明治三五年
初夏の章 飛梅~トビウメ~
壱・櫻伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿
「――ごめんください」
そろそろとゆっくり戸を開け、細い声を店の奥へと伸ばす。
しかし、目の前の帳簿台に座る華やかなその人は聴こえていないらしい。こめかみに垂れた漆黒の髪を耳に掛けなおし、眉を寄せてそろばんを打っている。ジャラっと小気味よく
「あのぅ……
「ん?」
近くまで行き、顔を覗き込んでから、ようやく鳴海が顔を上げる。あまりの近さに驚いたのか「うわっ」と小さく悲鳴をあげ、両目をぱちくり瞬かせた。
「脅かすんじゃないよ! 声くらいかけとくれ……あーもう、びっくりしたぁ」
「い、いえ、何度かお呼びかけしたのですが……
双方、あわあわとぎこちない。鳴海は壁に張り付いて真文を睨み、真文も帳簿台から三歩は下がり、おどおどと目を忙しなく泳がせた。
なんとも気まずい。沈黙が訪れればますます言葉が上手く作れず、真文は薄手の着物を握りしめてもごもごと舌を丸めた。
奥の座敷を見たところ、
「――あぁ、
察したらしい鳴海が素っ気なく言う。
「あっ、そうなのですね……はぁぁ……」
確かに仁科を訪ねて来たのだ。思わず落胆をこぼし、商品棚に目を落とす。
いないならば出直そうか。そう考えていると、帳簿台から舌打ちが聴こえてくる。
「あのねぇ、あたしだってこの店の人間なんだ。話くらいは聞けるんだよ」
「え、あ、済みません……」
苛立ちの声には思わず肩が上がる。
鳴海の視線が痛く、真文はたじろいで店の戸に背をくっつけた。
その時、急に後ろの戸が消えた。ガラリと大きく開け放たれ、そのまま体勢を崩してふらりと倒れる。
「おっ、と……大丈夫ですか、真文さん」
彼女を支えたのは仁科だった。
「ただいま戻りました……
戻るなり小言だ。クスクスと愉快に笑って真文を脇に置く。
さて、これには鳴海も黙っているはずがない。
「お前に言われたかぁないね、仁。第一、この娘ったらからかい
なんだか遠回しに罵倒されている気がする。真文はしおらしく店の隅で「済みません」と俯いた。こわごわ見ていると、鳴海の眉が不機嫌に歪んだ。
「……ほらね」
鳴海は呆れ混じりの溜息を吐いて、奥の土間へ引っ込んでいく。その様子を目だけで追いかける仁科。
「あらら。機嫌を損ねたか。真文さん、気にしなくていいですからね。あれは怒ることが趣味なのです」
彼は尚も肩を震わせ笑いながら、彼女を座敷に案内した。
「目はその後、お加減どうですか」
「あ、はい。特に変わりなく……あれからまったく変わりないので、どうにもこうにも」
「そうですか」
取り留めのない、いつもと同じ会話である。
左目はうんともすんとも言わず、動きはない。体に異変もない。それはもうあの悪夢の春から三月は過ぎているのだから、真文の心配はそろそろ薄れていた。不便なりに、生活に慣れてきているからだった。
仁科もそれ以上の追求はしないので、座敷に招かれたとしても特段することがない。雑談をするくらいだろう。
これまでは
だが、鳴海とは未だに壁があるように思えて仕方がない。真文はきつい言葉をかけられるのが苦手だ。厳しい声には萎縮してしまうから、それが鳴海の苛立ちを誘うことを分かっていてもどうにもできずにいた。
「うーん、登志世も悪気はないんですよ」
先の件について、珍しく仁科が気を配ってくれる。彼は慰めの言葉を続けた。
「ただただ恐ろしく不器用なもので。どう話したらいいのか分からないんでしょうねぇ」
「はぁ……」
しかし、それを言えば仁科だってそうだ。彼は興味のある話しかしない。惹かれない話はすぐに打ち切ってしまう。都合が悪くなったら逃げる。ごろんと畳に寝そべって、まるで猫のように眠ってしまう。
