明治二五年

七夕の章 陰陽~インヨウ~

零・陰陽

 影のない強い夏日だった。

 熱が地表に吸い込まれ、草履ぞうりが蒸れる。頭が痛くなりそうなカンカン照りで、頭皮から汗が滴り落ちてくる。手の甲で拭うこと、もう幾度目か。

 柱をつき刺したような校門に、一人の少年が立ち尽くしている。

 何もせず待つこと数分、がらんがらんとベルが鳴れば授業の終わりを告げるのだと仁科にしなじんは知っていた。

 茹だった頭をもたげ、長い前髪から目当ての人物を探す。その人相の悪いこと。校舎から出てくる生徒らが白い目で見ているが構わない。

 仁科は鼻をすんと鳴らしながら、包帯を巻いた腕をさすった。先日、彼は不本意ながら大火傷を負ったのだ。焼けただれた腕に痛覚はない。しかし、蒸し暑い熱気にさらされれば、虫が這うような違和感を覚える。

 イライラと包帯の上からさすり、彼はもう一度校舎を見やった。

 ようやく見知った顔がうつむき加減に歩いてくる。海老染めの着物、丁寧に結い上げた髪の毛が陽に照らされている。そして、半透明な何かを背負っている。どこぞの霊がまたくっついているらしい。もやもやと黒い影もある。

 仁科同様、鬱陶しげに眉をしかめ、他の生徒たちのように学友と語らうでもなく、上等の風呂敷を抱えて校門を通りすぎた。

「おい、登志世としよ

 肩を叩いて呼ぶと、登志世はようやく顔を上げた。

「なんだ。いたのかい、仁」

「随分な言い方だなぁ。いつものことだろ」

 ぶっきらぼうに返せば、登志世は頼りなく眉を下げた。そして、仁科の腕をちらと見やり、溜息を吐いた。

「帰りたくないなぁ……」

 彼を慰めるでもない小さなため息が登志世の唇からこぼれる。憂いを帯びた口調に、仁科は首を傾げた。

「僕はまだしも、お前は早く帰れよ。おばばがうるさいからな」

「他人の母さんをおばばって言うな」

 間髪を入れずに言うも、今日の登志世は調子が悪い。また体調でも悪いのか。仁科は不機嫌に目を細めた。

「帰るぞ」

「うーん……」

「なんだよ、気味悪いな。今日のお前は朝から変だ」

 仁科の言葉に、登志世は「え?」と口をぽかんと開く。

「今朝、学校に行く前からなんだか……気味が悪かった。変だった。いつもは威勢だけはいいくせに」

 言葉にしづらいのか、仁科は考えながら言った。つたなくも罵倒だけは一人前。いつもなら登志世は「うるさいな」と迷惑被る顔つきを見せるのだが。

「おいおい、なんでそんな顔するんだよ」

 えらくしおらしい。まるで叱られたばかりのように哀を込めた表情をする登志世が、仁科には分からなかった。ただただ気味が悪い。

「……ねぇ、仁」

 登志世が小さく言う。

 その声音の重さに、仁科は怯んだ。逃げるように一歩、砂を踏む。

 だが、登志世も一歩追いかける。そこには、不安と恐れが入り混じっているように見えた。

「それ……その、怪我。母さんに?」

 登志世は、仁科の包帯を躊躇いがちに指す。

 何かと思えば、と仁科は呆れる。

「いいや。あいつだよ、はじめだ」

「兄さんか……」

 呟きを落とす登志世の落胆は広がる一方だった。

「でも、僕はあまり覚えていないんだよ。どうしてこうなっちまったのか、まったくね。お前らと違っておつむの作りが違うから」

 仁科は鼻で笑いながら言った。自虐的に言えば登志世の機嫌も戻るだろう、と浅はかに考えた。

 登志世は俯いてしまい、何も言わない。

 一向にうんともすんとも言わないので、やがて仁科は苛立たしく口を曲げた。

「なんだよ。いつもみたいに笑えばいいだろ。僕のことを笑えばいいのに。こんなこと、昨日だけじゃないんだから。毎度のことさ」

「それは……」

 登志世だって普段は家族と同じく傍若無人に振る舞っている。他人を小馬鹿にしているじゃないか。仁科が怪我でもすれば「馬鹿だねぇ」と嘲笑の一つでも投げてくる。それなのに、なぜ今になって同情しているのか。

