ひな鳥は初めて見たものを親だと思い込む

ひな鳥は、初めて見たものを親だと思い込むという。

圭子にとって、光太郎はそんな存在なのだと気付いた。


光太郎と出会ったのは、NPO団体が主宰する海外ボランティアツアーだ。参加者の半分が社会人を占める8日間のカンボジア旅行で、何かと話しかけてきたのが彼だった。

帰国後行われたツアー仲間との食事会で、帰り道光太郎に告白された。圭子が19の時だ。


今思えば、純粋だった。


女子校から都内の私立大学に進学した圭子の恋愛偏差値は低かった。

サークルの同級生に淡い恋心を抱き、断れないまま自宅に連れ込まれ、処女を失い、挙句サークル中に軽い女と吹聴された。光太郎に告白されたのは、その直後だ。


大学生の圭子から見て、8つ上の光太郎はとても大人に見えた。リーダーシップがあって、議論が上手で、知識も豊富だった。

サークルの同級生に対する恋心とは異なり、光太郎への気持ちが尊敬に近いことは付き合う前から理解していた。

それでも、「彼氏」という響きに惹かれ、告白を了承した。


4年間、続いた。



圭子の親はお見合い結婚で、お互い恋愛はしていないが仲が良い。

「結婚は恋愛と違うから。トキメキじゃなくて安心感よ」


母の口癖だった。友人のようにお互いを信頼し合い、毎日些細なことを楽しそうに語り合う夫婦の姿は、圭子の理想だった。

だから、光太郎は結婚相手には向いていると思った。


彼への「トキメキ」は当初から無かったが、一緒にいることへの安心感はあった。

その安心感は、二人の波長が合う証拠だと思っていた。


しかし今振り返ると、相性の問題ではなかったことに気づく。

光太郎が自分のことを愛しているという絶対的な安心感。今後も裏切ることなく愛し続けるだろうという確信。

この1点が、光太郎との将来を描きやすくし、ひいては結婚相手にふさわしいと誤認させた。


ただそれだけだ。


当時、圭子はしばしば光太郎の前でヒステリーを起こした。きっかけはどれも些細なことだ。

くだらない冗談や思想信条に合わない政治の話など、普通であれば笑って受け流せるような言葉に引っかかって、きつい口調になる。


−自分はなんて情緒不安な女なんだろう。それを受け入れてくれる光太郎は、圭子のことを正しく理解する唯一の男だ。


別れたのは、圭子に好きな人ができたことが直接的な理由だが、自分のヒステリーが酷くなったこともある。

社会人になり、ストレスを溜めた圭子はますます光太郎に当たり散らすようになった。

それでも彼は圭子を上手に扱い、結婚も視野に入れるようになった。

しかし、光太郎への態度に抑制が効かなくなるのが怖かったから、別れを切り出した。いつも辛く当たってしまう自分自身も嫌いになっていた。


「いつか戻ってきてね」


最後の食事の時、光太郎が言った言葉だ。

彼は結局、4年弱待ったことになる。


月日が経ち、圭子も大人になった。

光太郎と別れてから今まで、随分遊んできたし、きちんと付き合った男もいた。

どの男とも、あの頃のようにヒステリーを起こすこともなく良い関係を築けるようになった。

でも 20歳も年上だったり仕事に不真面目だったり子供が嫌いだったりと、結婚には向いていると思えない人たちだった。


光太郎と定期的に合うようになったのは、1年前だ。ボランティアツアーの仲間が結婚し、そのパーティーで再会したのがきっかけだ。

圭子には彼氏がいたが、光太郎は相変わらず自分のことが好きだというのが黙っていても伝わった。

友達のような彼氏ではなく、友達でいる心地よさがあった。


そして、いつかはこの人と結婚するんだろうな、という未来が懐かしく思い出された。


去年の暮れにも、いつも通り会っていた。

「お見合いさせられるかもしれないんだ」


いつもと違ったのは、光太郎の言葉だ。

「だから、その前にチャンスが欲しい」


ずっと自分のことを好きだった男。

自分はあの頃のように子供じゃない。きっとこの結婚向きの男と幸せになれる。


圭子は頷いた。

「結婚前提で、またお付き合いしましょう」


その時は、確かに前向きに結婚しようという意思はあった。自分の両親のように仲が良く安定した家庭を築けると思っていた。

でも今は、自分が結婚の同意をした本当の理由を知っている。


圭子は当時転職活動をしていたが、全く上手くいっていなかった。もうすぐ丸4年働いている会社での給与が上がらず、不安だった。結婚して、安定した生活を送りたかった。

光太郎が、来年35歳になるという事実も圭子を焦らせた。これ以上時間が経てば、きっと彼は違う人と結婚してしまうだろうし、長く待たせたという責任のようなものもある。

それに圭子自身、26歳だ。光太郎と別れてから今まで付き合った男は、全て結婚には不向きだと感じた。彼を逃したら、結婚できそうな相手はもう見つけられないのではないか。

当時好きだった年上の男の卑屈な部分が見えてしまって、やっぱりこの人への恋心も永遠じゃないんだと疲れていた。


そして結婚というレールに乗ってからは、双方の親への挨拶も結婚指輪も同棲も、自ら率先して進めた。


ここに来て思う。

圭子にとって光太郎は、初めて見た鳥だった。ひな鳥だった自分が、初めて付き合い、共に過ごした。だから正しいと思い込んでいた。


復縁してから、圭子は再びヒステリーを起こすようになった。以前付き合っていた頃と一緒だ。


他の男とは大丈夫だったのに、と思って気付いた。

光太郎と自分は、相性が良かった訳ではない。光太郎が自分を盲目的に愛し受け入れていただけだ。


もう一つ気付いたことがある。

光太郎は自分を愛しているけれど、自分は光太郎を愛していないということ。


月に一度、近況報告する友人としては好きだ。

でも、それだけだった。


結婚相手には向いていると思っていた。でも両親だって、お互いに愛し合っていたから安心を得たのだ。確かにそれは恋のようなキラキラとしたものではないかもしれないが、少なくとも自分だけが一方的に愛されることによる満足感ではない。


圭子の恋愛偏差値は上がった。昔とは違う。

光太郎は、一切の恋愛をせず、自分だけを見ていた。


幼かった鳥は成長し、知ってしまった。

(この人は、特別でもなんでもない)


勝手に戻ってきて、ひどい女だと思う。

今更何を言うんだと頬を打たれても仕方がない。


でも、違うのだ。

結婚も大してしたくないことも、もう自覚している。


結局転職活動は成功し、圭子は6月中旬から大手企業に勤め始める。年収は、70万ほど上がる予定だ。光太郎の年齢になる前に、稼ぎは彼を超えるだろう。


一人で生きてもいけるという手段を前に、これから本当にどうすべきなのか途方にくれた。



恋愛と結婚は違うのに、どうして相手は一人で無ければならないのか。

ずっとそう思ってきた。


確かにその二つは性質を異にするし、求めることも違う。

だけど、要素を完全に切り離すことはできないのだ。



恋や愛が欠片も無ければ、きっと結婚はできない。

相手を好きな気持ちは、恋愛にも結婚にも必要だ。

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