婚約指輪を外して男に会いに行く
違和感から逃げるように、圭子は事を急いだ。桜が散り、急に暖かくなった4月の土曜日、圭子は光太郎からプロポーズを受けた。よりを戻してからわずか1ヶ月と少しだった。都内の夜景が見えるレストランだったが、とはいえこのレストランを指定したのは圭子自身で、全てが予定調和だった。
今、圭子の左手の薬指には、ダイヤがきらめいている。自分で選んだデザインはもちろん気に入るものだったが、想定していたような気持ちの華やぎは皆無だった。
この指輪をしたら、もう他の男に抱かれない。そう決めたはずなのに。
この指輪をしたら、結婚する男だけを想う。そう決めたはずなのに。
その日の夜は光太郎が予約したホテルに泊まったが、圭子は一睡もできなかった。光太郎がいつもよりワインを飲みすぎたせいで、シャワーを浴びることもなく寝落ちしてしまったことが救いだった。
この間抱かれたときの違和感を思い出し、とにかく抱かれるのが怖かった。本来であれば幸福感に包まれるべき夜に、なぜ自分は眠れないほど怯えているのだろうか。自分で敷いたレールを、着実に歩いているだけなのに。部屋が暑い。隣の光太郎の寝息が、やけに耳障りだった。耐えられなくてダブルベッドを抜け出し、ソファで横になる。
朝を迎える頃には、圭子はびっしょりと汗をかいていた。本当に、一睡もできなかった。
「で、結局潤くんに会っちゃったんだね」・
焼き鳥の串を優雅に抜きながら、加奈子は少しだけ呆れた風な表情を見せた。彼女の薬指には、ハリー・ウィンストンのリングがきらめく。婚約指輪は不要と言っていた加奈子だったが、結婚指輪は買ったらしい。
月曜日、急な呼び出しにも関わらず、加奈子は圭子の会社近くまで来てくれた。新橋周辺には意外と、女子会向けの半個室居酒屋が多くある。
「でも生理だったから、してないよ」
「次また会ったらしちゃうでしょ」
プロポーズの翌日、ホテルをチェックアウトしたその足で、圭子は潤と食事をした。元々約束をしていた訳ではなかったが、光太郎と解散して家路に向かう途中で連絡が来た。婚約指輪は、外した。指輪に誓った決意など、欠片も意味をなさなかった。こんなにも早く、男に会う目的で外すことになるなんて、一体自分は婚約指輪に何を期待していたのだろう。
運がいいのか悪いのか、生理が始まって、その日はセックスはしなかった。元彼と復縁したことを言えないままずるずると関係を続け、もはや自分は婚約をしてしまった。しかし、今夜も潤とはいつも通り楽しく食事をしただけで、何も言い出せなかった。もはや、言い出す努力すらしなかった。
目の前の男は、昨日の光太郎と比べて、前にも増して魅力的に映った。
「圭子、今連絡しなよ。そのために私のこと、呼んだんでしょ。彼氏ができた、っていうかもはや婚約したって、LINEしなよ」
「…うん」
潤と対面では言い出せる気がせず、加奈子を呼んだ。加奈子がいる前で覚悟を決めようと思ったのだ。正しい選択肢を選ばなければいけない。早く恋愛を断ち切らなければいけない。
加奈子とは付き合いが長いだけに、圭子の意思を正しく読み取ってくれる。それに、不倫を経験し、さらに略奪婚を達成した加奈子の恋愛偏差値は高く、アドバイスを貰うには最適なのだ。光太郎と復縁する際、他に数人いたセフレを切ったときもそばにいてくれた。文面を考えてもらって、送信ボタンを押す。
−元彼と結婚前提で復縁することになっちゃった
息を詰めて送信したメッセージを読み返していたが、すぐに既読が付いた。
「返信、なんてきたの?見せて」
−そうなんだ。じゃあもう会ってくれないの?
