠伸で涙を滲ませて、瞬きしていた。ふたりで仲良く好きにしやがれ」
その代わり、俺はアテにするな、と。どんな威光があるか知れない許可を得て、シャロウとアレンはぐりんと大仰にダリアツォに向き直る。老体はよっこらせと危機感ないようにふらふらと立ち上がった。
「やれやれ、老人は大切にするもんじゃぞ」
「なんだ、その減らず口から裂いて欲しいか」
「アラクサラの力は封印され、娘は逝った。もはや、残されたのは我が身に滞留する僅かな力のみ。じゃがな――」
ダリアツォの右手が赤光に染まる。
「何かと目障りなお前たちを始末するぐらい容易いことじゃよ!」
解き放たれた光が大気と融合を果たし、背丈ほどもある火炎の壁となってシャロウに襲い掛かる。
「バッカ、ぼっとしてんじゃねーよ!」
どんっ、と、アレンの体当たりを食らって、シャロウが吹き飛ぶ。一瞬前までシャロウが立っていた場所に炎の奔流が殺到し、身代わりにアレンが飲み込まれた。
「アレン!」
炎に包まれて、ガイダットが背を預ける尖塔の傍まで後退させられたアレンも心配だったが、追い討ちを掛けようと右手を翳して、既に次の魔法射出の体勢に入っているダリアツォを見過ごすわけにはいかなかった。地を蹴って、ダリアツォに飛び掛る。
「ダリアツォッ!」
掴み掛かろうとして、シャロウは翳された左手の前に叩き落された。見えない何かに阻まれたのだ。顔を上げると、奴の右手がシャロウに標的変更されて、こちらを向いている。よくよく確認もせず身体を一回転、ニ回転。その後を追って、小ぶりな火炎弾が二発、三発と着弾。三回転目で跳ね起きたシャロウは左手で鞘の押さえ、右手を柄に掛ける。剣を引き抜いて一閃。
「ちっ」
だが、踏み込みが甘く、反転しながら後方へ飛ぶようにしてかわすダリアツォ。
「老体のくせに、やけに身軽じゃないか。それも魔法の力か!」
サーシェはシャロウでも撥ね付けられないほどの怪力を見せた。さしずめ、ダリアツォは魔法で敏捷性を補ったのだろう。
返答は火炎だった。肯定もしない、否定もしない荒っぽいものだ。既に空中庭園は立ち昇る火柱と焼け焦げた跡で悲惨な状況になっている。庭師の嘆きが脳裏を掠めた。火柱を掻い潜り、再びダリアツォに接近、剣を振り下ろすも、翳された左手の先に展開された見えない盾に阻まれる。中空に押し留められ、独りでにぎしぎしと鳴る剣はなんだか滑稽にも見えた。
「魔女の眷属……アラクサラの死後、貴様らの来訪を予見出来なかったワシが愚かだったのじゃろうな」
「心外だな。予め対策を立てておけば、俺たちの目はどうにでも誤魔化せたって聞こえる」
「ふん、そう言っておるのじゃよ。たとえ、ガイダットや海賊にデプス・レイヤーの存在を知られようとも、所詮ただの人間。扉は開けられず、そこで終わるはずじゃった」
ダリアツォが再び飛び退り、剣の先の質量が消失して、勢い余り地を抉る。
その僅かな隙に、ダリアツォの炎が来襲した。
一発目は剣圧で弾き、ニ発目は身体を大きく開いてかわす。しかし、三発目以降をかわしきることが出来ず、右足を焼かれて体勢を崩したところ、四発目、五発目を胴と左腕にそれぞれ喰らった。炎のくせに重い。身を焼かれると同時、殴り付けられたような衝撃がシャロウを襲う。
「言ったじゃろう。容易い、とな」
攻撃のための魔法を生み出す右手と、鉄壁の防御をほこる魔法を生み出す左手。過去、何者をも寄せ付けなかったという魔法兵団長の実力の片鱗を見せ、ダリアツォは勝ち誇る。シャロウも相手が老人だと侮っていたわけではないが、大口叩くだけはあると認識を改める。改めたところで、何か対策を打ち出せたわけではないが。
「この期に及んでも、我関せずか。お主のところの若い衆は、このまま地獄へ送呈しても良いのじゃな」
ダリアツォの、ガイダットに対する問い掛けだった。騎士団長はここに来た時から一片の変化すら見せず、腕組みをしたまま尖塔に寄り掛かっている。
