〈三〉お嬢さんと高嶺

 特別教室棟の三階。その最奥に、僕たちの目的地はあった。


 僕たちの通う舟堂高校は、一般教室棟と特別教室棟のふたつの校舎で構成されている。いずれも四階建ての建物で、最上階以外は校舎の南北側に用意された渡り廊下で行き来できるようになっていた。もっとも、三階と一階は外気に晒されているから、雨の日なんかは実質二階からしか向こう側には行けない。今日は幸い六月の好日だったから、僕たちは二年の教室が並ぶ三階の、北側の渡り廊下から、そのまま特別教室棟に渡った。


 外を通り抜けると、ぴりり、と初夏の日差しが晒された腕や首筋を焼いてゆく。男にしては、僕は元来色白なほうだ。思わず半袖の隙から二の腕を擦ってしまう。


 僕よりも白く、繊細な肌をしているはずの直生さんは、強い日差しを気にすることもなく、夏のにおいを含んだ風にウェーブがかった黒髪を遊ばせていた。にっこり、持ち上がったくちびるの端が、横顔から覗く。


 しかし、その完璧すぎる微笑みは、件の場所に近付くにつれてどんどん色を薄めていった。渡り廊下の端まで行き着き、再び校舎の影に入ることを許されたときには、柔い餅がカチンコチンに固まったみたいに表情は硬くなっている。


 僕は直生さんのこの表情を見るとき、少なからず、苦しい心地になる。ひとつには、直生さんにはいつも笑っていてほしいと思うから。もうひとつには、この表情こそが、直生さんが彼を特別に思っていることの証だと知っているからだ。



 渡り廊下の出入り口から右に折れると、すぐにそこはお目見えした。



 ――〈古典資料室〉



 突き当たりに位置する扉の上にあるプラスチックのプレートには、そう記してある。


 だがしかし、ほんのすこしばかり視線を横にずらすと、かろうじて引っ掛かった古ぼけた板の上に、こんな文字が認められた。


「文芸部部室」


 やっぱりね、の意味合いでそう言うと、僅かながらご機嫌を損ねたらしい直生さんの睥睨が向く。


「しょうがないでしょう。こういうみょうちきりんな出来事には、大体にして関わってるんだもの。それにここに訪れることは、部活としての週課でもあるんだから」

「えっ。初耳ですよ」

「いっていないもの」

「…………」


 去っていった瞳は、そのまま扉の右横の壁に取り付けられた目安箱へと落ちてゆく。

 一瞬きりの短い時間でしかなかったけれど、斜め後ろに控える僕が捉えるには十分すぎた。


 みょうちきりんな出来事には、大体にして関わっている。

 もちろん、それは否定しない。



 だってそうだろう。そもそも、その存在こそがみょうちきりんなのだから。



 文芸部部室の名を記した板と同年代の目安箱。手紙を入れられるような口の下、箱の真ん中に書いてある文句は、僕たちが入学する、もうずっと前から変わらないと聞く。



 ――〈への依頼はこちらまで〉



 直生さんの代わりに一歩前に進み出ると、僕は扉をノックした。程なくして、ギイ、という音が返答の代わりに返ってくる。パイプ椅子が軋む音だということは初見であれ容易に察せられるだろうけれど、それが椅子から腰を持ち上げたせいでなく、極限まで傾けているせいだということを想像できるのは、僕たちがここに足を運ぶのが初めてではないからだ。


 引き戸が中程まで開き、ぷるぷると震えた手がリタイアを告げる。


 聞こえるようにため息を吐いてからその続きを引き取ってやると、長めの金髪がゆらゆらと揺れていた。まるでリクライニングシートに座っているかのような錯覚を起こすものの、座っているのはパイプ椅子。極限まで倒したそれの限界は近い。


「そこに見えるはぁー……正之守?」

「わたしもいます」

「おお。お嬢。本日はお日柄もよく……」


 言い切る前に、椅子が不安定に揺れた。さかさまになった瞳が、ぐるん、と回る。


「そのうち倒れるぞ」

「もう既に三度ほど倒れてる」

「あら」

「せっかくだから七転びぐらいさせてやろうか」

「その前に椅子が往生するな。遠慮しよう」


 言ったそばから身体を床に打ちつけた男こそ、放課後の古典資料室の主であり、我が舟堂高等学校の文芸部部長、高嶺たかね一色いっしきである。


「高嶺さん、大丈夫ですか?」

「放っといていいですよ直生さん。おい高嶺、直生さんの邪魔だ。早く起きろよ」

「やれやれ。怪我人には優しくしろと教わらなかったのか?」

「それはそれは気付きませんでご老体」


 無理矢理引っ張り上げて立たせると、恨めしげな高嶺の顔が僕を見下ろしてくる。空いたスペースに直生さんを導いて背を向けた僕には、さっぱり関係のない話だけれど。


 しかし、部屋の様子を見て僕は再び高嶺を見上げる。


「相変わらずの惨状だな」

「作家の部屋というものは得てして乱雑なものさ」

「自称だろ。せめてソファーぐらい片付けろばかもの」


 書き損じたのかはたまた書き途中なのか区別のつかない原稿用紙が散乱したソファは、この部屋で唯一といっていいほど貴重な空間が保たれているべき場所である。それ以外の場所は、本か紙かで埋められているのが常だった。


