弐・御神花は優雅に舞う
梅の花は神の
それは、かの天神が梅を愛でていたからだという。
この梅に限らず植物には古より精霊が宿ると云われる。
「――というのを、
店を出て、雑木林を抜ける頃に仁科がそんな話を始めた。
「その頃はどうにも嘘っぽいなぁと思っていたのですが、この世は
「嘘っぽいだなんて……
「あぁ、それもそうですね」
いつもの冗談だろう。彼はこのところ、真文をからかうことに執心なのだ。
距離が縮まったと言えば聴こえはいいが、一方的にからかわれるのはいい気分ではない。その際、決まって困惑に笑ってしまうのだが、頬は引きつってしまう。
真偽を見極めなければ。真文は頬をつねって自身を鼓舞した。
鳴海も隙きあらばからかおうと指先を伸ばしているらしいので、こうなったら己の身は己で護るしかない。
「あ、そうだ。真文さん」
ざくりと砂利を踏みながら仁科が言う。
「鳴海は梅が好きなんですよ。知ってましたか?」
「え? あ、そうなんですね……」
どうして突然、鳴海の話をするのだろうか。それに、普段は登志世と呼ぶのに。
鳴海は猫乃手に置いてきた。帳簿付けに忙しいらしく、同行する余裕がないとのことだった。それに梅の木が危険なものならば、真文に宿る櫻が黙っていないだろう。
彼女の左目に封じられた櫻の呪いは妖避けになる。
強い呪いは毒にも薬にもなるのだと、ヨビコ山での一件で仁科も真文も鳴海も十分に思い知った。故に、梅が邪なるモノだったとしたら、櫻の呪いによって飲み込まれるかあるいは貫かれるか。どちらにせよ、梅にとっては相手にしたくないものだろう。
「あぁ、なんだか私と鳴海さんのようですね……」
真文はふと思いついた言葉をぽろりと口にした。
すかさず仁科が「はい?」と首をかしげる。
「いえ、あの、私が櫻なら鳴海さんは梅なのでしょうね、と。相容れないと言いますか。櫻と梅って形は似ているのに、手入れもまるきり違う生き物ですから」
「ふぅむ……成る程」
真文の言葉に、仁科は含むような相づちを打った。そして何故か含むようにニヤニヤ笑っている。
「なんですか……」
「いえ、真文さんは鳴海について、何やら誤解をしているなぁと思いまして」
「誤解?」
思わぬ言葉に目を見開く。どういう意味だろう。
「
「でも……私、私はよく怒られてしまいます……嫌われているのではないですか」
「そんなことありませんよ」
自信たっぷりに言う仁科。それでも真文は釈然としない。
毎日顔を合わせると小言を言われる。厳しい言葉をかけられる。原因は勿論、自身にあるのだが……
悶々と悩んでいると、森家に続く石段までたどり着いていた。仁科の背を見ながら坂を上ると、ヨビコ山でのことを思い出す。
あの時ほどの清涼さなく、今は蒸し暑い初夏の候。時の流れというものは気づけば早く、いつの間にか遠のいた季節が懐かしく後ろ髪を引かれる。
それは仁科も同じなのか、彼は石段を中腹まで上ったあたりでしみじみ言った。
「なんだか
「えぇ、私も丁度そのことを思い返していました」
「神というのは厄介な存在ですから、なかなか骨を折りました。真文さんがいなければ無事には済まなかったでしょう」
「そんなこと……」
言いかけて口をつぐむ。
――それでも私は
山の中で言っていた仁科の言葉を思い出せば「自分など」とはもう言えない。言わない。
真文は意識して口角を持ち上げた。
先を行く彼の背に青々しいイチョウの影模様が揺れ動く。追いかけていくと、ようやく森家の敷地に到着した。
「あれです」
石段を上った前方に森家の平屋があるが、縁側の脇に立つ一本の木が不自然さを際立たせていた。真文が示さずとも一目瞭然で、仁科は面食らったように目を瞬かせている。
「ははぁ……成る程、確かに春先にはここになかった。本当に歩いたんですね」
そう言い、彼は開いていた目を細めた。眼鏡の奥の目は何を見透かすのか。
しぃんと張り詰めた空気がひやりと頬を撫でる。蒸し暑いはずなのに、風の色が変わったような。真文は身震いして仁科の背に隠れた。
「ん? 真文さん、どうかしました?」
「あの……なんだか急に怖くなってしまって……」
何故、怖いのだろう。漠然と感じる正体不明の恐怖が、じわりじわりと心臓を撫でていく。今にでも梅の木が歩いて迫ってくるように思えた。枝をしならせ、伸ばして捕まえようとする。そんな忌まわしい櫻の光景を梅に重ねていく。
