参・死んで花実が咲くものか

「権堂の旦那は、おかしな人間でしたよ。それはもう、他の人間から煙たがられるほどに、おかしな人間でした」

 妖、羅宇屋の鎌鼬は懐かしむように言った。その声音から、軽蔑的に言ったものではないのだと登志世は悟る。

「何せ、忌むべき我が同胞に興味津々で、自身のについても前向きな思考でいらしたので、妖の間でも話に上がるほどでした」

「呪い?」

 色々と引っかかるものはあるが、その恐ろしい響きは馴染みがなく、一層に登志世の気を引いた。

 羅宇屋は首を傾げた。

「おや、ご存知ない? それはそれは……これはまた不運な」

「不運? あたしが? どういうことなの?」

「雅宗殿が伏せているのなら、私から申すことは出来ませんね。こればっかりは」

 羅宇屋はそれきり、何を言っても口を割らない。「言え」「言わない」の応酬も飽きてしまい、登志世は肩を落として違うことを訊いた。

「あんたがあたしの前に出てきたってことは――あたしは、もうすぐ死ぬのかい?」

 突拍子もない質問だったろう。羅宇屋は面で隠しているのに、その後ろでぽっかりと口を開いているのが分かった。

「何を馬鹿なことを言いなさる。馬鹿馬鹿しくって笑えやしない」

「そんなに馬鹿かねぇ?」

 こっちは深刻に言ったつもりで、こうも馬鹿にされては腹立たしい。むくれ顔をつくると羅宇屋も笑いをやめた。

「雅宗殿が恋しくて感傷に浸るのは良くないですな。それこそ、に付け入られてしまう」

「魔?」

「私らのようなものでございますよ」

 羅宇屋はわずかにうんざりと説明した。

「お嬢ちゃんは、ものを知らない。これからもっと学び、お祖父様の言いつけを守って、生き抜いてください」

 階段箪笥を背負い直し、柔らかい土壌に立ち上がる。それに連られて登志世も立つ。なんだか別れの言葉に思えてしまい、心は寂しいまま。未だ踏ん切りはつかない。

「待って。また会いたい」

「あまり会わん方が貴方の為だと思うのですがね……しかし、次に会う時は、その煙管が壊れた時です」

 ぴしゃりと強く、それでいて優しく諭される。登志世は恨めしげに煙管を見た。

 これが壊れた時――それは二度と訪れることはないのだろう。悲観した思いが胸中を占める。

 すると、羅宇屋は心を見透かすように言った。

「貴方が使えば良いのです。そのまま、持っておきなさい」

「あたしが……?」

「そうです。使えば、いつかは壊れます。羅宇は竹でできている。湿気しけりゃ、ヤニが詰まる。雁首や吸い口だって綺麗にしなけりゃ、煙草の味が悪くなります。使えば使うほど古くなるんです。それを直すのが私の仕事」

 登志世は立てていた目くじらをしおらしく和らげた。

 祖父の形見――それを自分が使うのは気が引ける。しかし、いつかは使ってみたい気持ちに飲まれた。強く握りしめる。

「――おや。風向きが変わりましたな……あなたはやはり、死にはしませんよ」

 翁の面が上を向く。登志世も空を見上げた。白く遠い寒空。風がぴゅうっときつく吹き付ける。首筋が冷えると、鼻の奥がむず痒くなった。

「クシャンっ」

 小さなくしゃみを一つ。すると、足元にいた羅宇屋が消えていた。

「そのうちに、あなたにとって大事な人と出会えることでしょう。どうか、お元気で」

 風が上昇する。雑草をしならせ、登志世の髪をさらう風。その旋風つむじかぜは羅宇屋の鎌鼬が起こすものか、それとも雅宗の最期の別れか――


 ***


 風が止んだと同時に、急に体がふらついた。それまで軽やかで心地よかったのに、あの風の妖がいなくなった瞬間に、体の痛みが戻ってきた。一度にどっと押し寄せ、気がつけば畦道に転がっていた。なんと無様で惨めなんだろう。死にはしないと言われたはずなのに、体が怠くて動けやしない。情けないことに声も出せない。熱が上がって、全身に火がついたようだった。

