〈八〉お嬢さんと出番
「どうしてわたしを連れて行かなかったの!」
お茶の稽古に行った直生さんを迎えに行き、そのまま嬉野邸で夕食をご相伴にあずかる最中、直生さんは珍しく語尾を張り上げた。家政婦のトミさんに注意され、しゅん、と一瞬だけ肩が下がる。
「くれぐれもよろしく、と仰ったのは直生さんじゃないですか」
「あれはくれぐれも面白そうなことが起きたら即座に連絡をよろしくねって意味に決まっているでしょ」
「行間に意味を持たせすぎですよ」
第一、僕なんかの連絡でお嬢さんの稽古を中止に出来るとも思えない。
そう言うと直生さんは、
「大丈夫。父を殺すわ」
「親不孝者ですね」
「勘違いだったことにして生き返らせるから問題ないわよ」
白雪姫のごとき甘くお上品なご尊顔に似つかわしくない物騒な発言を、僕もトミさんも聞かなかったふりをしてやり過ごす。嬉野家の家令はそれこそ有能で、かつ主想いの面々が多いため、直生さんの親不孝発言もほとんどはお父上の耳にも入っていない。はずだ。だからこそ僕も今、安寧の日々を享受しているのだから。ああ、気遣いを溶かしたような白味噌の味噌汁が身に沁みます。
「でもそうなると」と、直生さんがご飯茶碗を掲げ、真っ白な山を見上げて首を傾げる。
「わからないわね。どうして河原口さんのカメラが狙われたのかしら?」
「え?」
「え?」
しまった。口が滑った。
味噌汁の椀に思わず顔を隠すものの、あいにくそれを見逃してくれるほど心優しき乙女ではない。
「幸大」
「……はい」
「今どうして聞き返したのかしら?」
「すみません、ちょっと最近耳が遠くて……」
「幸大」
こんなことじゃ束の間のまやかしにすらならないらしい。
直生さんがぴしりと音を立て箸を置くので、仕方なく僕も味噌汁で場をやり過ごすことを諦めた。
「今回の場合、狙われたのはカメラじゃありません」
「でも、依頼として出された紙には、カメラを盗んでくれって……」
「ええ。でもそれは、カメラがないと盗めないからです。実際、カメラは戻ってきたけれど、河原口の元に戻らなかったものがあるでしょう」
直生さんが、はっ、と睫毛に縁どられた目を見開く。
「……写真そのもの?」
僕は頷いて、漬物へと箸を伸ばし、食事を再開した。
「僕と高嶺が確認したところ、中のデータも、そしてSDカードの類も入っていませんでしたから、狙いはカメラの中に入っていた写真と見て間違いないと思います。依頼人は、きちんと自分の希望を達成したのですよ」
「でもそれじゃあ、どんな写真が狙われたのかしら?」
「さあ。河原口は教えてくれませんでしたから。だからこのあたりで……」
再び、空気を割る音がする。今度は箸ではなく、直生さんが机を叩きその勢いで前のめりに立ち上がった音だった。
直生さんの傍らに控えていたトミさんが、見ないふりをするようにそっぽを向く。トミさん。あなたの大事なお嬢さんが、お嬢様らしくないふるまいをしているんだから止めてください。あたかも、「ちょっと仕事をしていて気づいていないんですよ」風に、布巾など弄ばないで、現実から目を背けないで。
そんな僕の訴えが届くわけもなく、代わりに直生さんが僕の眼前へ接近する。僕は食べかけの茄子の漬物をまるごと飲み込んでしまったせいで、不必要に大きく喉が鳴った。
ごくり。
「幸大。これはやっぱり事件だわ! これは〈さて部〉の出番だと思わない?」
「……残念ながら今は部活動停止期間中なので……」
「二人しかいないんだもの。バレやしないわよ」
「トミさん、お嬢さんを止めてください」
どんどん非行の道へと進んでゆく我らがお嬢様に危機感を覚えるが、その気持ちはトミさんも同じはずだ。トミさんはなにせ直生さんのお父上から、留守のあいだ直生さんの身の回りのことを一任されているのだから。
そう思って、トミさんに今度は声を出して助けを求めた。
が。
「おや幸大さん、なにかおっしゃいました? わたし最近耳が遠くて遠くて……」
◇◇◇
そんなわけで、僕は昨日の今日、またもや新聞部の部室へと足を運んだ。高嶺は部室でぐうたらする――本人いわく、「この謎を解くには文学の声が必要だ」ということで江戸川乱歩を読むのに忙しいらしい――とのことだったので、僕は直生さんに背中をぐいぐい押され……もとい、直生さんと二人連れ立って、パソコン室へと向かったわけだ。
てっきり河原口がいるものだと思ったが、部室にいたのは佐々木と山崎だけだった。いささか長めの金髪が、頂点から地色である黒に侵食されているのが山崎、いわゆるスポーツ刈りで鼻のそばかすが目立つのが佐々木。だったはずだ。
河原口はともかく、この二人とはまるで接点がないので会話のきっかけに迷う。僕はまるで親しいもの同士がやるように、それでいて若干の曖昧さも含ませて「やあ」と片手を挙げた。もちろんのこと、怪訝な顔をされた。
だがそこは、持つべきものは我らがお嬢さんである。
「突然すみません。昨日幸大が伺ったと聞いて、わたしもつい……」
ひょっこりと僕の背中から姿を現した直生さんは、控えめに顎へとやんわり握り締めた手を宛てがい、首を傾げた。ウェーブのかかった長い髪が緩やかに揺れる。
