弐・去る者は日々に疎し
夕陽が沈みかけた橙の空模様が窺える頃、一行はようやく町へ辿り着いた。駅舎にはまばらに人が行き交っている。
岩蕗は登志世と仁科を見やった。登志世はまだしも、仁科は不機嫌が最高潮なのか眉間に深く皺を刻んでいる。しかし、きちんと荷物を持っているし、後ろからついてくるので放って置いても心配は無用だろう。
駅舎に入り、岩蕗は一服しようとパイプを取り出した。マッチがどこかに消えた。いつもなら外套の内ポケットに入っているが。どこに仕舞ったのか分からない。
その間、登志世と仁科は押し黙ったままだった。見慣れない景色に戸惑っている。早足で交差する人の波から離れて、岩蕗の横で大人しくしている。
一方、猿蔵はこの慌ただしい人間の動きに目をぱちくり開かせていた。呆れ返った声で言う。
「はぁ、ここから汽車で半日ですか……私なら半時で行けますがね」
「煩いな。そう言うなよ。事情があるのにわざわざ足を運んでやってるんだからよ」
恩着せがましく言ってやると、猿蔵は返す言葉が見つからず項垂れた。それには目もくれず、岩蕗はマッチの行方を手で探りながら、登志世と仁科に言った。
「おい、お前たち。
冷たい懐中時計を引っ張り出した。時間を見る。発車まではあと数十分あるから急がなくてもいいだろう。しかし、結局マッチが見つからない。
「手形?」
登志世が訊く。
「それがねぇと汽車には乗れん。グズグズすんな。向こうで売ってるから」
線路の近くで
「……時に、岩蕗殿」
猿蔵が遠慮がちに言った。
「あの方は一体、なんなのですか」
仁科の背が人混みの中へ消えて行く。それを、猿蔵は長い指でさした。
「いえね。登志世様もまた独特の色をお持ちですけれど、あの、仁とかいう子供がここまで一言も何も言わずにいるので。それを含め、極めて異端でして」
「あぁ……あいつはなぁ……」
答えようとするも、どうにも口が重くなる。岩蕗はマッチを探すフリをしてあまり相手にしようとはしなかった。
事情も事情だが、ここまでの経緯をうまくまとめて話すのも難しい。しばしの間、舌を転がしながら考える。
ジィッと、猿蔵は穴が開くほど見つめている。それが焦燥を煽るので、岩蕗は猿の狭い額を思い切り指で弾いた。脳が揺れる音がした。
「なっ! 何をするのです! 許せんぞ、これはまっこと許せん。陰陽師の門番にこのような仕打ち、あっていいはずがない!」
「煩い、黙れ。鬼にからかわれるような奴に言われたかぁねぇな」
「なんですと! 私だってねぇ、好き好んでからかわれているのではないのですよ! 九年も懲りずにやってくるあっちが悪い!」
キィッとやかましく喚かれると耳が痛くなる。
「まったく。あの子供の気配がただならぬので、そのわけを聞いたのに。それなのに」
怒ったかと思えばすぐに嘆き始める猿蔵。この落差についていけず、岩蕗は白髪交じりの頭をガリガリ掻いた。ため息をぽっかり吐き出す。そして、遠くから駆け寄ってくる登志世と仁科を見やりながら、渋々白状した。
「仁は……今は人間だ。ちょいと前まではそうじゃなかったんだが。それだけしか言えん」
「はぁ、なんとも言い難いものですね。奇妙奇天烈、と言いますか。なんだか胸のあたりがもぞもぞする気分でございます」
「あぁ……それは、俺もだよ」
火のついていないパイプを咥えながら投げやりに言うと、登志世が満面の笑みで手形を掲げて戻ってきた。
「お待たせしました。それじゃあ、汽車に乗りましょ! 汽車!」
「遠足じゃねぇんだぞ」
「あら、遠足は歩いていくものなんですよ、師匠」
「……はぁ」
先が思いやられる。減らず口を叩く登志世から手形をもぎ取り、汽車の中へ入る。続けて登志世、仁科、猿蔵が続く。一行は狭い列車の最奥に根城を構えた。
「まず、初年の鬼から話してもらおうか。こうして汽車に乗ったのも、詳しい話をゆっくり聞くためだ。余すことなく話せ」
高圧的に言うと猿蔵は首をすくめた。