「ダリアツォ老をぶん殴りたいというのは、そいつらの意思だ。楽しませて貰おうとは思うが、俺には関係ない」
「なるほど。見殺しか。貴様も退屈な男じゃな」
「退屈、ね」
嘲笑するように、あるいは哀れむように、ガイダット。
「無ければ無いで嫉妬するのに、あったらあったで退屈か。ダリアツォ老、貴方は相当欲深い人間のようだ」
「どういう意味かね」
「曲がりなりにも貴方の娘は魔女の力を手に入れた。それが我慢ならなかったのだろう。装置に細工を施し、力を横取りするまでは良かったが、今度はそれによって何でも自分の思い通りになる世界が退屈に思えてくる。そんなところだろう」
「く、くく、はははは……残念だ。ワシは非常に残念に思うよ、ガイダット。貴様のような人材がもっと早く現れていれば、ワシも退屈せずに済んだかも知れんのにな。だが、惜しいな。少し違う」
「ほう?」
「結局――あの化け物が持ち込んだ機械によって、この世界とはまた別の、もっともっと文明発展した別世界があることをワシは知った。嫉妬という意味であれば、それら届かない世界に対して、じゃよ。リタルダント・テレス――いや、この海洋世界テレストリアルは美しい。が、それだけじゃ……魔法に頼り切っていたこの世界は、物質文明を犠牲にしてきた。のぅ、若いの。魔女の僕であるお主は、色々な世界を見てきたのじゃろう?」
急に話を振られて少しびっくりしたが、ダメージを抜く絶好のチャンスでもあった。シャロウは毅然と応える。
「ああ、見てきた。そんな中でもこの世界は格別に美しいと思うよ」
「ふん……それはそうじゃろう。誰しも自分が置かれた環境以外のことは、そう言うものじゃ。さて、同族への羨望は何よりも嫉妬深い。ワシがサーシェに嫉妬したというくだりは否定せんよ。見よう見真似で装置を作ってみたものの、魔女の力を処理しきれず、デプス・レイヤーに滞留させてしまうような不完全品であったこともな」
「あの時――何を差し置いても、逃げるべきではなかったのではないか。貴方やサーシェにとって、アラクサラは全てにおいて優先されるものだったはず」
「言ったじゃろう。装置の不備には気付いておった。気付いていながら決定的な手段を講じることも出来ず、十数年、手をこまねいていただけ。あのまま放置しておけば、行き場を失った力が暴走し、リタルダント・テレスなど容易く吹き飛ぶことは承知しておったよ」
「それはそれは。とんでもない秘密をよく何年も自分の中に抱え込んだものだな」
「よく言う。お互い様じゃろう、ガイダット」
ま、確かに。と易く認め、肩を竦める騎士団長。
会話としては成立しているものの、ダリアツォの言葉は徐々に熱を帯びて、独白のようになり始めていた。まさか、誰かに聞いて欲しかっただなんて思っているわけないだろうが。
「新たに現れた魔女がそれに気付けばよし。気付かなければ、リタルダント・テレスと運命を共にする。それも悪くなかろう――などと思ったのは、後からのことじゃよ」
「それはいいが、老よ。おしゃべりが過ぎると、足元すくわれるぞ」
「ほざけ!」
意識はこちらに払っていたようだ。シャロウの接近に合わせて、右手で牽制の炎を何発か打ち出した後、全ての攻撃を遮ってきた左手を突き翳す。
と、
「うぐぁッ!」
シャロウの攻撃よりも更に前にダリアツォの悲鳴。
そのしわくちゃに歪んだ表情から、奴の左腕に視線を落とす。限りなく姿勢を低くして、ダリアツォに忍び寄っていたアレンが剣を突き立てているところだった。力なく垂れ下がる左腕は、鉄壁を誇る防御魔法が無効化されたことを意味する。
「へっ、万能じゃねぇんだな。その腕も」
所々火傷の跡を作って、顔も煤だらけのアレンが強がった。
「アレン・グリザリッドッ!」
怒りを顕に、右手で遠く離れた珊瑚のオブジェを遠隔操作。それをアレンに叩き付けて脇に押し退けるダリアツォ。だが、シャロウもその隙を見逃さず、今度はしっかりと踏み込んで、奴の右肩から左脇腹の辺りまで斬り下ろす。