ここでトドメだと言わんばかり、上目がちに問うた「だめ……ですか?」に、はたしてノーといえる人間はこの世に存在しているのだろうか。
結果的に、僕らはいそいそと二人が用意した椅子に腰を据え、茶菓子らしい購買のメロンパンを振る舞われながら二人の話を聞くことに成功した。
まず、直生さんは辺りを見回すと、
「今日は河原口さんはいらっしゃらないのですね?」
「あ、ああ……あいつはなんか、用があるとかナントカで」
「用事ですか。待ってたらいらっしゃるかしら?」
「どうかなぁ。一応試験期間だし、俺らも見つかったらヤバイから、そんな毎日いるわけじゃないんだよね」
「そうなんですね」
「素朴な疑問なんだけど、今って部活動停止期間じゃん。なんでヤバイって分かってて集まったりしてるの?」
直生さんには好意的な視線が、一気に敵意を孕ませたものへと変わる。
「試験前なんだから勉強しに集まってるに決まってんだろ」と答えたのは山崎だ。
「それにしては勉強道具が見当たらないんだけど……」
最初に佐々木と山崎がいたのは昨日と同じ席だ。入口付近に座らせられた僕らからは見えないと思ったのかもしれないけれど、席と席の隙間から机の様子ぐらいは見ることができる。教科書はおろかノート、そもそも筆記用具の類すら広げられている様子はない。というか、パソコン室は広い机がない分、勉強ってしにくいと思うんだけど。
「……これから始めるところでお前が来たんだよ!」
顔を赤らめた佐々木が声を荒げ、僕はここでようやく自分の失敗を悟った。隣の直生さんを見ると、くちびるの形だけで「バカ」と言っている。
仕方なく、僕は直生さんに全てを任せることにした。
「すみません、そんなところにお邪魔して……ちょっと気になることがあったものですから」
「あ、いや、嬉野さんに言ったわけじゃないから」
「そうそう」
「お二人ともお優しいんですね」
にっこり。微笑む直生さんに完全に絆されている二人に、僕は憐みの眼差しだけ送ることにした。「なら、質問させていただいてもよろしいですか?」に二つ返事で頷く二人。アーメン。主よ、無垢な子羊が騙されていますよ。
「新聞部では確かグループごとに月替わりで新聞を作成すると伺ったのですけれど、河原口さんとお二人は同じグループなのですか?」
「ああ、そうだよ。よく知ってんね」
「ネタ探しと記事作りは三人でやるけど、だいたい記事の校正が俺、パソコン使ったレイアウト組みやデザインが佐々木、んで写真が河原口って感じに役割分担してる」とは山崎だ。
「ちなみにお三方のご担当月は?」
「俺らは四、七、十、一月担当かな」
「なるほど。じゃあ今は落ち着いていらっしゃるのかしら?」
「まあね。今ネタ探ししても、次の持ち回りが来る頃には風化してるネタだろうし」
「そうですよねえ。河原口さんは熱心に写真など撮られているみたいですけれど……」
「ああ、アイツ最初は写真部に入ろうかと思ってたらしいからね。結局新聞部にしたけど」
そうなのか。それは初耳だった。直生さんも驚いたようで、「なぜ新聞部にしたのかしら?」と首を傾げている。
「先輩に誘われて仕方なく、って感じだと思うよ」
「先輩?」
思わず疑問が口をついて出たけれど、幸い二人の機嫌を害することはなかったらしい。
佐々木が続きを引き取った。
「三年の
「僕はさっぱり」
「中学の頃の先輩らしいんだけど、けっこう押しが強いんだよね。ジャーナリスト志望なせいか、新聞作りもこだわりたいからグループは嫌だ、って」
「そう言うわりに河原口にいろいろ手伝わせたりしてるよな。写真も全部任せっきりだしさ」
思い返せば、直生さんを取材に来たときに後ろに引き連れていたのは先輩だと言っていた。ひょっとしたらその人がそうだったのかもしれない。
「後輩を導く者として、年次を笠に着て後輩を使い走るなんて!」と憤慨するは直生さん。
「ふうん。厄介な人もいたもんだね」と続けるは、お嬢さんに日々使い走られる僕である。
「だろ? それにアイツ、河原口の……」
「バカ、佐々木!」
唐突に山崎が声を荒げ、佐々木の腰を乱暴に叩いた。佐々木は「しまった」とでも言いそうな表情で、慌てて口を噤む。
ここに着いてから訪れたことのない沈黙が、一時、場を支配する。
その沈黙を破ったのは直生さんだった。
「……河原口さんが、どうされたんですか?」
「別になんでもないよ」
「いや、今のは明らかになんでもなくないだろ……」
「うるさいな、、なんでもないっつったらなんでもないんだよ!」
佐々木に比べればまだ冷静にも見えた山崎が、僅かに顔面を紅潮させて声を荒げる姿ははっきり言って異様だ。それが嘘だということぐらい直生さんにも、僕にも分かる。
敵意を向けてくる二人から、視線をパソコンに移す。佐々木の身が僅かに引かれるのを見ていると、「そうでしょうか」と、この場で唯一高く美しい金糸雀の如き声が響く。
「河原口さんが脅されているというのに、なんでもないことはないでしょう?」
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