向かい合わせの席。窓から時計回りに岩蕗、仁科、登志世、猿蔵である。三人から見下ろされ、気弱な猿蔵はおずおずと話し始めた。
「はい、まずは初年の鬼でございますね。鬼婆でございます。先刻も申した通り、私が寝ずの番をしておりますと――いや、この時に私は、動くことのできる石像であると知ったのですが、とにかく寝ずの番をしておりまして。唐突に鬼婆がやって来ました。私の啖呵に鬼婆は何故か、気を良くしていました。私たちは夜風に当たりながら、一体どんな勝負をしようかと悩みます。しばらくの後、鬼婆がこう言いました。『明日の空模様を当てるのはどうだろうか』。その夜は雲が出ており、私の鼻も雨足を嗅ぎつけていたので『これはしめた』と胸の内でほくそ笑みました。『良かろう。では、鬼婆よ、明日はどんな空模様だ?』と訊きます。すると、鬼婆は『晴れだ』と言いました。私はますます愉快になりました。鬼婆の鼻は悪かったのです。私は勝利の確信を胸の内に隠し、落ち着きはらった上で『雨だ』と宣言したのです。翌朝、九月九日は雨でした。私はこの勝負に見事勝利したのです」
猿は初年の快進撃を雄弁に垂れた。
それに一切の横槍を入れず、岩蕗と登志世は聞いている。仁科は興味がないようで、足の裏を掻いていた。
「続いて、二年目に参りましょう。それまでの私はとくになんの脅威もなく、元の石像として責務を果たしておりました。鬼婆はあの夜以降、姿を見せなかったので負けたことがよほど悔しかったのでしょう。そう高をくくっていたのですが、九月八日の夜半に、また丑三つ時になって、えも言われぬ恐ろしさに駆られました。全身がビリビリと痺れるような気迫でした。何か、無数の目に見られているような威圧を覚えました。それもそのはず。前方から
猿蔵は一息ついた。岩蕗は腕を組む。車掌から買ったマッチで、ようやくパイプの中に火を入れ、黙ったまま
すると、登志世が手を挙げた。
「あの、どうして夜叉は
「
すぐに岩蕗が言った。
「そもそも、二年目に懲りずにやってきた。鬼らはその頭領を中心に徒党を組んでいるんだろう。宴で勝負の順を決めた、とか言っていたな?」
「左様でございます」
登志世はなんだか釈然としないようで、眉を寄せているが何も考えていないに決まっている。
猿蔵は疲れた溜息を吐いた。
「相子だろうと負けようと、奴らは懲りないのです。私も辟易しています。そんな四年目には
「あぁ、鬼が変わり者だってことはようく知ってる」
岩蕗は深く頷いた。それに猿蔵は溜息を吐いた。
「私が言いたいのはですねぇ、鬼らが私ほど真剣ではないことに憤っていることなのですよ。自ら勝負をふっかけておいて、遊び半分でいる。それがどうにも、こうにも」
「まぁまぁ。お前さんの話が長くてな。思ったよりもなげぇから、見ろ、仁のやつなんか寝てやがる」
すかさず、登志世が仁科の脳天を叩く。それでも仁科は狸寝入りを決めている。
「そんで?」
岩蕗は改めて猿蔵と向き合った。
「はい。では、五年目なのですが……こちらは雅な姫さまでした。
「あ、あたし、知ってますよ。嫉妬に狂った鬼女ですよね」
席に戻った登志世が無邪気に言う。
それに対し、岩蕗は眉を曲げた。
「間違いじゃねぇが、
登志世の言う「知っている」は、この数日で散々聞き飽きている。これまで碌に妖の知識を入れずに過ごしていたのだから、知らないことが多いに決まっている。考えなしに物を言うので、岩蕗は早々に登志世を黙らせた。
「……しかし、宇治の橋姫と言や、陰陽師に
岩蕗の言葉に、猿蔵は「おっしゃる通りで」と顔を俯けた。
「そうなのです。鬼どもは我が
「おい、話が逸れてるぞ。橋姫の美貌はこの際どうでもいい。それに、話がなげぇなんざ、お前さんに言われたかねぇだろうよ」
「それはごもっとも」
登志世も茶々を入れれば、猿蔵は大人しく俯いた。不服そうだ。
「しかしですね、こうして
