好きなものに囲まれて生きたい

「なんで止めるの。気持ちいいんでしょ」

 快感を与える右手を押さえた圭子に、潤は甘い声で質問した。

「だって…も、気持ちいいから、いや。もういい…」

 浅い呼吸をする。うっすらと目を開けると、潤が自分の人差し指と中指を見せつけるように舐めるのが見えた。

「圭子の、無味無臭」

 ニヤリと意地悪な笑みを浮かべ、その右手で避妊具をつまみながら器用にシャツとジーンズを脱いだ。洋服を着ているときは線が細く見えるのに、脱ぐときちんと筋肉が付いている。適度に鍛えられた身体は、雄としての魅力を十二分に発揮していた。

「挿れるよ」

「ん…」

 しっかりと重量のあるそれが、圭子に押し入ってくる。すべて収まると、潤はそのまましばらく動かず、馴染むまで待つ。圭子が腰を揺らして急かすと、そこで初めて前後運動を始めるのがいつものやり方だった。どこに当たっても気持ちいいのは、潤のテクニックだろうか。それとも、感情の問題だろうか。

「圭子、ほんとに可愛いな」

 首筋を甘噛みされる。何度か体位を変えて、キスをたくさんして、「もう、イってもいい?」と潤が吐息を吐く。

「ん、イって、私も気持ちいい」

「爽やか」という表現が似合う涼しげな顔が、切羽詰まった快感によって歪むのが好きだ。この身体全身を使って、悦ばせてあげたいと思う。最後に中がキュッと締まるのが、自分でもわかった。

 引越しを控えた金曜日、圭子の部屋でセックスをした。本棚の一冊一冊を手に取って思い出を語り、お互いが学生時代に聞いていた音楽を流し、部屋中のキャンドルに火を灯した。潤が持ってきたシャンパンと、冷蔵庫で冷えていた赤ワインを飲み干す頃には、圭子は潤の腕の中にいた。

 セックスが終わっても、潤は圭子の髪を撫で、背中にキスをしてくれた。キャンドルの光が揺れて星型のペンライトの影を作るのを見ていたら、涙がこぼれた。潤は何も言わずに、圭子にキスをし、ついでのように頬を伝う涙を舐めた。

 小さいときかお小遣いを貯めて収集したアンティークの小物やオルゴール、高校で地学の授業を受けてから買うようになったアメジストやラピスラズリの鉱物、十数年かけて揃えた書籍と文学雑誌、書き溜めたスケッチや絵日記。自分の好きなものに囲まれ、この世界が好きだと言ってくれる男が隣にいる。永遠ではないとわかっているけれど、ここには確かに幸せがある。

 それなのに、なぜか手放そうとしている。しばらく、涙は止まらなかった。

「圭子が同棲している間だけ、俺も彼女作ろうかな」

 潤は、圭子が引越すのは結婚のためではなく、期間が区切られた同棲のような認識で話をする。

「そんなこと言って、別に今でもたくさん彼女いるんでしょ」

 涙で濡れた顔を洗うために、洗面所に移動する。鏡の前で二人並び、歯を磨いた。潤が歯ブラシを動かす手を止めて、鏡越しに真顔になったのが見えた。

「彼女、いないよ。愛がなければ、セックスもデートもしないから」

 真剣なその様子に、心が満たされていくのがわかった。恋愛と呼ぶのは正しくないが、圭子がどうしてもこの甘い関係を手放せないのは、自己肯定感を与えてくれるのは仕事でも何でもなく、男だけだからだ。もちろん潤の言葉をまるっきり信じた訳ではない。結婚する予定の女と平然とセックスする男が、まともなはずがない。


「じゃあ、高宮さんはずっと成増駅周辺に住んでるんですか?」

 研修を終えた新卒の配属が決まり、圭子の部署にも大卒の女の子が入社した。ここ数年、会社の飲み会に経費が出なくなったため自腹での懇親会は参加率が非常に悪かったが、今日の歓迎会は珍しくほとんどのメンバーが揃った。

「そうだね、大学が池袋だったからそのあたり。加藤さんはどこに住んでるの」

 圭子が同棲することになったという話題から、住んでいる街の話になった。

「私は新宿です」

「新宿っていうと曙橋とか坂上のほう?」

 以前、マッチングアプリで出会った男性が新宿からタクシーで帰れる距離だからと、曙橋駅に住んでいたのを思い出す。

「いえ、新宿駅。新宿駅東口から徒歩5分くらいです」

「新宿!」

 向かいのテーブルで飲んでいた同期の滝口が振り返り、ビールのジョッキを持ったままこちらに加わる。

「え、なんで新宿に住んでるの。めっちゃ都会ってか、治安悪くない?深夜までうるさいイメージあるし」

「うーん、逆にうるさいくらいが好きなんですよ。人の気配がしたほうが安心して眠れる」

 そういえば小岩に住んでいたセフレが、幹線道路の近くに住んでいた。いつでもほの明るく、誰かがどこかに音がするのは、確かに落ち着いた。シューっという微かなタイヤの音と、時たま通るトラックのドドドドドという振動が、なぜか懐かしく感じた。

「人の気配かあ、だったら高宮みたいに彼氏と同棲すればいいじゃん。加藤さん、彼氏いるの?ってこれはセクハラか」

「はい、滝口アウト」

 顔の前で大きなバツを作ってみせる。加藤本人は笑っている。

(いつでも人の気配がする、か)

 でもきっと、不特定多数のぼんやりとした誰かの気配と、家に誰かがいるという具体的な気配とは全然異なるのだ。同棲は後者だが、圭子はそれを望んでいるのだろうか。

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