経験人数は、両手両足で足りなくなったところで数えるのをやめた

「圭子、シャンパンとシードル、どっち飲む?」

 キッチンから、潤の声がした。

 「シャンパンがいいな」

 「了解、ちょっと待ってて」

 六本木のタワーマンションから見る夜景は、明るすぎて趣が無い。窓を開けてベランダに出ようとしたが風が強く、すぐに部屋に戻った。高層階というのは落下防止のためにベランダに洗濯物を干すことが禁じられており、植木鉢を置くことも許されない。少し前までタワーマンションへの憧れもあったが、不便だと繰り返す潤のおかげで今は憧れを抱かなくなった。コンビニに行くにもエレベーターで降りるのが面倒で、ウーバーイーツを使ってしまうと言っていた。だが、やはり華やかさや便利さは羨ましい。この部屋は単身者向けにも関わらずキッチンは3口コンロだし食洗機も付いている。夜景が一望できるプールやジムもあるし、最上階には住人だけが使用できるバーがある。

 潤とはTinder経由で、出会ったその日にこの部屋で抱かれた。西麻布の待ち合わせ場所に現れた彼は、アプリの写真よりもラフで整った顔立ちをしていた。行きつけだというバーでシャンパンを空け、マスター「潤くんが女の子を連れてくるの初めてだね」という言葉を信じたわけではないが、酒が進んだことを覚えている。それから付き合うでもなく、体だけの関係が一年。

 男に抱かれることに慣れてしまったのはいつからだろう。昔は、初めて会った男とセックスするなんて想像したこともなかった。だが、経験人数が両手を超えたところで気にしなくなった。両足含めても足りなくなったところで人数を数えることもやめた。

 個人トレーダーの潤の年収はブレはあるものの、億を超えることもある。圭子がこのまま普通に働いても、手の届かない収入だ。

(稼いでいる男は、好きだ)

 隣にいる自分が、その男が抱くほどの価値があると思える。これが自分の悪癖だ。

 カーテンの隙間から入り込む風はかすかに桜の香りがした。もう春が訪れる。注いでくれたロゼシャンパンは、透き通る桜色だった。細いステム持つ指は、最近忙しくてネイルができていない。美しいグラスを持つのにはふさわしくない指先だ。細かな泡がふつふつと生まれて弾ける液体はいつも圭子の気分を盛り上げるが、今日はコンディションが釣り合っていない。

「乾杯!」

 潤は遊び人特有の、緩やかで親密なトーンでグラスを軽く掲げた。

グラスの縁を唇に近づけると、小さな泡が柔らかに皮膚を刺激した。次回会うときまでには、ネイルをしておこう。

 潤のような、わかりやすい『いい男』が自分にシャンパンを注いでくれる時間に酔う。

(でも、この幸福は、結婚によって永遠に失われる)

婚約を前提に元彼と復縁したとき、他の男との関係は清算した。潤ともそうするつもりだったが、今日も予約していたレストランに彼が来た瞬間、綺麗さっぱり忘れた。彼が魅力的だからという理由ではない。自己肯定感を満たしてくれる最後の一人を失うのが怖かった。

『いい男』が、自分のことを可愛い、綺麗だと褒め称え、美味しい食事とお酒と貢物を与えてくれること。女としての市場価値が高いと実感させてくれるひとときに、圭子は幸福感を覚える。いつの間にか、圭子は自分が考えている以上に男に依存していた。

  婚約者になる予定のその男では、駄目だった。

(だって、光太郎に愛されたところで自分の市場価値は上がらない)

光太郎のような、平均的な顔と体と年収の夫になる予定の男性に愛されても、自己肯定感はかけらも満たされない。

 

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