捨てないでくれと言える男の素直さ
向かい合って座る圭子が何か言いたげにしていることに気付くのは、出会って六年という月日の長さだろう。別れていた間もどこかで繋がっていると思えるくらいには、お互いが何を考えているか理解している。
今日は会社を定時で切り上げ、駅前のスーパーで待ち合わせをした。久しぶりに食事を一緒に摂ろうと誘ったのは圭子からだ。料理を作る間、光太郎は風呂の部屋の掃除をしていた。
圭子が鯖の味噌煮を食べ終えて箸を置くまで待ったのは、彼なりの気遣いだろう。もしくは話を聞いてしまったら、もう食事が喉を通らないだろうとどこかで気づいていたからかもしれない。
「…隠してることあったりする?」
「そういう訳では、無いんだけど」
光太郎は席を立ち、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。コポコポとお湯が沸き、コーヒーの香ばしい匂いが立ち込める。浮気や借金の類だと思っているのかもしれない。確かに潤に抱かれてはいるが、それと今から話すことは全く別の問題だ。
ゆっくりとこーひを注ぐ幸太郎の横顔を見る。6年、ずっと自分のことを愛している男。別れていた期間も、おそらく自分のことを一途に想っていた男。今後自分の人生に、そんな人は二度と現れないだろう。でも。
ここのところ毎朝、隣で眠る横顔を見て安心する。
(ああ、やっぱり男としては好きじゃない)
自分の気持ちを再確認して、安心する。
話を促すように、コーヒーカップが目の前に差し出された。
「あのね、光太郎」
光太郎が向かいの席に座ったのを見て口を開き、また一度つぐむ。
意を決して、圭子は顔を上げた。
「…私、光太郎のこと人としては好きだけど、男性としては好きじゃないかもしれない」
断定表現を避けたのは、自分の狡さだ。それから一息に話した。キスとセックスができないのは、それが原因だと思っていること。だから入籍は待ってほしいこと。すぐに同棲を解消したいという訳ではないこと。
光太郎は一瞬言葉を失ったが、言葉を正確に把握した後、両手で顔を覆った。
「俺を…捨てないで」
うつむいた顔は見えないが、涙声だった。無駄なプライドを持たず、相手にすがることができるのはきっとこの人の良いところだ。
「ごめんね」
席を立ち、お風呂場に向かう。洋服を脱いでシャワーをひねり、まだ温まりきっていない水を頭から浴びた。いつもより長く丁寧に体を洗った。それが、いま光太郎に対してできる唯一のことだと思った。頭がからっぽで、これからのことを考えようとしてもさっぱりダメだった。
ドライヤーで髪を乾かしてお風呂場を出ると、すでに寝室の電気は消えていた。
静かに布団に潜り込む。背を向けて寝ようとすると、光太郎に後ろから抱きしめられた。
「圭子ちゃん、出て行かないで。俺、自殺してしまうかもしれない」
「…やめて。怖いこと、言わないでよ」
その日は抱きしめられたまま眠った。
朝起きると、光太郎はもう出かけていた。今日から1週間、秋田に出張だから早く出ると言っていた。日の当たる部屋で、トースターにパンを入れる。紅茶を煎れて、フライパンに卵を落とした。
一人になって気づくこともある。確かに、人の気配がする部屋はなんとなく安心する。帰宅して、おかえりただいまと言う生活は心地よい。これはこれで一つの幸せであることは間違いない。
真っ直ぐそれを選べない自分に辟易する。
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