一方、仁科は真文と梅を交互に見やった。眉をひそめて唸る。
「悪い気はない、はず……それに森家には札を預けているし……悪いものは寄ってこないはずなんですが」
櫻幹騒動の時に厄除けと邪気払いの札を家に貼っておいたという。そして、祖父母にも預けてあると。
では一体何が梅を動かしたのだろう。
しばらく、仁科は息を止めるように音を立てず、思案していた。
「――申し訳ありません、真文さん。私の力ではどうにも判断がつきませんでした」
やがて吐いた言葉には、落胆が滲んでいた。
***
「ったく、ほんと役に立たん男だよ、お前は」
再び猫乃手へ戻り、状況を説明するなり鳴海が鼻を鳴らした。未だ、帳簿台からは動けないらしい。
「帳簿付けもダメ、店番もダメ、だったらあたしがやるしかないじゃないか。それなのにこの件まで押し付けようってのかい」
「まぁまぁまぁ。ここはお前が頼りなので仕方ないじゃないですか。真文さんも怖がってますし、手伝ってくださいよ」
「おだてたってそうはいかないよ。今忙しいんだ、後にしとくれ」
取り付く島もない。春先から何かと入り用で、作業を溜め込んでいたものだから今日中に片付けておきたいのだ。それはよく分かる。けれど、梅の木の恐怖を一旦覚えてしまったらおちおち安心して眠れやしない。
「鳴海さん、お願いです……力を貸してください」
真文はおずおずと帳簿台に近づいて頭を下げた。
「勘弁しておくれよ。あんたに頭を下げられちゃ、断りにくいじゃないか……」
「登志世は女性の押しに弱いですもんね」
「黙れよ、仁。そもそもお前が腑抜けだからこうなってんだ」
仁科の茶々にはすぐさま目の色を変える鳴海である。
女の押しに弱いというのは間違いないんだろう。だが、それを逆手に取ろうとは考えもつかない真文は、肩を落としてしおらしく俯く。結果的には無意識に押し付けているのだが。
「あぁ、あぁ、もう! 分かったから泣くな、鬱陶しい! 行けばいいんだろう、行けば!」
結った髪をほどき、鳴海はようやく帳簿台から立ち上がった。
「済みません……鳴海さん、本当に」
「
荒々しく
仁科は呆れた溜息を吐く。口を開いたままで何かを言いかけるも、鳴海の声に遮られた。
「真文。次、『済みません』って言ったらひっぱたくよ」
「え……」
言葉の意味が分からない。
鳴海は舌打ちし、座敷の方へと回って三和土へ降りてきた。波打った髪はほどいたままで、左右に揺れる。それから人差し指を真文の鼻先に突きつけた。
「いいかい、真文。あたしは何もしていないのに謝るあんたが大嫌いだ。必要のない言葉はいらないんだ。無駄に怯えていちゃ、なんでもかんでも後ろめたくなる。毅然としておきな、いつでも」
「す……あ、いや、はい……」
「しゃっきり返事をする!」
ピシャリと強い声。真文は背を伸ばし、反射的に喉から声を絞った。
「はい!」
「よろしい! そんじゃあ行こうか」
店の戸を開け放ち、鳴海は背筋を伸ばして言った。
まさか日に何度も猫乃手と家を往復するとは思わなかったが、とにかく一刻も早く解決したかった。
このままにしておけば、祖父は間違いなく木を伐るだろうし、そうなると祖母の機嫌も悪くなるだろう。何より、毎年の楽しみである祖母手製の梅干しがもう食べられなくなるかもしれない。
つい口に出せば、鳴海の声色が急激に弱った。
「梅干しか……ヨシさんの梅干しはまだ食べたことがないなぁ……」
「いただく前提ですね……しかし、昔から三食必ず梅をつまんでましたよね。今はあまり手に入らないから滅多にないけれど」
仁科の補足に、鳴海は忌々しそうに鼻を鳴らした。真文は繕いの声を上げ、間に入る。
「それなら毎年お
「おや、そいつぁ有り難い。ま、なんにせよ、件の梅がどんなものか視てからだね」
石段を軽快に上がっていく鳴海と仁科に、真文は追いつくのがやっとだった。まだ陽は高いが、木陰の模様は薄れている。
先頭に鳴海、仁科、真文と続き、森家の屋根が顔を見せた。
その時、
「なんだい、これは……」
鳴海の声が驚く。二人の背から顔を覗かせると、真文の右目も大きく開いた。
縁側の近くにあった梅の木が更に石段付近まで及び、根を引きずったように土が盛り上がっている。
それはまだしも、木は小ぶりな実をつけながらも白い花を咲かせていた。
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