「ぐ、ぶっ……」
吐血がシャロウの頭上に降り注いだ。
ダリアツォは大きく開いた傷口からぽたぽたと、押さえ切れぬ血の斑点を地面に落とし、よたよたと踏鞴を踏む。
「終わりだな、じいさん」
その矢先、咆哮とも遠吠えとも言えるようなダリアツォの怒号が響き渡り、それまで以上の素早さを持って、シャロウから、アレンから、この場の誰からも遠くへ、距離を取った。
その時になって、ようやく騎士団の面々がこの空中庭園に姿を現した。ダリアツォの名を口々に叫び、傍からはどう見ても乱心者であるシャロウとアレンを取り押さえようとしたが、ガイダットが先頭の者を足で引っ掛け転ばせ、一喝する。
「はぁ、はぁ……終わり……? 何か、勘違い、して、ないかね……」
息も絶え絶え、ダリアツォが壮絶な形相で、自嘲を交えながら呻く。
「既に、終わっていたのじゃよ――アラクサラが、封印された時に、と思うかね? 違う、それは、違うぞ……娘が、夫を失った時だ。孫が、不治の病だと、分かった時だ。全てはその瞬間に終わっていた。我がゲルム家は絶望で満たされていたのだからなッ!」
引き裂かれた胴と、刺し貫かれて力なく風にたゆたう左手。誰がどう見ても戦う力など残っていないはずなのに、それでもダリアツォは止まらなかった。無事な右手で例の機械を握り締めて、己が怒気の命じるまま、そこかしこに火柱を解き放つ。
「止めろ、じいさん!」
噴き上がる火炎に紛れて、ダリアツォの収束機が放つ駆動音が大きくなっていく。その僅かな違和感にシャロウ以外、誰か気付いたであろうか。
「何故じゃ、何故ワシばかり――ッ!」
何故、私ばかり――
死の間際、恨めしげにそう呟いたサーシェの言葉が脳裏に蘇る。気持ちは分からないでもない。だが、ダリアツォには嘆く資格などないはずだ。
「絶望を知り、それに応えようとしたのは、サーシェさんだ。お前は後からその力を横取りしただけだろう!」
「そのサーシェの誕生と引き換えに、ワシの妻は命を落とした! そうとも。娘は愛しくもあったが、同時に憎くもあったよ。さぁ、何のためにだね? 何のために最愛の妻は命を落としたのだ? 娘を不幸にするためか、孫を苦しませるためか! 日々業務に追われ、なかなか家に帰れなかったワシへの当て付けと言われれば、まだ納得もできようなッ!」
駆動音が更に大きくなる。
さすがに、誰もがそれに気付く。そして、知識は無くとも、何が起ころうとしているのか、容易に想像出来る。
「おい、シャロウ。まずいんじゃねぇか、あれ!」
只ならぬ雰囲気を感じ取ったアレンが冷や汗混じりに呟く。収束機は駆動音ばかりではなく、ばちばちと紫電を躍らせながら、ダリアツォ自身の手をも焦がしている。それに気付いてないはずがないのに、当人は狂ったように嘲笑と火柱を撒き散らしていた。
「収束機がダリアツォ自身の生命を取り込み始めている、のか……暴発するぞ」
「よくデプス・レイヤーで気付き、止められたな? 今度は止まらんぞ! くはははははは――ッ!」
「貴様……!」
既にダリアツォの手を離れ、中空に浮かび上がった収束機はまるで生き物のように収縮と膨張を繰り返し、元のサイズから比べても相当巨大なものへと変貌を始めていた。
そのエネルギーを提供しているのは、ダリアツォの生命そのものである。最悪、老体の息の根を止めてしまえば、収束機の暴走は止まるのではないだろうか。そう考えてシャロウが、そして、同じことを思ったらしいアレンが同時に駆け出す。が、その距離は推測されるタイムリミットから逆算すると、あまりに遠い。
「くっそ!」
「間に合わねぇ!」
キャパシティの限界。
風前の灯火と呼ばれるものが一際強く輝くとはよく言ったものだ。
誰の目にも明らかなそれが訪れる。あとは、爆発によって生じる衝撃から身体を、騒音から耳を守ることぐらいしか出来ない。
「伏せろ――ッ!」
シャロウが後方に向かって叫ぶ。