「……登志世、おい、起きろ」

 そんな声が落ちてきて、体を乱暴に揺さぶられる。倒れてすぐに起こされた気分だった。

 頰を叩かれるも、瞼が重くて呻くしかできない。すると、急に体が持ち上げられた。

 背中におぶられて、そのまま宙を浮いているような感覚で体が動き出す。

「にいさん……」

「意識があるだけまだマシのようだな。死に損ないめ」

 この憎まれ口は兄のものだ。冷たくて大嫌いな兄だが、何故だか広い背中が無性に恋しく、形容しがたい慈しみを覚えた。父や母、祖父にもこんな奇妙なぬくもりはなかった。

「お前は本当に碌でなしだ。祖父さんと同じ。全部丸きり一緒で、本当に駄目だ」

「あたしが、お祖父様と一緒?」

 どういう意味だろう。熱に浮かされた頭では思考が回らない。意識が正常でも分からないだろう。

 肇は「フン」と愛想もなく鼻で嘲笑を飛ばした。

「呪いだよ。うちに伝わる呪いだ」

 呪い――それは羅宇屋も言っていた。一体、権堂家にはどんな因縁があるのだろう。虚ろな目で兄のうなじを見つめた。

「俺もお前と同じように育ったんだ。お嬢ちゃんなんて言われて、よくいじめられたもんだ」

「そうなの?」

「不本意だがそうだ。だから、俺はあの家を出たのさ。己の道は己で拓くもの。お前もいい加減、そうしたらどうだ。でないと、あの祖父さんのようになる。誰にも理解されず、ひっそりと死ぬ。そうなってもいいのか?」

 兄の告白と忠告は、痛む頭に冷水を浴びせるような迫力があった。どきりと胸が嫌な音を立てる。

 しかし、自分がどうしたいのかなど、まったく見えないのだ。どうしたらいいのか分からない。どっちつかずに曖昧でいるのは良くないことだと分かっている――それでも、甘んじている方が楽だったりもする。

 考えている間に、家へたどり着いた。具合は先ほどより良くなったが、それでも力は入らない。袖に隠したままの煙管は兄に見つからなかったので、登志世は部屋に戻されてすぐに、戸棚の奥へしまい込んだ。

「登志世さん」

 布団に入ったと同時に、低い声音の母が襖の奥から声をかけてきた。すっと開け、剣呑な表情を見せてくる。

「あなたには失望しました。迷惑をかける子はうちには要りませんよ」

 頭痛にこの叱責は重い。登志世は布団に潜り込んだ。しかし、上げた布団を剥がされ、母は額の熱を測った。桶に入れた水で手ぬぐいを濡らす。固く絞った布を当てられると、不本意ながら心地よい。

「本当に碌でもないわ。あなたには見張りが必要のようね」

「見張り?」

 もしや兄を見張りに置くつもりだろうか。そうなると一生不自由のような気がしてならない。心地よさから一転、登志世はひやりと肝を冷やした。

「そんなものは要りません」

「親の言いつけが守れない罰ですよ。子が親の言うことを聞くのは務めです。口答えは許しません」

「そんな……なんて無情なの、母さん」

 思わず口をついて飛び出した。だが、言ってしまえばもうどうとでもなれる。登志世は重たい体を起こし、母を見つめた。目が潤む。

「呪いってなんなの? あたしがこんな生活をしているのはどうしてなの? どうして、こんな風にしたの? 母さんはあたしをどうしたいの?」

 言葉は堰を切って溢れ出す。とめどなく、決壊した。もう収まりがつかない。

 廊下では兄と父が顔を覗かせていたが、これに怯むわけにいかなかった。

「こんな生活はもう嫌だ。どうして、あたしは普通じゃないの?」

「それはあなたが弱いからです」

 きっぱりと母は言った。そこに情は見当たらない。黒い眼に光はなく、夜のように深く濃い。

「あなたが弱いからですよ、登志世さん。でなきゃ、あなたはこの家で生きていけないのです。この家はによって呪われているのです。お祖父様もその呪いに苦しんでいました。この家では、男が育たないからよ。そうなると、家はなくなるの」

 母の口調は段々と早くなっていった。その剣幕に押される。

「あぁ、もう。それくらい分かっているものだと思っていたのに、分かっていないのね。あれだけ話して聞かせたでしょう? まだ分からないの?」

 母の声が怒りを孕み、高くなる。目は血走っており、異様な形相。いや、怒りだけではない。母からは異常なまでの恐怖が張り付いている。何かを畏れている。

「よせ、イヨ」

 父が背後から声をかけるが、母はこれを振り払った。父をなぎ倒し、登志世の肩を揺さぶる。

「この家には古い呪いがかけられている! 家督を継ぐ子を連れ去る妖が! あなたをさらおうとしている! そんなことさせるもんですか。私の家をこれ以上、汚させてなるものですか」

 口の端に泡をつくって、必死に言い聞かせる母に圧倒され、登志世の思考は止まった。この場にいる誰もが息を止めた。母の演説はそれからも続いた。

「いい? あなたはこの家の跡継ぎです。この家を守るためにはあなたが必要なの。立派にならなくては駄目なの。父さんが死んだ以上、この家はじきに悪いものがやってくる。そうなると、おしまいよ。だから、あなたは、そのためだけに生きなさい」

