明治十九年

霜降の章 煙管~キセル~

壱・煙に巻いて雲隠れ

「――ねぇねぇ、お祖父じい様」

 縁側に座る祖父に、無邪気な笑顔で話しかけるのは幼い子供。少女のように華奢きゃしゃで色白だ。

「見て見て、これ、とってもかわいいでしょう?」

 梅の花があしらわれた着物をはしたなく羽織り、珍しく高揚気味にまくし立てる孫に、祖父、雅宗まさむねは丸い眼鏡を鼻に引っ掛け「どれどれ」と唸る。

「ふぅむ。めんこいなー、登志世にはかなわん。この着物はどうしたんだね?」

「七五三のお祝いにいただいたの。かわいいでしょう?」

「うんうん。おっかさんにもらったのかい?」

「んーん。お父さんに」

「……そうかい。それは良かったねぇ」

 雅宗はわずかに目を曇らせたが、幼い登志世にその意味は分かるまい。

「登志世。大人しくしていないと、おっかさんに叱られちまうよ」

 縁側で着物をはためかせ、はしゃぎ回る孫に、ようやくたしなめる。だが、登志世は「大丈夫」と自信満々に答えた。

「今、お母さんはお買い物です」

「おやおや、そうだったかい。んじゃあ、うんと走ってきな」

 雅宗はニヤリと笑いながら言った。これを見て、登志世もいたずらに笑う。

「はぁーい」

 縁側を飛び降りて、着物を風に揺らす。ひらひらと胡蝶のように、鮮やかな赤、青、黄色。これを見ながら、雅宗は煙草盆たばこぼんを引き寄せた。刻み煙草を煙管きせるに詰めて火を点ける。

「あ!」と登志世が目ざとく見つけた。すかさず、縁側をよじ登る。引っ掛けていた着物が肩から落ちていった。

「あぁー……アーア」

「あーあー、まったく。しょうのないやつだよ」

 雅宗は煙草盆に煙管を置いた。煙が昇る。登志世と一緒に着物をひっつかんで縁側に乗せる。

 それでも二人は愉快に笑みが絶えない。

「お母さんには内緒だねぇ」

 登志世が言うと、雅宗も頷いた。眼鏡の奥の目を笑わせる。

「ねぇ、お祖父様。お話を聞かせて」

「はぁ、またかい?」

 せがむ登志世に呆れて目を丸くする。そんな祖父の膝を叩いた。

「あぁ、はいはい。分かったよ、ちょいとだけな」

 そう言って、煙草盆に置いていた煙管を取る。黒くしなやかな羅宇らうを撫で、吸い口を咥えた。スゥ――っと透き通った空気の音がする。煙を吸い込んで、吸い込んで、ゆっくりと肺に蓄えるように含んで、鼻から噴き出す。この煙を頭から浴びて、登志世はクスクス笑った。この反応に、雅宗は気分良く唸った。

「何の話をしようかねぇ……あぁ、そうだ、羅宇屋の話はしたかねぇ?」

「うん。でも、あのお話大好きよ」

 羅宇屋の話は何度も聞いたが、何度聞いても楽しいものだった。雅宗が煙を吸って、吐いて、咳払いする。その口から語られるものを今か今かと待ちわびる。

「この煙管はねぇ、私の親父からもらったものでね。年季の入った古い煙管さ。この羅宇がよ、ある日突然、ヒビが入っちまって。あーしまったなぁ、どうしたもんかなぁっと、ほとほと困っていたんだよ。羅宇屋が通ってくれねえかなぁ、でもこの辺に羅宇屋の車がない。親父の形見なもんだから、焦っていたんだね。そんな時さ、小さなおきなの面が目の前に現れたんだ」

 小さな翁の面――これが階段箪笥かいだんたんすを背負い、五色の煙を吹かせて金具を洗う。羅宇を新調し、綺麗な煙管の完成だ。幻想的な景色を脳内で思い浮かべると、登志世の顔は無意識に綻んでいくのだ。