 ここまでの大怪我を見たことがないからか。確かに、今回は一番ひどかった。どうして肇があんなにも怒り昂ぶっていたのか分からない。

 あまり思い出せないが不愉快なことにはかわりないので、仁科は「ふん」と鼻を鳴らした。

「お前が何を思ってるかは知らんが、もう慣れてるんだよ、こういうことは。それに僕はお前たちとは違う生き物だから、分かりあえるはずがないんだ」

 彼はなんの感情も込めずに淡々と事実を述べた。さっさと冷たく背を向ける。

 そして、「暑い暑い」とぼやきながら、たもとを開いて手で扇ぐ。のんびりと砂を踏み、未だ立ち直れない登志世を置いて行こうと先を歩いた。

 その時。

 道の奥に、ゆらめく人影があった。ぼうっと煙のように輪郭がぼやけた何か。夏陽の下、影を帯びるその何かを、仁科は目を細めて見つめた。

 まるで陽炎かげろうのように夏の熱が視界を歪める。目を凝らして見ていると、はどうやらこちらに歩いてくるようだった。段々と形がはっきりとし、大きくなっていく。

 太い番傘を肩にかついで、ふうらりふうらり左右へ揺れながら動くもの。見れば、白い装束に高下駄を履いた修験者のような出で立ち。揺らめきだと思っていたものは、玉虫色の極彩。鮮やかに放つもやだった。

「チチチッ」

 短い鳴き声が耳を掠める。鳥か。小さな雀か。

 茹だった脳で判断した瞬間、ぶつぶつと肌が粟立った。それから毛が逆立つ。威嚇する猫のように、仁科は瞳孔を開かせて修験者を見た。

 そして、ビリビリと感じる痺れにも似た感覚が全身を駆け巡っていく。血流が早く、動悸が激しくなっていく。

 急な異変には困惑するしかなく、仁科は後ずさった。

「うわっ」

 登志世にぶつかり、二人は地面に尻もちをついた。

「いったいなぁ、なんだよ、もう……」

 転がって文句を言う登志世は、未だ状況がつかめていない。

「仁?」

 だが、仁科自身も何故自分がこんなにも怯えているのか分からなかった。思考力を奪われたかのように頭の中が真っ白になる。寒気を感じる。

 修験者はさらに近づいた。陽炎のように揺れ、手を伸ばしてくる。光にも似た色の靄が道いっぱいに広がっていく。

「――登志世。逃げよう」

「え?」

「いいから!」

 仁科は登志世の腕を引っ張り上げ、己の足を奮い立たせて地面を蹴った。

 砂埃をまき散らし、先へ先へと駆けていく。開けた農地のせいで隠れる場所がない。影を持たない道だから、ただまっすぐに進むしかなかった。

 仁科は舌打ちした。背後を見やれば、登志世の苦しそうな顔とその奥に色とりどりの光が覆いかぶさろうとする。

 ――あれはなんだ。

 今までに視たことがない。妖か。それとも、化物か。

「なに、あれ……」

 仁科の視線に、ようやく登志世も気がついたらしく背後を振り返る。

「お前にもえるのか、あれが」

「うん。なんだよ、あれは。なんか、嫌な予感しかしないんだけれど」

「それは僕もだよ」

 正面を向いた、その時。

「っ!」

 仁科の鼻は何かにぶつかった。勢いが急激に止められ、二人は押しつぶされるようにぶつかる。仁科の顔に大きな手が立ちふさがっていた。その手が彼の顔を握る。

 指の隙間から見えたのは、あの修験者だった。銀色の髪が頭巾の下からわずかに見える。

「……ようやく。漸く、見つけた」

 冷たくも熱い、なんとも言い難い指の感触に、仁科は不快感を覚えた。そして、血で滲んだ包帯を振るい、旋風を巻き起こす。一刻も早く逃げなくては。

 我を忘れて妖を喰うことも、吹き飛ばすことも、殺すことも容易だというのに、今この瞬間だけは逃げることだけを考えていた。

 風が修験者の頭を襲う。ぐるぐると風に巻き込まれれば、大抵のものはその風圧に耐えられずに粉々になってしまうだろう。

 未だ掴まれたままだが、指の隙間から修験者の頭を見やった。

「……ふうむ。成る程、成る程」

 風の奥から声が聴こえる。仁科は目をみはり、固まった。

「我々は、親しい存在なのだ。然しとて、お前は拒むという。何故か……もとより、相反する陰と陽。干渉が叶わない、とは、このことだろうか」

 ――一体、何を言っている?

