弐・彼方より、風は友を偲ぶ

 戸口に出ると、赤いヒナゲシの花が置いてあるのだが、これももう今や通例となっており、登志世は腰に手を当てて溜息を吐いた。

「母さーん」

 戸口から部屋に向かって声を上げる。数分の間を置いて、喪服に身を包んだ母が小走りにやってきた。

「大声を出すもんじゃありません、端ない」

「すみません。でも、ほら、これをご覧よ」

 指を伸ばして花を示す。母の眉が強張り、すぐにつり上がった。

「また、こんな……登志世さん、あなたのイタズラじゃないでしょうね?」

「違いますよ。あたしが外に出たら決まって置いてあるんだもの。ここずっとそうなんです」

 慌てて訴えると、母は先ほどの登志世と同じく、腰に手を当てて溜息を吐いた。そして、乱暴に花を掴む。

「登志世さん、部屋に戻りなさい」

 花を握りしめると、花弁がしおれていく。寂しく見送り、登志世は部屋に戻った。

 母は萎れた花など気にすることなく淡々と廊下へ行き、土間の方へ消えていく。数日前に、この花の行方を追ったところ、母は土間から外の焼却炉に放り込んでいた。「気味が悪いわ」と吐き捨てて。

 祖父、雅宗が急逝して早一ヶ月。北風が厳しいこの時期に、季節外れのヒナゲシが戸口に置かれるようになったのは三日前のことだった。

 家の中は慌ただしく、葬儀の際は慣れないことに怯えてすっかり気が滅入っていた。初めて礼服を着たが、なんだか心地が悪い。それに、親族が参列する葬儀なので、母からきつく言いつけられたことが、どうにも納得のいかないものだった。

「登志世さん、男の子でしょう? そんな風に座らないでちょうだい。振る舞いが駄目だわ。足は開いて座るものです。男が泣くものじゃありません。どうして出来ないの」

 それまで、女らしくと行動を制限されてきたのに、今度は「男」だと強要される。混乱を極め、ますます気分が悪くなる。胸が苦しくなり、久しぶりに咳が止まらなくなった。

 そうして仕方なく葬儀には出席せず、奥の間でせっていたのだが――それもようやく落ち着いて着た頃だった。

 ――もしかしたら、あの花は妖なのかもしれない。

 突飛な妄想だとは分かっていた。しかし、そんな希望めいたものがますます頭から離れず、朝が来るたびに戸口で待つようになった。花はいつの間にか供えられてあり、誰が置いていくのかは結局分からない。その正体を突き止めることは未だ果たされなかった。

「登志世さん」

 廊下から母の声が聞こえる。

「はい」

 慌てて出ると、母が手招きをした。

「ちょっと手伝ってちょうだい」

 言われるままに長い廊下を歩く。母の後ろをついて行き、角を曲がって外に出て。

 辿り着いたのは祖父が住んでいた離れだった。近寄ってはいけないと厳しく言いつけられていた場所であり、部屋の中へ入るのは初めてだ。

「入ってもいいの?」

「えぇ。お祖父様の遺品を整理しなくちゃいけないから……私だけじゃ手に余るもの」

 そう冷たく言う母だが、瞼が腫れぼったい。いつもより浮腫むくんだ母に、登志世は訝りながら、恐る恐る祖父の部屋へ入った。

 枯葉と、燻った煙草の匂いが染み付いた部屋は、こじんまりと手狭だった。それは物が溢れているからだろう。天井まで続く書棚と薬棚と、壁に貼られた絵画や床に転がる陶磁器。壺の中には丸められた南蛮風の絨毯がある。天井から吊り下がる、やじろべえのような不思議な飾りが、なんだかおとぎ話に出てくる魔除けを思わせる。

「あぁ、嫌だわ。本当に汚いんだから」

 浮腫んだ顔でむくれる母の声はいつになく厳しい。蔑むようだが、それはどこか怯えも含んでいた。

 登志世はまず、行燈を見つけた。床の間の隅に置かれた置行燈。底はけやきでできた小さな収納棚で、角形の木枠に和紙が貼られたもの。油差しはなく、蝋燭が置いてある。蝋が涙を流したまま固まっている。

