トーキョー・マリッジブルー
街子
結婚してもタラレバは消えない
裏手にある社員通用口を出た日陰で煙草を吸っていると、総務部の結城かおりが財布を持って出てきた。来月末には山下かおりになる同期の女。颯爽とした歩きには、安定した将来が手に入る優越感が透けて見えた。今時結婚するからと言って一概に安定とは言えないだろうが、少なくても彼女の結婚は明るい。圭子には気づかず、前を通り過ぎていく。白いふくらはぎに赤い虫さされがあり、妙に仇っぽく見えた。
夫となる予定の男は山下と言って、圭子とは大学時代に同じスノボサークルに所属していた。かおりを含む会社同期の女子たちを誘った合コンに偶然山下がいたのだが、男性幹事は別の合コンで出会った男だったので驚いた。サークルの一期上の山下のことは前から知っていたが、会話をしたのはその時が始めてだ。
二人の結婚式では友人代表の言葉をする。山下とかおりのなれそめは「合コン」ではなく私からの紹介にしてくれと言われていた。今どきはマッチングアプリでの結婚も増えているのだから、わざわざ隠す必要も無いと思うのだが。
二十六歳になると、facebookを開くたびに結婚報告が投稿されている。最近は結婚式をやらないカップルも増えていると聞くが、今秋はかおりと山下の結婚式を入れて5件招待されている。最近やたらと外資系ホテルに詳しくなってしまった。
かおりは仕事を辞めるそうだ。山下は日本最大手の通信会社で働いている。年収は二十九歳で800万円。SEとしての採用だったが、英語と中国語とドイツ語が堪能だということで、もっぱら外国人採用の人事だとか重役会議の代理出席などをしているらしい。ガチガチの日系企業がその年代に払う給与としてはかなり高いだろうが、その年収一本では都内での子育ては厳しいはずだ。このご時世、かおりが簡単に仕事を手放してしまう気持ちが全く理解できない。
かおりは大学時代、優秀だったと噂で聞いた。ゼミの発表が評価され、大学から海外研修費を給付されたことやTOIECが満点近いことは山下からも聞いている。だけど就活に失敗したのか、バリバリ働くことに興味が無いのか、今はいわゆる一般職として勤めている。同じ会社とはいえ、総合職の圭子とは仕事の内容も給与も違う。営業の圭子は裁量労働制で働いているため、昼休みを2時間取っても文句は言われない。かおりたち一般職の女性たちがせかせかと1時間でランチをする様子は少し大変そうだ。煙草もゆっくり吸えない。
二本目のタバコを吸い終えてから、圭子はデスクに戻った。
会社には伝えていないしかおりもまだ知らないが、圭子も婚約を目前に控えていた。圭子は、来月自分の薬指に収まる予定の指輪を想像した。
(みんな、結婚する)
一抜けた。圭子はそう思っている。
「ごめん高宮ちゃん、私これからアポだから先帰るね」
金曜日の終業後は慌ただしい。バタバタと帰り支度を始める同期に笑顔で手を振り、圭子はキーボードを打つ手に視線を戻した。アポというのは仕事の約束ではなく、合コンだ。「東京タラレバ娘」に怯えている友人も多いが、圭子はもう金曜日だからと言って出会いの場に繰り出す必要はない。
「東京タラレバ娘」がドラマ化され、毎週、アラサー女性の心を容赦なく刺した。結婚だけが女のゴールじゃないなんて当たり前に知っているが、それでも誰にも選ばれなかった女と思われるのは嫌だ。あえて結婚しないんです、なんて口では言えるが証明できない。
(まあ、でも)
きっと結婚しても「タラレバ」なんだよね、と最近感じる。この世の中には魅力的な男がたくさんいるから。
−あの男と結婚してれば松濤の低層マンションに住めた。
−この男と結婚してたらナショナルスクールに子供を入れられた。
結婚したあとは、そうやって自分の判断が正しかったのかを永遠に問うことになるのだ。結婚できないのは怖いが、結婚するのも怖い。
圭子は最近、自分がマリッジブルーに陥っていることを自覚していた。かつてのマリッジブルーは「もっといい人がいたかも」という仮定の妄想だった。でも、いまはマッチングアプリやナンパスポットで、魅力的な男性と簡単に出会える時代だ。妄想は可視化され、容赦無く自分たちをいたぶる。だから、それなりに遊んできた女たちはどこかで妥協している。
自分で言うのもなんだが、そこそこ綺麗な容姿をしている圭子は男が切れたことがない。ただし、タラレバが全く出てこないほどの男との結婚を勝ち取れるほどではない。二年前に同じ会社の彼氏と別れてからは、限りある若さをあるだけ使おうと積極的に出会いの場に出かけた。特定の彼氏は作らなかった。
銀座のコリドー街から六本木のクラブのVIP、一番使ったのはマッチングアプリのTinderだった。外銀、外コン、商社、広告、官僚、社長。まるでスタンプラリーのように会った。東京カレンダーを片っ端から制覇して、アマンやリッツで抱かれたこともある。一夜の恋もあれば真剣に付き合ってくれと告白されたこともあった。今の時代はすごい。一度その場の主みたいな人と知り合えば、LINEグループに招待されて、毎日誰かがどこかで飲んでいる連絡がくる。いわゆるタク代飲みにも誘われ、パパ活女子におさがりのパパを紹介されそうになった。魅力的な男も悪い男もいたし、きちんとした男もいた。毎日がパーティーのようで、充実していた。
でも、結婚を決めた。婚約する相手は、圭子が大学生のときに付き合っていた男だ。宮城県から上京したての田舎娘だった圭子を、真っ当に好きになってくれた男だった。大学二年生の夏から三年付き合って、別れた。結婚を前提に先週復縁したばかりで、もうすぐプロポーズされることになっている。
*
「高宮ももう帰っていいよ。今日夜から雨激しくなるみたいだし、残りのフォルダ整理は佐々木でもできるだろう」
ななめ前に座った高田課長がキーボードを叩く手を止めて言う。
「えー、俺も帰りたいっすよ。風の音が激しいと、うちの猫が怯えるんすよ」
新卒の佐々木が不満そうにいう。
「俺は女に甘く、男に厳しいんだよ。ほら、缶コーヒー買ってきてやるから頑張れ」
高田は財布とアイコスを持って席を立った。
「高宮も煙草行くか?」
「ううん、大丈夫です。お言葉に甘えて、あとちょっと作業して帰ろうと思うので」
高田の後ろ姿が見えなくなると、圭子は佐々木にチェックし終えた見積書を手渡した。
「フォルダの整理は明日私がやれば間に合うから。課長が戻ってきたら、高宮がやるって言ってたって伝えて」
エレベーターで高田とすれ違うのが嫌で、八階から階段を使って降りた。ヒールが高いので歩きづらい。この時間に非常階段を使う者はおらず、コツコツという音だけが響く。女に甘いと言う言葉を反芻して、苛立ちが募った。高田は、部署に一人しかいない女性の圭子を事あるごとに褒める。だが「女に甘い」と言ってしまう上司に褒められたところで、女だから評価されている、甘めの基準で褒められている、と思うだけだ。周囲からは女だから贔屓されていると、飲み会にも誘われない。いや、単にそれは圭子の被害妄想かもしれないが、喫煙室で同僚たちが「まあ、高宮さんは課長のお気に入りだから」と笑っていたのを聞いたことはある。
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