白露の章 猿蔵~サルゾウ~

壱・九死の境

 星の瞬きが一層際立つ深夜の頃。大釣り鐘の音が鳴り、夜更けを知らせる。ゴーン、と大きくたゆたう重低音。三度鳴り、町へその波を渡らせる。音波は風に乗り、壁をも突き抜けていくのだ。

 夜風が爽やかな秋。規則的な道が並ぶこの町の、西南西に位置する大門では幾許いくばくかの緊張に包まれていた。佇む猿の石像が門前で気を張り巡らせている。

 長い長い真っ直ぐな道の向こう側をじっと見つめていると、先ほどの音波と同様に何やら足音が聴こえてきた。暗く寝静まった町を歩く輩がいる。

 この町は時間に規則正しく、夜半に活動するものは猫一匹だっていないのだ。それ故に、門番は不審がった。

「はてさて。一体全体、何事やら」

 目を凝らしてようく見ていると、道の向こう側から聴こえる足音の主が姿を表してきた。ぼんやりとした影は夜の暗がりでまったく見えない。門番は息を殺す。

 そして、両眼が主の姿を認めた瞬間、門番は思わず顔をひきつらせた。動かぬはずの頬がガリガリ動いた。

 向こうからやってくるのは、鬼婆だった。逆だった頭髪に骨が浮き出た薄皮、落ちくぼんだ目は爛々らんらんと黄色に光り、まるで月のよう。大きく裂けた口から隆々と生えている牙。それを舐めていやらしくニタニタ笑う者。

「ようよう」

 なんとも陽気な挨拶をしてくる。汚らしい布を体に巻いた鬼婆は、鋭い爪で門番の頭を小突いた。

「なんだい、なんだい。陰陽師おんみょうじ末裔まつえいがいるってんで、勝負でもと思っとったら猿の門番を置くたぁ、こりゃハズレだったかねぇ」

 拍子抜けのような言い方に、門番は硬直していた体を解いた。

 緊急事態だ。紛れもなく非常事態。銅像よろしく突っ立っていただけだったが、なんと妖ものの前だと体は自由になるらしい。

 門番は鬼婆を睨んだ。

「どんなご用で?」

「だぁから、言ってんだろう。二度も同じことは言わんよ、この猿め。陰陽師に会いたいのさ、陰陽師。うちの頭領が力試しをしたいと言ってな、それで様子見に来たわけさ。だとしたらどうだい、お猿一匹しかいない」

「はぁ……お猿とは随分な言われよう。名を門番の猿蔵さるぞうと申す。では、その頭領とやらに言っておきなさい。ここを通りたくば、私を倒してからにせよと」

 猿蔵は果敢にも鬼婆へ啖呵たんかを切った。

 それが、初年のことである。


 ***


「はぁー……そりゃまた、どえらい大見得おおみえを切ったなぁ、お前さん」

 言葉に呆れと哀れみをたっぷり含ませ、岩蕗いわぶき善朗よしろうは眉をしかめて言った。

「馬鹿だねぇ」

 目の前で顔を覆い、さめざめと泣く猿を前にして笑う。

「そんなことのために遠路はるばる、こんな片田舎にまで来たとは。ご苦労なこった」

「そんなこと? 今、そんなことだと簡単に言いましたか? ひどい! そんなのって、あんまりじゃあないですかね!?」

 目を剥いて、床を叩きながら抗議する猿。初めに訪ねて来た時は上品ぶっていたが、今や興奮で我を忘れている。

 古くは宮中御用達だった陰陽師の末裔が住む地に門番として造られたのがこの猿だが、名を猿蔵と言い、はるばる南下して岩蕗別邸まで辿り着いたのだそうだ。

 鬼と勝負すること苦節八年。今年で九年目というまさに九死の境にいる。よほど困っているらしく、それなのに「そんなこと」だと鼻であしらわれては、我慢ならないことだろう。

 しかし、岩蕗はわざとらしく「ふん」と嘲笑を飛ばす。猿はさらに憤慨した。

「あーあー、頭にきますねっ。鬼を斬ったという妖払いがいるのだと聞いて来てみれば! なんという、あぁ、なんというこの仕打ち! 時間の無駄だった。ここまで来るのにどれだけの時間と金を要したか、あなたには分からないのでしょうねぇ、えぇ、そうでしょうとも。所詮は門番、猿の分際で鬼に喧嘩をふっかけたことこそが無謀だと、そう仰しゃりたいわけですな!」