 結局、二年前の約束は果たされなかった。あれから祖父は、この行燈に幾つの話を聞かせたのだろうか。時々に経過報告をしてくれていたのだが、やはり百の物語ともなると話のネタが尽きるようで、年々とその間隔に時間が空いていた。途方もない作業である。遺品整理と同じく無限に続くことなのだと、登志世は今になって思い知った。

「ねぇ、母さん」

 振り返ると、母は頭に三角巾をつけ、割烹着に身を包んで箪笥の中のものを取り出していた。こちらを見ようともしない。

「登志世さん、話の初めに『ねぇ』と切り出すのは、およしなさい。女の子みたいで良くないわ」

「……母さん」

「なんですか」

「あの、この行燈なんだけれど、これ、あたしがもらってもいいですか」

 おずおずと切り出すと、母は顔をしかめてこちらを見た。

「いけません」

「どうして?」

「それはお家のものです。あなたが勝手に使っていいものじゃありません」

 ぴしゃりと言い捨てられ、登志世は口をつぐんだ。渋々、母の言う通りに書棚を整理する。

 埃をかぶった棚には厚い紙を紐で綴じた古書が何冊も連なっていた。これを運び出すのは大変だろう。

「父さんは手伝ってくれないんですか」

 あまりの量に恐れ慄き、つい言ってみると母はうんざりといった様子でこちらを睨んだ。

「お父さんは外に出ています。お仕事の邪魔は出来ません」

「じゃあ兄さんは?」

 兄の肇は、身内の不幸ということで帰省中だった。あまり会ったことがない兄は、とても大きな存在で、軽々しく口をきくのは許されない空気を纏っていた。その兄が、今は自室で何をしているのかは知らない。

 母は眉根を寄せた。祖父の匂いに顔をしかめるだけじゃない理由がありそうだ。

「肇さんに頼めるわけがないでしょう。それに、こういうのは女の仕事ですからね」

「でも、あたしは女じゃないんでしょう?」

「そうです……でも、そうじゃないわ」

 曖昧な返事だった。これにはやはり納得がいかない。

「どっちなんですか」

「どっちでもないわ。、もう、どっちでもないのです」

 苛々と返されれば、こちらにもその感情は伝播するものだ。登志世は古書を乱暴に床へ落とした。埃が舞う。吸い込むと黴臭く、鼻の奥が痒くなる。思わず咳き込むと、母の手が背をさすった。

「まだ具合が治ってないのかしら」

「大丈夫です」

 手を振り払い、すぐに薬棚を開けた。その乱暴さに呆れる母は溜息を吐き、持ち場に戻っていく。祖父の着物を取り出す作業を繰り返していた。

 一方、登志世は薬棚の引き出しを全部開けた。上の方は届かなかったが、自分の背丈ほどの場所なら背伸びで届く。

 引き出しの中は、細かい紙や、汽車の手形、そして古いペンなどがごろごろと無造作に仕舞ってあった。筆や藁半紙、書道の道具などもあちこちに散らばっている。祖父は整理整頓が苦手らしく、碁石が幾つか出てきたり、将棋の駒(歩やら飛車やら)が出てきたりと、これには呆れてしまう。

 祖父と父はたまに対局していたのだが、数が足りずに困っていたのではないか。どうやって遊んでいたのか皆目分からない。

 また、小銭も棚の奥にあり、すべて取り出すと総額一円と二銭。そして、どこの国のものか分からない銅貨があり、それが五枚ほど。掘り出せばまだ出てきそうだ。

 祖父が外国で旅をしていたというのは聞いたことがない。だが、この遺品の数々を見ていれば、祖父が珍しい物好きで外国の物に憧れを抱いていたことが分かる。もしかすると、自分は祖父のことを半分も知らなかったのではないかと思い、途端に胸の中が寂しくなった。目頭が熱くなる。埃のせいで目が痛くなっただけだと自身に言い聞かせ、引き出しの中をさらった。