「そんな……でも、」

「いいから聞き分けなさい! あなたは私の言うことを聞いていればいいのよ! 考えなくていい! 何も考えずに、私の言うことを聞きなさい!」

 張り詰めた弦が切れたような、そんな空気だった。ブツリと音を立てて何かが切れた。

 これは悪い夢だ。

 悪い夢。

 現実なんかじゃない――

「……だからこの家は嫌なんだ」

 縁側で肇が吐き捨てた。その言葉に、母が静かに振り返る。結った髪が乱れている。それに対抗する肇の目は暗く淀んでいる。

「こっちが下手に出てみれば、この体たらく。あんたは何も変わってない。むしろ悪くなっている。病気じゃないのか、なぁ?」

 兄は父に一瞥をくれた。これに、父は何も言わない。すると、母がゆらりと立ち上がった。

「肇、あなたは私に感謝すべきよ。不自由なく産んだ上に好きにさせているんだから。それに何の不満があるっていうの?」

「……あぁ、あんたはそういう人間だ。分かっていたさ……まったく、どいつもこいつも頭が腐ってやがる」

 肇は父を睨み、母を軽蔑し、弟を見ずに屋敷を出て行った。

 もう二度と会えないような切なさは、わずかに抱いたものの、引き止める気持ちはなかった。それよりも、母の言動に言葉を失っている。思考は止まり、布団の中に体を埋める。痛みで頭が割れそうだ。

「これは悪い夢だ……」

 祖父がいれば、この家はここまで崩壊しなかっただろう。いや、もともと崩れていたところに生まれてしまったのかもしれない。祖父もまた同じだったのだろうか。その答えは、今や葬り去られている。


 ***


 ――母の暴言から数日後、客が来た。

 父母が留守中だったために登志世が客の相手をすることになった。まだ体は良くなっていないが、来訪者を待たせているとあの母から何を言われるか分からない。嫌味は聞きたくなかった。

「おぉ、こりゃ綺麗な坊ちゃんだこと。何だか不景気な面してんじゃねぇか」

 その来訪者は、岩のように角ばっており、丸い頭が特徴的な男だった。歳の頃は二十も半ばか。不躾な挨拶に、登志世は怪訝に眉をひそめた。

「どちら様?」

「おや、聞いてねぇのかい。あんたのおっかさんから頼まれて来たってのに。一体どういう了見なんだい」

「はぁ……申し訳ありません」

 機嫌を損ねたか分からないが、どうにも面倒そうな客だと感じた。

「邪魔するぜ」

 そう勝手に敷地へ入り、玄関の框に座り込んでしまう。その男の後ろには、登志世と同年ほどの小柄な少年が俯き加減に立っていた。身なりはそこそこで、しかし髪型は無造作にボサボサしている。

 母は本当にこんな輩を招いたのだろうか。だとしても、急な来訪だと見える。何か悪い商売でも企んでいるのではないか。不安が高まる。

 それに気づいたのか、男は懐から小さな紙片を出した。達筆な名が書かれてあるが、読み取れずに苦戦する。

「祓い屋の岩蕗だ。こっちは仁科仁。お前さんの使いっ走りさ。仲良くしてやってくれ」

「えっ?」

 祓い屋に使いっ走り、急な展開についていけない。

「金はとっくにもらってる。気前のいいおっかさんだねぇ。よっぽど、切羽詰まってたんだな。おかげで見繕うのに手間取っちまったんだよ……えぇっと、おっかさんはまだ帰らねぇのかい?」

「えぇ、まぁ……もうすぐだと思いますけど」

 警戒は未だ解けないが、あの母が雇ったというのなら、なんとなく頷ける気がした。

 その鈍い頭でようやく閃いたのは、母の暴言にあった言葉だった。おそらく、この子供は「見張り役」なのだろう。だが、その後にもう一つ、今度は優しい声を思い出す。

 ――そのうちに、あなたにとって大事な人と出会えることでしょう。

 羅宇屋の予言は、まさにこれだったのかもしれない。

 岩蕗と名乗る男は仁科を引っ掴み、登志世の前に押しやった。何も言わず、ただぼんやりと焦点の合わない目が不気味だ。

「お前さんの力になるさ。ただ、まぁ、ちと気性が荒いんで、どうにかうまくやっとくれ」

 岩蕗の言動は無責任なものだった。そのせいもあり、登志世の不安は蘇った。

 近づくと、少年から枯葉と燻った煙草の香りがする。畏れを感じつつも、不思議と惹かれるのは、彼が祖父と同じ匂いを纏っているからだろう。



《霜降の章 煙管、了》

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