加奈子は圭子の携帯を奪って返信を見た後、苦笑した。
「遊び慣れてる男だね」
「うん」
しばらく、無言で赤ワインのグラスを傾ける。アテに頼んだ牡蠣のアヒージョはすっかり冷めていた。予想外の展開だった。今日加奈子に助けてもらって潤に連絡したら、お幸せにとか何とか言われて関係が終わるか、返信が来なくなるかどちらかだと思っていた。会ってくれないの?とこちらに選択肢を委ねられるのは、想定していなかった。
「なんかもう、どうしても切れないなら、結婚までは婚約者にバレないように、継続したら?」
無理して急にすべて断ち切ると、リバウンドする。ダイエットと一緒。もう少しだけ。都合のいいように決断を先延ばしにする。
「結婚するまでには切りなよ。不倫はオススメしないわ」
加奈子はニヤリと笑った。
あっという間に、自分のルールのハードルを下げた。『婚約したらリスクがあるから他の男には抱かれない』なんて、偉そうに言っていたくせに。
でも。
−頻度は下がるかもしれないけど、また会ってくれたら嬉しい
−よかった。またお酒飲みに行こうね
潤は圭子に対して特別な感情を一切抱いていなかった。相手が他の男と付き合っていようがいまいが、気にならない。世間では、それはつまり遊ばれているのだと言う。正直、少し寂しい気もするが、ほっとした部分が大きい。お互い遊び、という気軽さが今はありがたかった。同時に、婚約したことを告げたら潤が傷つくのではないかと少しだけ思っていた驕りが恥ずかしかった。実際に結婚したら向こうもリスクがあるから見切りをつけられるかもしれないが、それまでは何も変わらない。
恋愛の先に必ず結婚がある訳でないし、恋愛と結婚に求めるものは違う。なのになんで、恋愛相手と結婚相手、一人ずついるのはダメなんだろう。
光太郎は、潤の存在を知ったら圭子を軽蔑する。それが普通の感覚だということも、わかっている。東京には出会いも選択肢も多いのに、常識はいつになっても変わらない。常識を逸脱できない自分のような弱い人間は、常識の中でもがいて、自分で自分の首を絞める。大人になったら結婚するという常識から抜け出せないくせに、恋愛を捨てきれない自分の弱さに嫌悪感を覚えるが、止められない。
「ところで、加奈子は旦那さんとは問題ないの?」
潤からの返信を確認し、携帯をテーブルに伏せた。彼女は一年前、肉体関係のあった妻帯者に離婚を迫り、あっという間に自分との結婚まで漕ぎ着けた。
「相変わらず、超デレデレだよ。毎日飲みにも行かずに真っ直ぐ帰ってくる。やっぱり自ら勝ち取った愛は強いね」
「不倫」は成功すると「略奪愛」に変わる。結局、勝った方が正義で正解なのだ。加奈子の夫は、元妻に慰謝料を払っている。だが、逆にいうと慰謝料さえ払えばそれで済む。不倫は犯罪ではないし、結婚はただの契約だ。紙切れ一枚に自分たちはこうも踊らされる。
*
「ゴールデンウィーク休む人は?」
水曜日の定例会議の後、『お局』と言われる狩谷美恵子が挙手を募った。部署によってはゴールデンウイークも顧客対応があるため交代で出勤しなければいけないのだが、この部署は日系企業相手のビジネスが主なのでほとんど全員が手を挙げた。
「オッケー。タイムカードにあらかじめ登録しておいてね」
狩谷はいわゆる一般職としてこの会社に入社し、20年以上働いている。峰崎部長と同期だが、出世に興味が無いことが功を奏しているのか二人は仲が良い。
「狩谷さんはまた海外ですか?」
若手の男性がホワイトボードの文字を消しながら質問する。ここ数年、彼女は長期休みになると必ずヨーロッパのどこかに行っている。
「ううん、今年は彼が日本に来るから。もうヨーロッパも飽きたし」
「え、狩谷さん彼氏いたんですか?」
狩谷は苦笑した。
「佐々木くん、それ聞く相手をミスるとセクハラ。ちなみに彼氏じゃなくて『彼女』がいるかもしれないんだから、そこも注意ね。ダイバーシティよ、今は」
「うわ、すみません」
恋愛なんてとっくに引退しているように見えた女性に、恋人がいることは意外だった。だが何歳になっても、きちんと人を好きになることができるのは羨ましくもあった。
エレベーターに乗り込むと、隣に立つ狩谷に聞いてみた。
「それにしても、その方とはずいぶん長いお付き合いなんですね。狩谷さん、私が入社してからずっと、年に二、三回は海外に行っている気がします」
結婚もせずに、長期の恋愛関係を築くのは難しい。もちろん一方で、結婚を維持するのも同じくらい難しい。本当は、好きな人間と何の保証も契約も無くてもずっと一緒にいられるのが理想なのかもしれない。
「うーん、まあ恋人というか、腐れ縁というか。元夫なのよ」
思わず顔を上げる。驚いたのは圭子だけではないようで、階数ボタンの前に立っていた佐々木も目を丸くしていた。
「え、狩谷さんってバツイチなんですか?」
佐々木は遠慮という概念が無いのか、ストレートに聞いた。
「あ、うーん。実はね。結婚って形は合わなくて三年で恋人に戻ったけど」
「いろんな愛の形がありますね」
なんだか全力で負けた気がするのはなぜなんだろう。一度も結婚したことが無いのと一度あるのとでは大きく違う。
「結婚、メリット無かったのよ。共働きだと配偶者控除も関係ないから税金安くならないし、子供は作らないって決めてたし」
「確かにそうかもしれないですね」
エレベータを降りた刈谷の後ろを歩く。今まで気づかなかったが、書類を持っている狩谷の指先がきちんとネイルされていることに気づいた。手入れが行き届いた手先に、急に女を感じる。
(結婚しなきゃ)
改めて思った。
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