 男の言葉が理解できない。段々と顔を掴む力が強くなり、指が食い込みそう。それに耐えるも抵抗がままならない。

「仁!」

 背後から登志世の声が聴こえる。

「……に、げろ」

 それだけ言うのがやっとだ。しかし、登志世はその場に座り込んだままで動けないのだろう。仁科はだるい痺れを感じながら、ゆっくりと腕をもう一度振るった。ばさっと袖が音を立て、風の刃が飛ぶ。男の首を狙って旋回し、そして、斬り落とした。

 ごとん、と地面に落ちれば、登志世の小さな悲鳴が響く。

 これでしまいだと思った。しかし、手は仁科の顔から離れることはない。体も腕も手もそのままで、力が落ちることもない。

 物言わぬ胴体が仁科の首に手をかけた。すさかず振り払うも虚しくかすめ、彼は首を握られたままそのまま道の向こう側まで飛ばされた。

 弧を描いて地面に叩きつけられる。砂嵐が起き、倒れ込んだ彼に粉塵が降りかかる。修験者の体はそのまま飛ぶように仁科の元へ行き、同じように彼を元の場所へ投げ飛ばした。

 顔から落ち、地面に叩きつけられた仁科の額からは血が流れ落ちている。

「ごほっ」

 彼は、胸を抑えながら激しく咳き込んだ。

「……はぁ、ったく、どういうことだよ……くそっ」

 よろめいて立ち上がる。どうやら体は頑丈で、このくらいでは死ぬこともできないらしい。どうりで奥方と肇の折檻にも耐えられるはずだと、仁科は己に嘲笑を投げた。

「――お前は、存在が許されない。許されないのだ」

 転がっていた首が言う。胴体は仁科と向き合っている。登志世の前に立ちふさがっても今の状態じゃ守れる保証はない。

「存在が許されないなんざ、知ってるんだよ、だからなんだって言うんだ」

 まだ痛む胸をさすり、か細い声で虚勢を張る。

 化物扱いされてきたのは子供の時分からだ。十五になった今でも状況は変わらない。

 それに、力があれば人など恐るに足らない。

「その、思考が、危険だと、云う」

 首の言葉に、胴体が仁科の髪を掴み上げる。乱暴に毛根を引っ張られ、頭皮から抜けるような感覚がした。

 体の痛みに耐えきれない。何故か息が荒れる。骨か臓器が壊れたか。体の再生が追いつかない。だるい痺れが全身に周っていく。そんな彼の目に指が伸びていく。

「脅威を、脅威を除けば、均衡は保たれよう。しかし、これを奪おうとも、」

 網膜が剥がされていく。硝子体が音を立てて壊れていく。それは紙を破くような軽々しい音だった。

 視界が消えていく。まぶたが落ちたのか、いや、地に伏したのか、どちらか分からない。意識が遠のいていく。

「仁……!」

 遠くで登志世の金切り声が聴こえる。仁科は手探りで声を探した。

 暗闇が中心から光を取り入れる。視界がぼんやりと開けてきた。

「……登志世」

 海老茶の着物が道の脇に座り込んでいる。伏せたまま這っていき、仁科は登志世の着物を掴んだ。だが、それを蹴飛ばされる。修験者の体が仁科を遠ざけ、登志世の前に立ち塞がる。

 ――おい、やめろ……何をするつもりだ。

 もどかしく、よく見えない。ぼやけたままの世界を地に伏したまま見る。修験者の男は登志世の前で何かを話している。

「……――、……――――――――――」

 その不思議な言葉とともに、登志世のうめき声が聴こえてくる。

 仁科はまだ動く足で地を蹴り、這ったまま修験者の男の首を掴んだ。血に濡れた指で断面に触れる。この血は妖が嫌う毒なのだから。

 首は銀色の目を開き、驚きにも似た形相を見せた。首がザラザラとちりへと化する。すると、胴体も後ろに倒れていく。風に煽られ、塵となって消えていく。

 その黒い霧のような塵が舞う向こう側で、登志世が顔を覆って肩を震わせていた。泣いている。呻くように声を漏らし、泣いている。

「登志世……」

 何をされたのか分からない。

 仁科は腕に力を入れて起き上がると、登志世の手を掴んだ。

「なぁ、おい。何があった。何をされたんだ」

 見るからに無傷だが、登志世の目を見て思わず口をつぐんだ。息を飲み、全身が硬直した。

「仁、あたしにも分からない。でも、でも……あいつが、あたしに何かを飲ませたんだ」

 何かとは、なんだ。それを思い至るのに時間がかかる。

 何かと言われたらなんとも言えないのだが、おそらくそれは「目」なのだろう。

 登志世のまぶたから落ちるそれは赤く赤くどろどろと滴る血で、それが事の異常さを語っている。

「仁、助けてよ。どうして、あたしがこんな……どうなってしまうの、ねぇ」

 袂を掴んで泣く登志世に、仁科は呆然としたまま項垂れた。

 何が起きたのかは分からない。しかし、妖を視る力を奪われたことは確かだ。登志世の周りに、いつもなら視える厄介な霧が一切から。

 仁科は登志世から目を逸らした。力が抜け、意識が飛びそうになるも、頭を振って気を取り戻す。

 そうしてしばらく、二人は困惑と動揺に震えるしかなかった。

 夏の暑い盛りに、蝉はいつの間にやら騒音を止めている。



《七夕の章 陰陽、了》

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