自分の世界を愛してくれる男

朝方に潤が帰ってから、圭子は再びダンボールを組み立てていた。光太郎との新居への引っ越しはちょうど24時間後だ。今日は徹夜で荷詰めをすることになるだろう。

 空のワインボトルと、二つのシャンパングラスをキッチンに運んで洗った。Tiffany&co.のペアグラスは、会社の同期が退社と婚約のお祝いにくれたものだ。初めて使用したのが光太郎ではなく潤だなんて、バチがあたる。ドラマ「せいせいするほど愛してる」で不倫のイメージがいささかあるブランドチョイスは、自分の将来を暗示しているようだった。

 まずは本棚から取り掛かることにした。これを機に読んでいない本を捨てようと思ったが、大して減らすことができなかった。本棚の手前に所狭しと並べられたアンティークな置物やオルゴール、キャンドルは壊れやすい。一つ一つ緩衝材に包まなくてはならず、時間を要した。引越先は特別広い訳ではないから、すべて持っていくこともできない。小さい頃から集めた物たちの一部は、捨てざるを得なかった。透明なゴミ袋に物を入れるたび、自分が足先から欠けていく気がした。

 次に洋服。オフィスカジュアルで通勤しているため、そんなに大量には無い。昔着ていたエキセントリックな柄のワンピースは捨てることにした。地球儀型の照明をライティングレールから外し、備え付けの電球を嵌め、一息つく。

 最後の仕事は、壁紙を剥がすことだ。ベッドサイドの壁は、濃紺にアラベスク模様が描かれている。わざわざ業者を呼んで、剥がせる壁紙を貼ったのだ。光太郎からは、ラブホテルみたいだと不評だったが、圭子は気に入っていた。カッターとバケツを持ってきて、依頼した業者のサイトを見ながら丁寧に端から破いていく。たまごの殻を剥くようにつるりと剥がれ、白い地の壁が現れた。そのままぺりぺりときれいに取り外すことができた。

(ああ、魔法が解けていく)

 大学卒業からずっと住んでいたこの空間が、一気に圭子の部屋では無くなる。普通のワンルームの部屋に戻っていく。しばらく、圭子は白い壁から目が離せなかった。

(私の、居場所)

 生活感の無い、美しい空間だった。壁紙一つとっても、他者から見れば相当なこだわりだったと思う。トルソーやアンティークソファを揃え、古いヨーロッパ映画のような部屋を作り込んだ。圭子の聖域。

 仕事でミスして取引先に謝罪に駆けずり回った日も、上司からセクハラを受けて怒り狂った日も、

この部屋に戻れば、自分は自分に還れた。キャンドルに火を灯して、お香を焚いて、お気に入りの茶葉で紅茶を淹れて。そうやって生きてきた。

 でも、これからは他の方法を探すしかないのだ。光太郎は、疲れて泣いて帰ってきた圭子を優しく抱いてくれるだろうか。その人肌は、自分が求めているものなのだろうか。圭子は彼の体温に安らぎを覚えることができるのだろうか。

 潤に出会った当初、小説を三冊貸したことがある。一冊は現代詩に近い独特なストーリーで、圭子が最も愛する作品だ。一般的には男性に好まれるものではなかった。残りの二冊は、哲学的だが比較的読みやすいものにした。潤は、すぐに読み終えたようでメッセージがきた。潤が好きだと言った作品は、圭子と同じだった。そのとき、この人とする恋愛はきっと綺麗なんだろな、と思ったのだった。現実味のないふわふわした美しい時間を過ごした。でも、結婚のために、圭子は現実を選ぶ。

 結局引越しの荷詰めがほとんど終わったのは引越し当日の朝で、圭子はニュースラジオでも聞こうとスマホを手に取った。潤からLINEが来ていた。

「いま鏡見たら、首にキスマーク付いてたよ」

 昨晩、ベッドでまどろんでいた時にキスマークの話になった。潤は、肩や首を甘噛みする癖がある。

「でもキスマークは付けてないから、安心して」という潤に、「じゃあ私が付けちゃおうかな」と、軽く鎖骨を吸ってみたのだ。まさか付くとは思わなかったが、鬱血の跡を残したいと心の隅では思っていたのは本当だ。

 同棲が始まる前日に、他の男にキスマークを付ける。結婚は、どんどん汚れていく。

 友人たちや会社の同僚は、口を揃えて「結婚の準備で、今が一番楽しい時だね」と言う。でも、圭子にはわからない。

 新宿や六本木に住んでみたいし、一人で弾丸旅行もしたい。夫との約束より女子会を優先させたい時もあるし、ナンパされにナイトクラブに行きたい時もある。自分が敷いたレールを足早に歩く人間を、周囲が止めることはない。計画通りに生きることで、将来への不安を消してきた。でも漠然とした不安のために甘い綿菓子のような生活や男を捨てるのはしんどい。

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