「まぁ……おおむねそうだな。悔やむくれぇなら、うてあわんどきゃあ良かったものを」

「うてあう? 打て合う? とは? あーっ、もう! 何を馬鹿なことを! 何を馬鹿なことを! まったく、時間の無駄だったっ!」

 岩蕗はなだめることなく、ただただ眉を寄せて腕を組むだけだった。こちらとしても話をするだけ時間の無駄だと思っている。面倒なことに巻き込まれるわけにいかないのだ。

 猿蔵は頭の毛を掻きむしり、泣いている。陰陽師の門番が情けない。

 しばらくはこのままにしておこうか。と、諦めたと同時に、岩蕗はかたわらに座る少年に気づいた。

 初めの頃はきちんと結い上げていた髪が、今では無造作に束ねるだけで、田舎の生活に馴染んでいる。ひょんなことで預かることになった権堂ごんどう登志世としよが、じっと岩蕗を見上げていた。大人しく澄ましてはいるが、猿の泣きっぷりに困惑している。

 そんな登志世の頭に、岩蕗はなんの前振りもなくゲンコツを落とした。「ふぎゃっ」と猫が潰れたような悲鳴が上がった。

「お前は何をしとるんだ。客がいるってのに、茶の一つも出せねぇのか。学校で何を教わってきたんだよ」

「学校じゃそんなの教えてくれない……」

 頭を抑える登志世が呻きながら言う。猿と同じようにうずくまった。

「文句言う暇あったらさっさとやれ」

「はぁい……」

 返事は伸ばすな、と何度言っても聞かない。岩蕗の眉が苛立ちに釣り上がっていく。

 一方、猿蔵はぐすぐすと鼻をすすっていた。落ち着くにはまだかかりそうだが、喚いて嘆くよりは幾分もマシだ。

「さて、猿蔵よ。その話はどうにも受けらんねぇんだわ」

「どうしてですか」

 すかさず噛みつかれる。岩蕗は親指と人差し指を開いた。

「まず一に、俺たちの状況がわりぃ。そして二に、お前さんの間がわりぃ。うちは今、腑抜けと腰抜けのガキを抱えているんでな。動こうにも動けねぇってのが大まかな理由だ」

「はぁ……まったく、そんな理由で……」

 猿蔵は落胆の声を上げた。

「そんな理由で、私のお願いを断ると、そう仰るわけですか。あぁ……本当に時間の無駄でした」

「わりぃな。他の業者を紹介してやっからよ、そっちに行きな」

 苛々言っていると、脇から登志世が顔を出した。盆に茶を載せている。姿勢良く座り、猿蔵と岩蕗に湯呑を置いた。テキパキとした動作には慣れがある。学校で教わっていないとは言っていたが、やはり家のしつけが行き届いているのだろう。

「しかし、岩蕗さん。話を聞いてりゃ、ちょっと可哀想じゃないの?」

 自分の湯呑までちゃっかり用意しながら登志世が言う。

 岩蕗は「あぁ?」と人相悪く登志世を睨んだ。

「だってそうでしょ? 遠いとこからはるばる足を運んできて、ようやっと解決するかってときに門前払いだなんて、そりゃないわよ。せっかく頼みに来たのに」

「……お前はあんまし口を出すな。大体、登志世。お前さんのせいで動きづれぇってのに」

 余計なことを言う前に口を塞ぐに限る。

 しかし、登志世も負けてはいなかった。

「困りごとをなんとかしてやるのが祓い屋じゃないんですか。あたしはそう聞いていたんだけれどね。岩蕗さんったら、大嘘つきだったのね」

うるさい!」

「はい、出た! 煩い! すーぐ、そうやって片付けちゃうんだから。あたしだってねぇ、それなりにお勉強してるんですよ」

 いつまでも減らない口はやはり塞ぐしかない。岩蕗は問答無用で登志世の頭頂に拳骨を落とした。「ふぎゃっ」とこれまた猫を踏んだような悲鳴が上がる。

 しかし、時すでに遅しである。この登志世の言葉に、猿蔵はいたく感心げに頷いて泣いていた。かぶっていたほっかむりで涙を拭っている。そして、うずくまった登志世の膝に小さな手を置いた。

有難ありがとうございます! 有難うございます! この分からず屋に身を挺してまでそう言ってくださるとはなんて素敵な人でしょう! あぁ、この猿蔵、誠に嬉しゅうございます!」

