狂っているのは自分の方かもしれない

「圭子ちゃんは俺と一緒に住んでて楽しい?」


その日は、珍しく圭子が定時で仕事から帰宅した日だった。夕食を駅前の大戸屋で済ませてきたという光太郎はリビングでコーヒーを飲んでいて、圭子はその向かいに座り、スーパーで半額だった惣菜を食べ始めたところだった。


突然の言葉に、圭子はしばらく光太郎の顔を見つめた。

(この人と目を合わせるのは、何日ぶりだろう)


少し痩せた、というよりもやつれたように見えるのは、気のせいではないのだろう。否定も肯定もしない圭子に、光太郎は焦れたように言葉を続ける。


「わかってるから。言って。圭子ちゃんはどうしたい?」


かすかな苛立ちを含んだその声に気付く。彼は、ずっと圭子が帰ってくる日を待っていた。最近、ずっと帰宅が遅かったのは仕事が忙しいからでも接待が続いたからでもない。他の男との逢瀬が増えたからでもない。間違いなくこの瞬間から逃げていた。

圭子は割と論理的で、孝太郎の頭の良さには負けるが、問題は話し合いでしっかり解決しなければ気が済まないタイプだ。しかし論理的ではなく理性的でもない今の状態ではそもそも何も課題設定ができないし、だから当然解決も出来ない。正しい道筋で結論が出せないことについてどうすればいいのか、その経験値が圧倒的に圭子には足りなかった。


「圭子ちゃん」

「別れたい」


だが口にした瞬間、心がスッとした。馬鹿げているし、無責任なのは分かっている。そして全くもって理論も理性もない。

箸を置いて光太郎の方をまっすぐ向いた。


「やっぱり、結婚できない」


中途半端に言い出したあの夜からずっと、その結論を言わなきゃいけなくて、でも切り出せなくてここまで来た。

きっかけをくれたのは光太郎だ。


男性として見られないと言われたあと、この人はどれだけ苦しんだのだろう。苦しんで苦しんで、それでもこの人は自分から圭子に投げかけてくれた。


「大丈夫、わかった」


光太郎は、二杯目のコーヒーを注ぎにキッチンに立った。

「圭子ちゃんが一度決めたら揺るがないって知ってるから。僕も色々考えて、別れるのが一番いいって思った。だから大丈夫」


圭子はキッチンの方を振り返ることができない。

光太郎が、感情を押し殺して喋っているのが圭子にはわかる。肩は震えているだろう。長年一緒にいたのだ。今、圭子が何か言えば、彼はきっと泣く。


「圭子ちゃんは変わったね。僕の手にはもう負えない。圭子ちゃんは自由に生きて」


―圭子ちゃんはこれから、もっと自由にいい女になるんだろうね。僕は、それを傍で見たかったけど、僕じゃダメなんだね。別れても、友達でいてほしい。すぐには無理だけど、落ち着いたらお茶でもしよう。それが僕の最後のお願い。


話しているうちに堪えきれなくなったのか、光太郎はキッチンにうずくまって、嗚咽を漏らした。


「圭子ちゃんは、もう僕のことが嫌い?」

「…嫌いじゃないよ。嫌いじゃないけど、男性としては好きじゃない」

「もうやり直せないの」

「そうだね」

「圭子ちゃんと結婚したかった」

「ごめん」


ここ数週間、論理的で理性的な光太郎はいなかった。

「どうしたの?」「何してるの?」と粘着されるのが辛かった。まとわりつく視線が嫌だった。

でも、そうさせたのは間違いなく自分だ。

圭子が居ない夜を、この人は何度も何度も泣いて過ごした。本来の自分が壊れることを自覚しながら、それでもどうしようもなかったのだろう。光太郎が壊れるのを一番怖いと思っていたのは、当たり前だけど光太郎自身だった。


いつもは穏やかに仕事をしている光太郎が、会議中に声を荒げて上司を驚かせた。動作の遅いパソコンに向かってブツブツと一人で苦情を言い続けて、後輩に心配された。


光太郎は、職場でのことがあり、自分が精神的に危ういのを自覚したようだった。


「どうして、こうなっちゃったんだろう」

「ただこうしていたかっただけなのに」

「いてくれさえいればよかった」

「こんなに好きなのに」

「何がいけなかったんだろう」

「どこで間違ったんだろう」


光太郎は、どこも間違ってなかった。この関係は婚約前も、以前付き合っていた頃も、むしろ初めから、光太郎のひたむきな愛だけで成り立っていた。

ただそれだけ。圭子がその愛をぐちゃぐちゃにした。

その晩、圭子の体に絡まって泣く光太郎に謝り続けた。


(ああ、引越先を探さなきゃ)

泣きつかれて寝た光太郎の体温を傍に感じ、天井のシミを見つめながら考える。


こんなに自分を愛してくれる人、そしてこれだけ長く一緒にいた人との別れに、涙ひとつこぼせない自分こそが狂っている。

いつか自分にはバチが当たるだろう。本当に好きで好きで仕方がない人に、ある日突然捨てられるのだろう。

でも今は、部屋の整理整頓を終えたような気分だった。


(誰か私に、最低と言って)


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