リタルダント・テレス全てを飲み込むほどのものなら、伏せたところでどうにもならないことを暗く認めながら。
その、刹那。
「――悪いけれど。そうはさせないよ」
轟音の中でもはっきりと。この場の誰より落ち着き払った声。収束機が放つ光の中に、黒い影が広がる。
黒い影の正体は少女だった。
「リピカ様!」
ダリアツォの背後、突如、中空に現れたリピカは切羽詰ったこの状況を瞬時に理解するや否や、両手で空間を撫でる。その手を追うように緑の軌跡が描かれて、複雑な文様が浮かび上がった。
それは華麗であり、優雅。優美。
そして、壮麗。
「来たれ、森羅万象」
緑光が閃いて、空が、割れる。
その隙間から顔を覗かせたのは、巨大な銀色の円筒。
「ま、さか……アカシック・クロニクルの召喚……!」
衆目に晒すということはそれだけリスクが高まるため、世界の隣にありながら、シャロウも滅多に見せてもらえないものだ。つまり、そうせざるを得ないほどの緊急事態ということ。
空の隙間を広げながら落下してくる円筒は、その場にいる全ての者を圧倒し、視線を虚空に引き付ける。これだけ巨大なものを瞬時に召喚するリピカの魔女としての力量には、シャロウもただただ感心するばかりだった。
続けて、激しい風が正面から吹き付けてきたかと思えば、一転、今度は凄まじいまでの風に背中を押される。ダリアツォとの戦闘で踏み荒らされた草花や珊瑚のオブジェが物凄い勢いで、虚空と円筒の隙間に吸い込まれていく。一定のところで落下を止めたアカシック・クロニクルは空に張り付く形で、地上物を吸引し始めていた。
「こ、これが、宇宙の、記憶……なのか……!」
我に返ったのか、ダリアツォ。
「ここで暴発させられて、元の木阿弥なんかにされちゃたまんないのよッ!」
滑空するように、装置に向かうリピカ。
繰り出した足でそれを蹴り上げ、空へと加速させた。限界まで膨張した装置が瞬く間に空の隙間――銀色の円筒の奥底に吸い込まれて消えていく。あっけないほどの幕切れに誰もが言葉を失っていた。リピカとシャロウ以外は。
「街ひとつ消し飛びそうなほどの威力ですよ! そんなものをアカシック・クロニクルの中で爆発させたら――」
ふわりと地面に降り立ったリピカは汗ばんで額に張り付いた髪をかき上げ、勝ち誇ったように笑う。
「あたしが本気になったところで傷ひとつ付かない無愛想な筒よ。あんな装置ひとつ、爆発したところで煤付けるのが関の山じゃないかな」
過去、記述の確認作業に何度も癇癪を起こして暴れ倒していたリピカが言うことだ。間違いないのだろうが、しかし笑えない。
「あの空の向こうは、位相のずれた場所にある異世界だから、ここには爆発の余波すら届かない。衝撃で中のメモリーキューブがばらばらになるかもしれないけれど、何処かの世界の五百年分ぐらいの量なら片付けも造作ないわね」
まるで、夜空に浮かぶ月のように。
規模はまるで比べ物にならない巨大なものだが、蒼空を割って突き出している銀筒はリピカに背負われて、憮然と、超然と、非現実的にその姿を醸し出していた。
「小娘、何故、ここに……」
予測された光景と全く異なる、継続された未来にやや呆然としながら、ダリアツォが呟く。
「そういえば、同じ質問を海底でもされたね。最後まで答えることが出来なかったけれど――何故この場所にということであれば、ここにシャロウがいるからよ。魔女が使い魔の居場所をリアルタイムで把握できないなんて、あまりにもお粗末じゃない」
「魔女……アカシック・クロニクル……宇宙の記憶とも称される、その膨大な知識。それが、あれば……」
「残念だけれど、アレはこちらの疑問に応えてくれるような便利なものじゃないよ」
ダリアツォが足を引き摺りながら、リピカの方へ、強いては、空に浮かぶアカシック・クロニクルへ向かう。ずるり、ずるりと、その足音がこちらの耳にまで届きそうだった。
その足取りは死者の行進のようで、どうしてか聖地巡礼の厳かさをも兼ね備える。