「……それは、良かったね」

 痛む頭をおさえて呻きながらも、登志世はしっかりと猿蔵の手をとった。

「ね、岩蕗さん。いいでしょう? こんなに困ってるんだから。岩蕗さんのすごぉーい技を見せてもらいたいなあー。お勉強させてもらいたいなあー」

 不気味なほどに艶っぽいこびを売ってくる。

 妖嫌いだった登志世に、少しばかり護身術を教えたのが仇となった。岩蕗は頭を抱えた。

「……そんな世辞、学校で習うのか」

 苦々しげに訊くと、登志世はいたずらに笑う。顔が整っているから、余計にああだこうだと言いづらい。叱る気も失せ、岩蕗は大きく溜息を吐いた。

「はぁ……今は余計なことに首つっこみたくねぇんだよな……」

 妖を引き寄せる登志世はとくに厄介だが、も複雑怪奇で得体が知れない。懐きもしないから、どう接したらいいか分からない。

 岩蕗は部屋の中をぐるりと見回した。

「おい、登志世。仁はどこいった」

「知りませんよ。またどこかでほっつき歩いてるんでしょ」

 その冷めた返答に大きな溜息をつき、膝を立てて立ち上がった。そして、登志世と猿蔵を睨む。

「支度しろ。仁を見つけたらすぐに行く」

「はーい」

 元気よく承知し、登志世は猿蔵の頭を撫でた。

 岩蕗は家の戸を開けて外へ出ていく。苛立たしげに下駄を鳴らしながら。


 岩蕗別邸は田園の中にぽつんと建っている。牛一頭分くらいの細道から先はすべて田圃たんぼで、今の時期は黄緑の稲穂がしなやかに実っている。

 仁科は向こうにある林にいることが多い。榛木ハンノキが群生する湿地で何をしているのかと言えば何もせず、目撃したときには無造作に木の実をちぎっていたくらいである。

「ありゃ……っかしーな。どこ行きやがった」

 そこにいるのだろうと踏んだのだが、今日に限っては違った。

 彼の行動範囲はこの数ヶ月で大体は予測できる。林にいないのなら川だ。家の裏手にある小川の土手で昼寝でもしているに違いない。

 岩蕗は舌打ちして、すぐに引き返した。

 仁科と登志世を引き取ってからというもの、おちおち家を空けることもできないので、ここ最近は仕事を抑えていた。それなのに登志世は勝手に仕事を受けるし、仁科は何を考えているのか分からない。振り回されてばかりだ。

 あぜを走り、家の庭を突っ切って裏口へ行く。大人の足一足分くらいの狭い地面を踏んで段を降り、細道に出て川まで足を速めると、錆びた橋の欄干らんかんが見えてきた。その土手に隠れているのだろう。

 長く伸びた草木の中、仁科の髪の毛がわずかに飛び出している。それを目ざとく見つけると、忍び足で近寄った。

 だが、仁科の耳は敏感だった。勢いよく振り返ってこちらを睨みつけ、弾かれたように駆け出す。

 バレては仕方ない。岩蕗は足首を回して一息つくと、草を蹴った。猿よりも速く、猫よりも俊敏な自慢の脚力である。齢十五の少年に負けるはずがない。手を伸ばし、首根っこに指を引っ掛ける。

「っしゃぁ! 捕まえたっ!」

 強く引っ張ると、仁科は大人しく負けを認めた。不満そうに手足を垂れる。

「ったく、手こずらせやがって」

 生意気な目を向ける仁科の頭にゲンコツを落とし、岩蕗は勝ち誇った。そして、野良猫を掴むようにそのまま仁科を引きずって家へと戻る。

「そうむくれるんじゃねぇよ。ちょいと野暮用があるんだ」

 態度と目つきだけでも反抗的なのだが、仁科はここずっと喋らない。文句はないが、何か言いたげなのは確かである。だが、喋らないのならそこまでで、仁科に選択権はない。今日もやはり口をきかないので、岩蕗は一方的に要件を告げた。

「出かけるぞ、仁。仕事だ」

「………」

 仁科は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 ***


 天高く、細長い雲が浮かぶ。陽は正午を指している。まだまだ粘り気のある暑さが残っているが、そう悠長にのんびりしている暇はなく、猿蔵の示すとおりに岩蕗一行は町へ向かった。