咳払いし、猿蔵は気を取り直す。
「えぇ、橋姫はその日、散々に愚痴をこぼしまして、私が『それで、明日の空模様は』と切り出さねば勝負が一向に始まる気配がありませんでした。愚痴と言いますのは、
「話し相手が欲しかったのかねぇ」
登志世が感想を挟む。岩蕗はやれやれと首を振った。
「鬼の考えることなんざ、わかりゃしねぇよ」
解かるわけがない。
何せ、鬼は獰猛で
物思いに
「その日は一日中、晴れ間でしたので翌日も変わらぬ晴天だろうと踏んだ私は、橋姫の『曇のち晴れ』という曖昧な賭けにも勝利いたしました。さて、六年目は
「おっかない
思わず岩蕗が言うと、猿蔵は苦々しい顔を向けた。図星らしい。
「はぁ……えぇ、まぁ、そのとおりで。それまで私は幾分、己を誇っていたのです。主に代わって鬼を追い払っているのだとそう
猿蔵は謙虚などではなかった。やはりどこか鼻持ちならない。
しかし、この猿の話が本当だとして、獰猛な鬼が律儀に負け続けていくのも奇妙だ。遊びのつもりなのか。真剣ではなさそうだが、だとすれば鬼への利がどこにもない。
外はもう陽が暮れている。群青の空を睨み、岩蕗は猿蔵を促した。
「いよいよか」
「はい。いよいよ八年目でございます。これが鬼の中でも最も最悪で最恐、
ようやく長い物語が終わりを迎えた。しかし、ここからが始まりだ。
岩蕗は「鞍馬天狗?」と不快感あらわに訊いた。
「その天狗様がどうして俺を知っている?」
「なんでも、その昔に酒吞童子やら鬼を相手に腕を振るう、豪腕の祓い屋がいると言っておりました」
岩蕗は眉をしかめた。なんだか視線が痛く、首を傾けると登志世がこちらをじっと見ている。すぐに目を逸らした。
「岩蕗さんって、そんなことしてたんですか?」
「昔の話だ。鬼退治はもう辞めた。霊媒師の仲介しかやってねぇよ」
それもこれも、登志世があんな問題を起こしたせいなのだが。これを思い出すと頭が痛くなる。ともかく、二人の面倒を見るにはこれまで通り、家を長く空けることができなくなったのが理由で、祓い屋稼業は辞めたのだ。
「そらぁ、昔は尖ってたしな。なんでもかんでも相手にして、その度に潰してきたんだが。妖ってのは時の流れが遅くていけねぇな。とっくに過ぎちまった話を蒸し返してきやがる」
――本当に嫌な連中だよ。
パイプを蒸しておかないと、愚痴が止まりそうになかった。
思考を切り替えよう。
「しかし、その頭領……日景丸とか言ってたな? 奴はここまで一回も姿を現さねぇのか」
訊くと、猿蔵はこっくりと頷いた。
「左様でございますよ」
「ま、酒吞童子だからなぁ。一番厄介そうなのは請け合いだ。向こうの出方次第では、さっさと潰しゃいい」
そう言って、懐から木の筒を取り出す。明らかに、小刀である。
「岩蕗さん、それって……」
これを見た登志世の顔が青ざめた。情けない弟子に、岩蕗は呆れた目を向けた。
「何ビビってんだよ。こいつはな、
スッと左手で刃を引き抜く。曲がりくねって錆びついた刃が顕になり、猿蔵と登志世の目が同時に大きく見開いた。あっと驚くように息を飲む。仁科は目を瞑っていてまったく見ようとはしない。興味がないのだろう。
それに構わず、岩蕗は満悦に笑い、刃を鞘の中へ戻した。
「……もしや、以前もその刀で酒吞童子を斬ったのですか?」
猿蔵が訊く。
その震え声に岩蕗は、何か懐かしいニオイを感じた。
怯える微弱な音、許しを乞う悲痛な音、そして命を削り、潰す音。無数の真っ赤な記憶が蘇りそうになり、慌てて息を飲む。それを悟られまいと、すぐに咳払いで誤魔化した。
「その時やったのはこの刀じゃねぇ。落ち武者が村に落としてったもんであつらえた
その当時の記憶はほとんどない。
血流が速く、脳が沸騰しかけていたことと、鬼が最期まで笑っていたことだけしか覚えていない。
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