今更、リピカに危害を加えるとは考えにくいが――
「待て、ダリアツォ!」
まだ動けたことに呆気に取られたが、シャロウがそれを追いかけようとした矢先だった。
「――銀月の扉。私、待っていた、の?」
ぞわりと、背筋が凍った。
認めたくない優しい声音にシャロウは戦慄し、緊急事態でアカシック・クロニクルを晒したリピカが強く動揺し始めている。
その声の主はガイダッドら騎士たちの間を超然とすり抜け、シャロウたちの前に姿を現す。山吹色の髪に、薄衣の少女。
「パウリナッ!」
何故この場所に、何故このタイミングで――なんて聞くのは、もはや白々しいばかりか。
「シャロウ……シャロウ・ヴィン。かつて、貴方は私のことを忘れないと言った。あれは、嘘だったの」
「だから、嘘って、何の話だ」
また嘘だと言われ、妙な迫力に気圧されたシャロウは一歩後ずさる。
嘘という内容については、フラムベルでの廊下の一件から頭の片隅で考えていることだった。この世界に、この街に降り立ち、出会った少女とそんな親密な約束を交わした覚えはなかったし、主からの魂の供給を打ち切られたときに助けて貰ったのは感謝しているが、見返りなど求められただろうか――
それに解を示してくれたのは、主たるリピカだった。
「違うね、シャロウ。キミは根本的に勘違いしてる。あの娘は人間じゃない。あれは、あれもレメゲトンだよ」
「な、ん――ッ!」
「何よりも忘却を恐れる邪悪な意識の集合体レメゲトン。その名前を冠したのはあたしだけれど、レメゲトンという魔道書群を構成する一書、アルス・パウリナからその名前を取ったのは、あたしに対する当て付けなのかしら?」
吹き付ける風に当てられ、枯れ枝のように揺れる少女。
「どうでもいい……もう、どうでも……結局は、シャロウもリピカさんを選んだ……私には、やっぱり何も残らない……」
「シャロウ・ヴィンは元々あたしの使い魔、そう、所有物! ていうより、自分のものにならないことと、忘れ去ることは全く違う! 勘違いするなッ!」
「えへへ……フラムベルで働いてたときから、貴女のそういうところ、大嫌い」
何かを求めるように右手を前へ。彷徨うその指先が霞み、ざりざりとした異音と共に黒く溶け始めていく。
「さよなら、シャロウ……また、何処かの世界で……あるいは、あの銀月の中で」
加速度的に黒霧の分解を広げていくパウリナの肉体。少女の形が急速に失われ、蒼空に広がっていく。
後に残ったのは――
「我ハ、待ってイタぞ……銀月ノ扉が、開かれルのヲ……!」
凝縮された黒い霧に、赤く光る双眸と吊り上がった口。
そう、レメゲトンだった。
「嘘……アラクサラ……ッ!」
「ハハハ、アラクサラを責メルのハ、酷デあるゾ。魔女。奴ハ歴代魔女ノ中で我ガ一番手を焼いタ。手強イ奴だったヨ」
正々堂々競いあったライバルを称えるかのような余裕すら感じられる。アカシック・クロニクルを前にして、チェックメイトの気分なのだろう。
「我を支配ナド、ドコまでモ忌まわシキ魔女アラクサラ。だガ、惜しイかな。全テ撤退なド、事ハそう上手く運ばナイ。我を完全支配出来なカったトは、自身ガ認めテいたノニ……我ハ、ドコにでモ居ル。ドコにでモ、存在スル。パウリナも我ガ端末の一部。フフフ、耐え忍んダ甲斐ガあったトいうモノ」
握り潰すだけでも消し飛びそうな儚いレメゲトンがアカシック・クロニクルに向かって吸い込まれていく。それは、銀月自身の吸引。今更止まらない。
「アラクサラ……ダリアツォ……サーシェ……そして、パウリナ。全テ、思惑通リとはイカなかったが、しカシ、アカシック・クロニクルの召喚、よク漕ぎ付けテくれタ。我ガ積年の悲願――最モ恐れルべきハ、忘却。受ケ入れヨ、はるかナ記憶。それこそ、我が望ミッ!」
「よしなさい、レメゲトン――ッ!」
いくらリピカが声を荒げようとも、レメゲトンは断片的にアカシック・クロニクル自身の力によって空に吸い上げられていく。