「あ……」

 思わず声を漏らし、登志世は腕を引き出しの奥に突っ込んだ。細長い煙草が数本出てくる。

 ――そうだ、お祖父様の煙管……

 祖父が亡くなってから、まだ煙草盆と煙管を見ていない。

 母をちらりと見やる。背中は、息子の視線に気がついていない。登志世は様子を窺いながら、ゆっくりと部屋の外へ出ようとした。後ろ向きに忍び足で、一歩ずつ下がる。

 すると突然、背中が壁に激突した。びっくりして顔を上げると、厳しい顔つきの兄がこちらを睨んでいた。その目は母と同じようで、母よりも冷酷だった。

「何をしている」

 低い声で問われれば、肩がすくみ上がって声が出なくなる。登志世は慌ててその場から逃げ出した。


 祖父の煙草盆はどこにいったのだろうか。

 兄の厳しい言葉を振り払うかのように、部屋へ転がり込む。祖父のことだけを考え、幾つもの部屋を覗いた。縁側も、自室の棚や押入れの中も。母の部屋や兄の部屋にも忍び込んでみたが、見つかるはずがなかった。それじゃあ、父の部屋はどうだろうか。

 父は優しいが、勝手に部屋へ入ることは許されていない。足音と気配を殺して進み、父の部屋をそっと開けた。

 中は閑散としており、祖父の部屋とは反対に物が少なかった。だからか、その存在にすぐさま目が向く。文机の下に煙草盆と煙管が置かれていた。

「あった」

 登志世はすぐに煙管を掴んだ。煙草盆も一緒に持って行きたいところだが、大きくて持ち運ぶのが大変だ。袖の中に煙管を隠し、おもむろに部屋を出る。すると、遠くの方から声をかけられた。

「登志世、何をしているんだ」

 廊下の奥から聞こえたそれは、父のものではない。厳格な声音はついさっき聞いたばかりだ。

 兄の肇が不審がちに目を細めていた。

「父さんの部屋で何をしているのかと訊いているんだ。言え」

「何も」

「何も? 何もしていないのに、父さんの部屋から出てきたというのか? お前ごときが勝手に出入りしていい場所じゃないだろう」

 そう言い、兄は登志世の横っ面を叩いた。ヒリヒリと広がる頰の痛みと、突然の衝撃に耐えられず、廊下にくずおれる。それを兄は蔑んだ。

「……何さ。家を捨てたくせに」

 小さく呟く。この反抗に、肇はさらに怒りを顕した。

「お前には分からんことだ。半端者が、口答えをするんじゃない」

 荒々しく言われ、首を掴まれる。引きずられ、外に放り出された。離れにいる母の元まで連行される。

「母さん、ちょっといいですか」

 部屋に押され、登志世はつまずいた。その衝撃音か、兄の声でか母が慌てて寝室から出てくる。怪訝な表情で息子たちを見た。

「どうしました?」

「こいつが父さんの部屋に勝手に入ってました。何かを盗んだに違いない」

 肇は冷たく言い放った。これに登志世はすぐさま言い返した。

「盗んでない!」

「どうだか。だったら、袖の中をひっくり返してみろ」

「………」

 詰め寄られると黙り込んでしまう。分が悪い。確かに、父の部屋から煙管を持ち出しているからだ。兄の目ざとさが恐ろしい。これに母までもが詰め寄った。

「そうなの、登志世さん? お父様の部屋から何を持ち出したの?」

「……あ、あたしは、何も」

「そんな悪い子に育てた覚えはありませんよ。出しなさい、早く」

 母は手のひらを突き出した。兄の言うことを信じ、自分のことは信じてくれない。こんなにも信用がないことを突きつけられ、登志世はますます意固地になる。首を横に振ってうずくまった。そうなると、母も手を上げることを躊躇わなかった。登志世の腕を引っ張り、無理矢理に袖の中へ手を入れる。

「あら、本当だわ。これは、お祖父様の煙管じゃないの。こんなものを持ち出して……」

 母は失望めいた声で嘆いた。兄は腕を組んでこちらを睨んでいる。

「あのとぼけた祖父さんから何か吹き込まれたんじゃないですか」

 兄の言葉はどこまでも冷たい。呆れた言い方に、登志世は初めてはらわたが煮えくり返るような怒りを覚えた。しかし、これをどう発散させればいいのか分からない。それに、二人からの威圧に耐えきれない。