「煙をプカプカ~っとね。それはそれは見事に綺麗な、色鮮やかなものだった。美しい色だ。そうさなぁ、この着物のように、目がハッと醒めるようで――」

 雅宗は煙を吐き出した。そして、口をつぐむ。登志世は首を傾げた。頭上が陰る。雅宗の視線が上ずる。同時に顔を上げると、そこには目を釣り上げた母の顔があった。

「登志世さん」

 短い叱責。登志世は肩をすくめて俯いた。すごすごと祖父から離れる。

「お、お帰りなさい、お母さん」

「ただいま戻りました。登志世さん、来なさい」

 母は厳しい目つきを雅宗に向け、冷たい態度を登志世にぶつけた。幼い子供にはただただ恐怖でしかなく、着物を握って唾を飲んだ。立ち上がり、母の後ろをついていく。

 縁側には煙をまとった祖父だけが取り残された。


 ***


 奥の間に、親子が向かい合う。母の威圧が肩に重くのし掛かる。それに耐えるのは至難の技で、登志世は思わず咳をした。

「……登志世さん、みっともないですよ。それに、お祖父様に我儘わがままを言ってはいけません。何度言ったら分かるの」

「すみません」

「それに、あなた、外へ出たわね? 熱がまだ下がっていないのだから、ダメだと言っておいたでしょう? どうしてお母さんの言いつけが守れないんですか」

「すみませんでした」

 口答えは許されない。母の圧力に肩を震わせ、登志世はもう一度咳をした。

 すると、母は背をさすった。

「……ほら、もう寝ていなさい」

「はい」

 羽織っていた着物を脱がされ、部屋に追いやられる。登志世は寂しげに目を伏せて布団の中へ逃げ込んだ。

 だが、ここ数日部屋から出ていないこともあり、体はいくらか楽だった。三日前なら全身が怠くて動けなかったのに、頭痛もなければ吐き気もない。咳はたまに出てくるが、毎度のことなので特段気にすることではない。

 布団に潜っていても退屈なばかりで、登志世は天井の木目をじっと眺めていた。

 廊下から声が漏れ聞こえてくる。

「――あなたからも何かおっしゃってくださいな。登志世ったら、私の言うことをまったく聞かないんですよ。それに、あなたが買い与えたあの高い着物、ずっと着てるんですからね。どうしてあんなものを買ったんですか。いつまで経っても女の子のように扱って……」

「それは、お前がからじゃないか」

「あの子の為です。あの子の体がずっと丈夫じゃないからよ。あぁ、いつになったら元気になるのかしら。はじめはそうじゃなかったのに――」

 父を言いくるめ、さらには兄のことまで持ち出してくる母の声に、登志世は思わず布団を引っ張って耳を塞いだ。兄のことはあまりよく知らないが、遥か遠い地で兵隊になったとか。立派な兄であることは聞かされているが、家におらず、むしろ母の言い草では「家を捨てた」のだと。とにかく、肇に関しては「失敗だった」と嘆いていたので、そんな印象を持っている。

 父は口数が少ない。特に母の前では。

 祖父に至っては、普段は離れに住んでいる。登志世の部屋からは遠く、母の居ぬ間にこっそりと縁側で父と碁をさすか、煙管を蒸しているかだ。そうした時間が何より大切だった。

「ともかく、登志世さんにはそろそろ、お家を守っていく自覚を身につけさせたいのです。私はあの子を女の子にしたいわけじゃないわ。この家で育つためには、どうしようもないことなのよ。そうよ、じゃなきゃ、肇のように台無しになっちゃうもの……」

 母の声は段々と独り言のようになっていた。父はもう居ないのだろうか。母の言葉に応えることはなく、どうやら部屋に入ってしまったらしい。母はいつまでも廊下で何かを呟いていた。


 ***


「登志世、登志世。これ知ってるかい?」

 昼間のことだ。その日は祖父がこっそりと部屋に入ってきた。手には白い藁半紙わらばんしが無数にあり、何やら嬉げで、大発見を得た少年のようだった。

「なあに?」

 布団から飛び起きると、すかさず「しぃー」と人差し指で制される。口を抑えて辺りを見回す。

「なあに?」

 もう一度、今度は小声で訊く。すると、雅宗はニヤニヤと笑いながら紙を机に置いた。三角に折り込み、さらに三角に折り込む。これを何度も繰り返していくと、奇妙な菱形ひしがたへ変貌した。