 とうげを越えるかふもとを迂回するかのどちらかだが、岩蕗は迷わず迂回を選んだ。

「遠回りだが、そっちの方が都合がいいからな」

 渋る猿蔵にピシャリと言い放ち、頑として譲らず麓の道を進んでいく。

「それにしても夜半からとは言え、本来なら半日はかかる距離をどうやって来たんだ、お前さんは」

 訊くと猿蔵は笠の下から早口で言った。

「私の軽さだけなら、大鷲おおわしにでも頼んで飛べますよ。歩くよりも早いので」

「はぁ~、そりゃいい乗り物だなぁ。こっちはそういうわけにいかねぇしな。汽車があるとは言え、まだまだ不便なもんだな」

「そうでしょうな」

 ツンと澄ました態度で猿蔵は先を早足で歩いていく。

「ねぇ、猿蔵」

 登志世が声をかけると、猿蔵は機嫌よく「はい、何か」と答えた。

「さっきの話ではちょいと分からなかったんだけれど、その鬼は毎年くるんだったっけ? 毎年、九月八日の夜半にきっかりと?」

「えぇ、そうでございますとも。毎年きっかり、丑の刻にやってくるのです」

「丑の刻ねぇ。いかにもって感じだなぁ」

 岩蕗も話に加わる。猿蔵はムッと口を尖らせたが、調子はそのままに話を続けた。

「しかし、毎年毎年同じというわけではないのです。と言いいますのも、やってくる鬼は毎年違うのですよ」

「同じ鬼じゃないのかい?」

 これには登志世が驚き、岩蕗は眉をひそめた。

 猿蔵は「えぇ、えぇ」と何度も頷く。苦労していると言わんばかりに。

「初年は鬼婆、次年は百々目鬼どうめき、三年は夜叉やしゃ、四年は縊鬼くびれおに、五年は橋姫はしひめ、六年は鬼童丸きどうまる、七年は手洗鬼てあらいおに、八年は牛鬼ぎゅうき。そしてそして今年は酒呑童子しゅてんどうじでございます。まったく、毎年相手にする鬼がどうにも強くなっていく気がしまして、こうして鬼退治の岩蕗殿に頼みに来た次第なのですがね」

「酒呑童子だと?」

 岩蕗の声が厳しくなる。猿蔵は首をすくめた。

「えぇ、えぇ。左様で。酒呑童子の鬼でございます。土色の顔をした鬼でした。日景丸かけいまると名乗っておりましたが、まさしくあれは酒呑童子にございますぞ。何せ、この九年で一番陽気でおちゃらけて、トンチンカンなことを言っていたので」

 それだけで決めつけるのは安易なこと。岩蕗は「日景丸」という名を聞くや、眉間に寄せていたシワを少しだけ緩めた。

「岩蕗さん、酒呑童子って何?」

 登志世がひっそりと訊く。

「お前はそんなのも知らねぇのか」

 思わずゲンコツを作ったが、危険を察知した登志世はすぐに引っ込んで仁科の背に隠れた。

 猿蔵よりも無愛想な仁科は、大人しく後ろをついてきている。

「酒呑童子ってのは、鬼の頭領だ。酒浸りだが腕は立つ。一等に強い」

 簡潔に説明すると登志世は「へぇぇ」と素直に納得した。だが、想像がつかないのか呑気なものだ。それを無視し、岩蕗は顎をさすりながら思考を巡らせた。

「ははぁ……猿蔵よ、今年勝ってしまえば、奴らはもう来なくなるんじゃないのか」

「そうだと良いのですがね」

 岩蕗の言葉に、猿蔵はやはり難色を示す。一方で、登志世が好奇心旺盛に訊いてくる。

「どういう意味?」

「ちったあ頭を使えよ、バカタレが。大将が出てきたって時点で勝敗は決まってんだ。勝てばもうけもん、負ければ翌年ってなわけで力試しに来ていたんだろう。聞けばこいつは、陰陽師の屋敷を護ってるそうじゃねぇか」

「ふうん……そういうこと」

 説明しても反応がいまいち良くない。もう相手にしたくないとばかりに、足を速めることにする。

「しかし、酒呑童子か……」

 岩蕗は「ふむ」と思案めくように唸った。それに猿蔵は目ざとく、首を回転させて訊く。

「何かお心あたりでも?」

「いや。俺もいくつか鬼を斬ってきたからなぁ……顔見知りの一匹二匹はいるんだろうなぁと」

「鬼の知り合いですか。まったく、物好きなお人ですな」

 猿蔵は「鬼とだなんて」と小言のようにブツブツと独りごちる。そんな悪態も岩蕗は軽々聞き流し、腕を組んだ。

 知り合い、と言えば間違いないが、かたきと言ったほうが自然だ。それに、その鬼は随分昔にこの手で斬ったはずだ――

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