「フハハハハハ、感じル――感ジるゾ――宇宙の記憶ヲ!」
と、断片の高揚が最高潮に達した瞬間、上昇を続けていた靄が突然、ぴたりと虚空でその動きを止めた。シャロウには何が起こったか分からず、リピカを盗み見するも彼女の表情からして、彼女が何かをしたわけではなさそうだった。
「なんだ……?」
訝ると同時、レメゲトンの断片は落下を始めた。
落下というよりは、上空の銀筒とは正反対の方向へ引き寄せられているかのようだった。上昇の時とは比較にならない勢いで引き戻されていく。
「ウオ、オォォォォ――ッ!」
靄が向かう先には、ダリアツォが居た。もとい、ダリアツォが居たと言うより、アレンに珊瑚のオブジェを叩き付けた時と同様、ダリアツォが右手の魔法で黒い靄の断片を遠隔操作し、自らの方へ引き寄せていたのだ。
「く……き、貴様ァ、何ヲ! いヤ、何ヲしようト、実体なキ我ハ滅ぼセンぞ! マして、たかガ人間、何ガ出来ルゥ――!」
その言葉を最後に、レメゲトンはダリアツォの口から体内に消えていく。黒い靄を飲み下したダリアツォは一度だけ体を痙攣させて、シャロウの方へ向き直った。ありありと顔色の悪さを滲ませている。反射的に後退りするシャロウ。
レメゲトンは心の弱い人間の理性を消すことが出来る他、人間の体内に潜り込んで、自在に操る術を持っているのだ。当然、そうやって操られた人間を傷つけるわけにもいかず、かつて、シャロウもリピカもろくでもない目に遭わされていた。ガイダットのように重傷を負わせて、ごめんなさいと開き直る勇気もない。
(いや、アレンに謝ってないな。ガイダットめ)
とにかく、過去の様々な苦々しい記憶が蘇る。
が、
「……魔女の敵、か。フフ、かつて、アラクサラに聞いた通りじゃな。滅びから生じた化け物は、滅ぼすこと叶わず、何より忘却を恐れる悪霊……なるほどの」
知ってか知らずか、レメゲトンを自ら体内に呼び込むという暴挙に出たダリアツォは、それでも正気を保っていた。それほどまでにダリアツォの精神が強固だったのか、それとも、アラクサラに大部分を連れ去られて断片と化したレメゲトンにそんな力は残されていなかったのか。
どちらにしろ、顔色は悪いまま、空に浮かぶアカシック・クロニクルを神妙に見上げる老人。
神妙というよりは、郷愁にも似た、あまりにも満ち足りた目をして。
「眼福じゃよ……宇宙の記憶。人間の、世界の至宝アカシック・クロニクル……悪霊如きにくれてやるのは、忍びない……」
「ダリアツォ!」
元々負っていた傷もあって、とうとう体力も尽きたようだ。言葉の途中で膝を折り、その場に崩れ落ちるダリアツォ。
「なんじゃ、その目は。ははっ――まさか、若いの。さっきの話を信じておるのか。話は本当だが、何に対しても、ワシが心を痛めることなど、なかったよ。全ては戯言じゃ」
シャロウには、それこそが戯言のように聞こえた。
サーシェに対して愛憎を抱き、エリクスに対しても愛憎を抱き、どうしようもない想いに心を散り散りにして、最終的に辿り着いたのは、全てを覆い隠した好々爺の仮面だったのではないか。
「さぁ、若いの。お前は、決断の出来る、男じゃな……? 今なら、悪霊を退けられる……この場において、重要なのは、何じゃ。魔女たる小娘と、アカシック・クロニクル……そうであろう? 魔女の、従順たる従者であるというなら、分かるな」
「じいさん、アンタ……」
「守る、とは、難儀なものじゃな。魔女のため、必要な犠牲を払い、先に進む……シャロウ・ヴィン、お前は、そうして、心をすり減らしながら、生きて、いくがいい。ハハハ……!」
戸惑いながらも、剣の柄をしっかりと握り締め、シャロウが歩み寄る。
まるで、勝者は自分であると言わんばかりに、ダリアツォ・ゲルムの掠れた笑いが銀月浮かぶ蒼空に響き渡った。
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