 登志世はワクワクと胸を躍らせて祖父の指を見る。

「そら、できた」

 菱形の天辺を、まるで花を開かせるように広げると、そこには鶴の形をした紙人形があった。コロリと手のひらに乗せられたそれを見て、登志世は手を叩いた。

「これをな、こうして、ふぅっと息を吹くと……」

 煙を吐くかのように口をすぼめて、鶴の腹に息を吹き込む。すると、鶴の翼が。鶴は手を離れ、宙を飛ぶ。ひらひら舞い上がり、ふかふかと部屋の中を上下する。

「すっごーい……」

 登志世は祖父を尊敬の眼差しで見上げた。

「どうやって出来るの?」

「これはね、そう簡単には出来ないのさ。私も何度も練習して出来るようになったんだよ」

「あたしにも出来るようになる?」

「あぁ、そうだね。出来るようになるさ。そのためには、体を丈夫にせにゃならん」

 鶴を捕まえて、雅宗は得意げに笑った。この言葉に、登志世は顔を俯けた。

「どうした?」

 それまで機嫌が良かった孫の顔色に、祖父は怪訝に見つめた。登志世は布団に身を投げ、枕を引き寄せる。むくれた顔で祖父を見上げた。

「……あたし、きっと大人になれないんだわ」

「何を言ってるんだ。そんなことない」

「そんなことあるよ。いつまで経っても体が丈夫じゃないのは、あたしの出来が悪いからなんだ。本当は女の子じゃないのに、可愛い着物が好きなのは変だって」

「誰がそんなことを」

 祖父の声が厳しくなる。登志世は布団をかぶってボソボソと呟いた。

「お母さん」

「………」

 応えは返ってこない。ただ低い唸りを喉から漏らしているだけで、何を考えているのかは分からなかった。

「ねぇ、お祖父様」

「ん?」

「あたしは、なんなんだろうね」

「………」

 応えは、ない。しかし、聞きたい答えも思いつかない。

 登志世は布団から顔を出さなかった。いつの間にか祖父が部屋の襖を開け、出ていく音が聞こえた。ずり足が遠ざかり、それを名残惜しく思いながらも、見送りはしなかった。

 母の言葉の意味はよく分からないが、雰囲気は伝わっている。漠然と、自分の存在が「良くない」のだということは気づいている。祖父や父がどんなに優しくとも、本当の答えは煙に巻いてしまう。どちらも母には逆らえず、なすがまま。幼い登志世にこの関係は難しくも、母がとりわけこの家では力が強いということだけは知っていた。

 権堂家は歴史が古く、この屋敷を建てたのが文政五年、徳川とくがわ家斉いえなりの時代であり、雅宗が生まれた時期である。家の中にも畑や田圃たんぼがあり、塀の外にも田畑が広がる。夏は草原のように、秋は金色の絨毯が広がるように、四季折々に色を変える。この集落一帯の土地すべてが権堂家のものだった。

 なんでも先祖は室町時代に都落ちした公家であり、大きな戦に巻き込まれたその後に、お上の好意もあって位の剥奪は免れた。そして、領主としての地位に留められた経緯がある。これは権堂家、さらには集落の人間ならば誰もが知ることである。