 もちろん、それは高嶺だけが原因ではない。なにせ、ここは古典資料室なのである。本がところ狭しと至るところに詰め込まれ、そのために本棚が壁のほとんどを隠してしまっているのは、ついこの間定年で教師人生を全うされた元古典教師が意図したところによる。唯一壁が晒されている右手側のソファのうしろを除き、壁という壁に本棚が立ち並んでいた。


 出入り口側から見て真正面にはステンレス製の棚が並び、ところ狭しと入れられた本のおかげで、本来なら重要な換気口となり得る窓はここ数年間開かずの間と化していた。ただ、換気だけなら窓の右上に備え付けられた換気扇や、左手側の壁、閉め切られた本棚の頭上に座る形で小窓が設けられているので事足りるだろう。


 おまけに、古典の資料のためだけに一室をぶんどった教師は、よほどの権力者だったらしい。なんとこんな狭い室内にもかかわらずエアコンが設置されていた。換気はもとより、故障でもしない限り寒暖に困ることはないはずだ。


 しかし、あまりにも居心地がよすぎるのも考えものだ、と思わざるをえない。


「茶を淹れようか」

「そんな心遣いをする暇があったら使いさしの紙コップを片す素振りを見せてくれ」


 ソファの肘置きと同じぐらいの高さのサイドボードには、電気ポットと紅茶のティーバッグのセットがデフォルトで揃えられ、最近ではコーヒー、スティックシュガー、コーヒーフレッシュなども下段の棚に常備されるようになっていた。高嶺曰く、どんな嗜好の人物が来訪してもいいようにとの配慮らしいが、それ以前にもっと気を遣うべき個所がある筈だ、というのが僕の見解である。


 僕は散乱したゴミを片しながら、憂う。汗やストーブの火などを気にかけ、いつも本のことを考えていた師が、電気ポットや菓子の類が持ち込まれ、高嶺の自室ばりにリフォームされていると知ったら。考えるだけで忍びない。


 資料の整理をする代わりに手に入れたらしいこの部室に、高嶺が役目を果たしている気配は欠片もなく、それは中心に位置する机の上に積み上げられた本のタワーからも明らかだ。高嶺は資料だと主張しているものの、僕の見立てではほとんどが私物だろう。隙間からは何に使うかも不明なプリント(文芸部であることを思うと原稿なのかもしれないが、こいつがほんとうに文芸部の活動をしているかは甚だ怪しい)という名の雑草がちらほら。


 床に空いている申し訳程度の通路と、もっぱら荷物置き場と化しているソファを抜かせば、本や高嶺のがらくたに侵されていない場所などほとんどなかった。


「失敬だな。まだあるぞ」

「どこに」

「俺が座ってる椅子を忘れてる」

「あっそう」


 最初こそ文字のとおり呆然としたものの、人間、何事も慣れるものである。今回のような明確な用件がある場合でなくとも、直生さんは〈さて部〉の週課と銘打って(というのは今日はじめて聞いた事実であるけれど)週に一度はここに足を運ぶ。たしかに今までは、行き先を隠すことはしなかった。僕が止めないとわかっているからだろう。最初こそこんな場所に直生さんを導きたくはなかったものの、僕は諦めることに慣れている。そのうえ直生さん自身、今では山積みの本を倒すこともなく無事ソファに到達できるほどには、この部屋の惨状にもすっかり耐性がついていた。


 そうであるならば、逆もまた然りである。


 僕が人数分の紅茶を用意していると、「で?」と単純な一音が飛んできた。



「何が知りたい?」



 この問いは、僕に向けられたものじゃあない。


 その対象である直生さんは、相変わらずしゃんと背筋を伸ばした体勢で、高嶺に答える。


「知りたいと言ったら、教えていただけますか?」

「それはどうかな。こちらにも守秘義務ってもんがあるんでね」

「この部屋のどこにそんなもんがあるんだよ」とは、僕の台詞だ。


 直生さんの目線でもって黙らせられた僕は、おとなしくティーバッグの塩梅と、会話のゆくえを見守った。


「わかっています。わたしだって、憶測の段階で誰かのプライバシーに立ち入る真似はしたくありませんもの」

「と、なると知りたいことは」

「ええ」


 直生さんは頷いた。



「ここ一週間のあいだで、怪盗はいからへの依頼があったかどうかをお伺いしたいのです」

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