 登志世は母の手から煙管をひったくった。素早く兄の脇をすり抜ける。

「こら、登志世! 待ちなさい!」

 屋敷の外へ飛び出すと、母の声が遠のいて消えた。


 ***


 道を走ると、胸を締め付けられるような痛みが襲った。喉がヒリヒリと痛む。おまけに打たれた頰や掴まれた手首が疼く。渇いた寒風の中、痛みと悲しみが同時に襲いかかり、小さな体では対抗できない。刈り取りが終わった田圃も土が乾いており、畦から下りて土の中にしばらく身を潜めた。

 息を整えようと呼吸すると、心臓が切り裂かれるように痛む。咳をするとあばらが軋む。その苦しさから逃れる術はなく、登志世は涙をこぼした。

「お祖父様……戻ってきて」

 どうして急に死んでしまったの。どうして居なくなったの。約束したのに――

 持っていた煙管を握りしめる。手のひらに食い込むほど、強く握りしめて呻く。幼い子供のようだと、女の子のようだと母からなじられるが、今は誰も側にいないから許されるはずだ。

「――おやまぁ、可哀想に」

 突然、耳の中を掻い潜る静かな声に、登志世は顔を上げた。

 足元に座る小さな翁。いや、これは翁の面だ。

「子の涙は痛ましくて見ていられない。あぁ、可哀想に」

「ごめんなさい」

 すぐに謝り、涙を拭う。泥が目尻についてしまい、袖で拭った。

「何故謝る? あなたは何も悪いことをしていないだろう」

 翁の面をした小さな人物――人と言えるのかも怪しいそれは、カラカラと笑った。

「でも、泣いてしまったから」

「泣くのが悪いことだと思っているのだな。人間ってのは、よく分からん生き物ですな」

「悪いことじゃないの? あたしはそう教えられたよ」

 意地になって言うと、翁の面はまたも笑い飛ばした。

「ははは。それが正しいものだと定めたのは、たかが他人ですぞ。あなたは他人の言葉を鵜呑みにしすぎている。己の目で見たものが全てであるはずなのに、それさえも蓋をしてしまうのは実にくだらんことだと気付いていないのだね。あぁ、勿体ない」

 話が難しく、登志世は首を傾げて苦笑するしかなかった。

「それ、涙が引っ込みましたな」

 翁の面が小さな指を登志世の顔にさす。確かに、涙はもう乾いてしまっている。

「いやはや、何があったかは知らんが、お嬢ちゃん、早く家に帰りなさい」

「お嬢ちゃんじゃないんだよ、あたしは」

 やや拗ねた口調で言えば、翁の面は顎をさすった。

「そうしておかないといけない事情があるのではないですかな? 私はお嬢ちゃんと。そうでしょう?」

「……どうして?」

 言葉の意味が分からない。これには翁の面も困ったように後ずさった。

「私は俗に言う妖ものでございます。あなたが手に持っている煙管、その持ち主とは古い馴染みですからね、存じておりますぞ」

 登志世は両眼を見開いた。翁の面――いつか祖父が話していた羅宇屋の風体に似ている。よく見てみれば、この小さな妖は祖父が話していた通り、階段箪笥を背負っている。背丈も登志世の半分ほどに小柄だ。

「まさか、あんた、羅宇屋のご主人かい?」

如何いかにも。羅宇屋の鎌鼬かまいたちとは私のことでございます」

 深々とお辞儀をする、この丁寧な妖に、登志世は面食らった。

「じゃあ、お祖父様のことを――」

 言いかけて口をつぐむ。祖父を思い出すと、えも言われぬ寂しさに襲われるのだ。それを察しない羅宇屋は「存じております」と軽々しく言った。

「先日、息を引き取ったとかで。私は耳が早いのです。風の便りというのは文字通り、風が運ぶものですからね……あの方は、まぁ、おかしな人間でしたから、妖の間でも有名でしたし」

「まさか、あのヒナゲシは妖からの?」

「手向けの花でしょうな。別れを惜しむ者も少なからず居るということです」

 登志世は浮かせた腰をとうとう地面につけた。力が抜ける。同時に、嬉しいやら寂しいやら、はっきりしない感情が一度に溢れ、せっかく拭った涙がまたも込み上がってきた。

「お祖父様に会いたい……」

 ポツリと出た願いは煙管の中に吸い込まれていく。

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