 登志世もここずっとこの話を母から聞かされているが、祖父が話すものよりも難しく、つまらないものだったので話半分に聞いていた。

 家督やら、時期当主やらと大層なことを言われても実感はなく、それよりも自己の違和について疑問を持つ方が登志世にとっては大事だ。

 可愛い着物、愛らしい人形、折り紙が好きで、外に出て走り回ることや、同年の子供と喧嘩をしてみたい。

「女子らしく振る舞いなさい」と注意され、強制され、それでも反発してしまうのはどうにも、自分が出来損ないだからなのだと考えることがしばしばある。

 これを祖父に吐露したら、答えが返ってこなかった。それはつまり、導き出した答えが正しいのだと登志世は気落ちするほかなかった。

「――登志世、登志世」

 まどろんでいるところに、遠くから祖父の声が聞こえてきた。

「……あたしは怒ってるんですよ。返事はしません」

 布団から絶対に動かない。テコでも動かない。そう決めていると、祖父の手が頭を撫でた。

「まだ怒ってるのかい。しつこいのは良くないぞ」

「……なによ。あたし、今忙しいんですよ」

「寝てるだけじゃないか。いやなに、登志世の機嫌取りをしに来たのさ。おっかさんに見つかると、また会えんしな」

 しおらしく笑う雅宗の声。思わず心配になり、登志世は布団から這い出た。

「会えなくなる?」

「あぁ、そうだ。だって、私はおっかさんに嫌われているからねぇ」

「そうなの?」

「知らなかったかい」

 雅宗を見ると、丸い眼鏡の奥が暗い色を帯びていた。深い皺が寂しげで、まるで切り傷のようだった。

 登志世は祖父の平たい背中に短い腕を回した。

「でも、お母さんは、お祖父様の娘でしょう? どうしてそんな風になってしまうの? 大人になると、親子じゃなくなってしまうの?」

 優しくて穏やかな祖父をどうして嫌いになると言うのか。母のことがますます分からない。

 雅宗は「うーむ」と長く唸った。ゆっくりと長い時間をかけて思考を働かせている。

「そうだなぁ……私が、きっと、のが気に入らないんだろうねぇ」

「そんなことで? そんなことで嫌いになれるの? あたしは、お母さんがどんなに意地悪でも、嫌いになんかならないのに。お父さんがもし、お祖父様みたいにお馬鹿なことをしても嫌いになんてならないのに」

 腕を回した背をぎゅっと強く握りしめる。雅宗もまた登志世を包むように抱きしめる。

「お馬鹿なことってのはなんだい?」

「煙をプカプカってすることと、鶴を飛ばすこと。あとは、おとぎ話。お母さんがそう言ってた」

 胸に顔を埋めると、枯葉の匂いがした。そして、くすぶった煙草。祖父の匂いだ。

「登志世は、そのお馬鹿なことは嫌いかい?」

「ううん、大好き。とっても好き。だから、もっとお話しして」

「よし、分かった」

 雅宗の声が弾む。それだけで登志世も安心する。ふわっと柔らかな風のように、爽やかで甘い空気が、陰気な部屋を変えていく。

 登志世は布団の中に戻り、雅宗はその横で寝そべる。

「この話はしたかな? 私と行燈あんどんの話だが――」

「知らない。それはまだ話してない」

 すかさず口を挟むと、雅宗はそれをなだめて笑った。

「そうだったね。それじゃあ話そう――私の部屋に、古い行燈があるのさ。あれも煙管と同じで、親父の形見だったんだがね、どうやらそいつはこの家が建つ前からあったそうだ」

 それは大昔、まだ雅宗が生まれる前のこと。都から逃げた先祖が、命からがらたどり着いたのがこの地である。飢えや渇きで気が狂いかけ、洞窟に身を潜めていたところに、一人の娘が通り過ぎた。この娘は先祖に穀物や食べ物を分け与えたらしい。

 先祖は生き延び、その娘の家に身を置くようになるのだが、月日が流れるにつれて、彼の居場所がお上に知れてしまった。お上はその地を彼に与えた。助けてくれた娘たちを束ねる主人となった先祖は、それから長年にわたってこの地を守ってきたと言う――

「……そんな話を、教えてくれた」

「え?」

 行燈が教えた、とはどういうことなのだろう。登志世は意味が分からず、話の続きを待つ。

「その行燈には、何者かの魂が宿っているのさ」

 雅宗は厳かに囁いた。

「私は、昔話が好きでね。行燈に百の怪談を聞かせると良からぬものを招く、という言い伝えを試したかったんだよ」

「そうしたら?」

「出てきたさ。私が見たそれは、娘のようだった。丁度私と同じくらいの――あぁ、その当時は私がまだ十か十一か、そのくらいの歳だったんでね。同じくらいの娘だったよ。青白くて、見目はそんなに良くないのだが、愛嬌のある人だった」

 雅宗は思いを馳せながら話した。その思い出を覗き見ることができない。登志世は悔しく思いつつも、祖父の思い出に横槍を入れる野暮な真似はしないように努めた。

「行燈の上に座って、私をじっと観るのさ。そして、こう言った。『あんたは綺麗だから、つれていくのが惜しいわね』」

「どういうこと?」

「さぁなぁ……何にせよ、良からぬものなのだろうから、大方、私の魂でも奪ってしまう気だったのかもしれんね」

 これは雅宗も理解していないようで、彼もまた不思議そうに天井を仰いでいた。

「ふむ。それじゃあ、もう一度話を聞いてみるほかないだろうね」

 やがて出た結論に、登志世は目を輝かせた。

「その時はあたしも一緒にいてもいい?」

「あぁ」

 布団越しに腹をポンポンと叩き、雅宗は目尻に笑みをたっぷり含ませた。それを見つめて登志世も笑う。

「ふふふ。約束ね」


 ――しかし、その約束は一年が経っても、二年に差し掛かれども果たされることはなく、そして永久に守ることが出来なくなった。

 明治一九年、秋。

 祖父、雅宗が死んだ。

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