さよならの残り香

その長い夜が明けてから圭子が引っ越すまでの2週間、穏やかな日々が続いた。付き合い始めた最初の頃のように一緒に食事を摂り、他愛もないことで笑いあう。

二人とも、やり直せるかもしれないなんて空想は抱いていない。

終わりが決まっている関係に安心し、始めて圭子は自分がきちんと光太郎に向き合えた気がした。


有給を取った引越しの当日は、雨が降っていた。光太郎は鏡を見ながらネクタイを締め、玄関前まで見送りに来た圭子に微笑んだ。


「バイバイ、圭子ちゃん」

「うん、バイバイ」


またね、とは続かない「バイバイ」はこんなにも切ない。

ドアが閉まり、階段を下って行く光太郎の足音が聞こえなくなるまで、圭子は玄関に立ち尽くした。

梅雨は明けたはずなのに空はどんよりとしており、急に雨音だけが部屋に響き始めた。

ダンボールが積み上がった誰もいない部屋。


圭子を正しく理解しているのは光太郎だけだし、一番愛してくれるのも光太郎だった。二度とあんな風に、丸ごと受け入れてくれる人に出会うことはないだろう。


(たかが今、この一瞬を自由に生きていたいから、私はあなたを捨てました)


“わたし、あなたが好き。だけど、あなたと一緒にいる自分が嫌い”と言う『脳内ポイズンベリー』のセリフを思い出す。


光太郎に当たり散らす自分が嫌いで、光太郎のことも嫌いになりそうだった。

距離を置いたらまた好きになりそうだった。

たまに愛しているとも思った。


光太郎は圭子の心変わりを常に怯えていただろう。そして去っていくことに、少しの安堵を覚えただろう。

とてつもない悲しみと苦しみと共に。


(さよなら私"を"好きだった人)


感傷に浸る資格などない。部屋に突っ立って泣いている自分が、とても身勝手で気持ちの悪い存在だと思った。

罪悪感はまだない。自分はある日突然、壊れるくらいの罪の意識を覚えることになるのだろう。


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同期の何人かには婚約を報告していたため、解消したことを伝えると飲みに連れ出された。

「それでさ、なんでダメだったの?」

二次会の席で、吉野が口火を切った。

「うーん、なんだろうね…」

浮気されていた訳でも、借金があった訳でもない。一言で言ってしまえば、圭子は自分の“今”を取った。


「まあ、パーッと飲もうよ、ね!」

考え込んでしまった圭子に気を使ったのか、かおりが声をあげた。妊活中なので酒は飲まないが、こういう席には顔を出す。

「峰崎部長を目指せばいいんじゃない?家にワインセラーあるからね」

吉野は峰崎がマンションを購入した際にワインを贈ったことがあり、その際にセラーの話を聞いたようだった。

「もう部長じゃなくて、峰崎役員でしょ」

峰崎部長は噂通り役員に昇格し、来週から中途採用で部長が来る。

「あ、そうかそうか。しかし峰崎、役員?は本当にお酒好きなんだなぁ」

吉野のその言葉にはどこか小馬鹿にしたトーンがあるのは気のせいだろか。


「でもあんまりアルコール強くないよな。あと酔うと女出してくる」

新卒配属の際に峰崎の下で働いたことのある小林の言葉に、男性陣が笑う。

「わかる。ちょっと褒めると『え〜そうかなあ』みたいな声出して、結構可愛くない?」

「俺は酔ってる峰崎部長なら抱けるわ、まじ」

「お前は本気で大丈夫そうだから怖いわ」


この枠から抜け出したかったな、と思った。

結婚していたら、この会話の対象にはならない。強いて言えば、旦那さんとどんなセックスするんだろうね、になる。まだこっちの方がましだ。

同時に、そんなくだらない見栄やプライドで結婚したいなんて、そりゃ失敗するわ、と他人事のように思った。


「まあとりあえず、早く新しい彼氏見つけなよ!合コンでもする?」

吉野が軽口を叩く。圭子は苦笑してビールを煽った。


潤とは引越し後、一度だけ会った。一人暮らしに戻った圭子の部屋で、試飲会で買ったシャンパンを一緒に開けたのだ。婚約解消について、潤は何も聞かなかった。

でも、潤とはもう会わないことにした。今更遅いが、今度こそ全ての男を切りたかった。男で自己肯定感を満たさず、ただ日々を生きていきたい。


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