そう、猫のようなのだ。
自由気ままな彼であるから、これには真文も何度か呆れたものだった。
「いつか気兼ねなくお話しできたらいいんですけれど……」
土間の方を見ながらしおらしく言う。すると、仁科は
「無理をしなくて良いんですよ。放っておきなさい」
「え……」
手のひらを返すような言いぐさである。
この人がもう少し機転を利かせて、間に入るなどしてくれたら良いものを。しかし、反論などできるはずがない。やはり、真文は項垂れるしかなかった。
「それはそうと真文さん。何かお困りごとがあるのではないですか?」
仁科の眼鏡がキラリと光る。
真文は顔を上げて目を瞬いた。畳に手をつき、前のめりに訊く。
「どうして分かるのです?」
「なんとなーくですよ。なんとなーく」
彼は愉快そうに両手を広げて真文の前で振った。包帯を巻いた手と素の手。そのどちらかに秘密があるのだろうか。真文は目を凝らして見たが何も分からなかった。
「種も仕掛けもありませんよ。さて、一体どんなお話でしょう」
冷やかしにクスクスと笑いながら仁科が促す。真文は肩を落とし、前髪越しに仁科を見上げた。その落胆の格好に、仁科はようやく笑いを引っ込める。
やがて、真文は小さな唇を小さく動かして囁くように言った。
「怪異と言われればそうではないのかもしれませんが……えぇと、うちにある梅の木が庭を歩いたのです」
真剣な顔つきは、事を言ってしまえば段々と苦笑へ変わる。
***
森家の庭には立派な梅の木が一本、井戸の脇に立つ。その梅は毎年、
「その梅が歩いたと?」
仁科は腕を組んで訊いた。彼の眉間には少しだけシワが寄っており、真剣な表情だ。一方で、真文は自ら言っておきながら釈然としない。大したことではないと付け加えながら、おずおずと返す。
「一夜のうちに井戸よりも少しだけ離れていたのです。それがここのところ三日は続いていて。なんだか庭から出ていこうとしているみたいで」
さすがに井戸から大幅に逸れているので、真文だけでなく祖父母も異変に気づいた。
それから祖父の
これには、あの
「しかし、祖母がそれを許さないのです。毎年の梅仕事ができなくなると、珍しく頑として譲らないので祖父も困っておりまして……先生、一体どうしたら良いのでしょうか」
「うーん……」
この問に、仁科は考えるふりをしたが、決断は早かった。
やはり、
「
「あぁ……」
これには真文も「ですよね」と諦めが早い。彼の言動はきっぱりとしているので、かえって過剰な期待をかけなくていい。
「まぁ、
ぽつりと言い、それから仁科は肩を震わせて「くくく」と笑った。
「あぁ、ほら。言うじゃないですか『櫻伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿』って」
「確かに言いますね……」
仁科の引用は庭木の
櫻は枝を伐れば腐り、梅は枝を伐らねば無駄な枝がついてしまう。
しかし、今回の場合は少し事情が違う。祖父は梅の木全てを伐ってしまうつもりなのだ。
「私は伐らなくとも良いのですが……確かに奇妙ですけれど。でも、先生たちとお話しているうちに、なんと言いますか、こういった現象に」
「慣れてしまった?」
出そうとする答えを仁科がすくい取る。真文は首を縦に振った。
「そう、そうなのです! 不思議なことも日常になってしまって」
「ふぅむ。それはあまり良い傾向ではないでしょうね……」
「え」
仁科の真面目ぶった言い方に、真文はたちまち困惑の色を浮かべた。
見上げると、彼は顎に手を当てていかにも深刻そうに眉をひそめている。
「あまり干渉すると、
「先生……」
真文は顔をしかめた。
「そう笑いながら
「おや、顔が変でしたか。おかしいですね」
とぼけた口ぶりで仁科は言う。説得力が皆無である。
「はぁ……」
思わず溜息をこぼした。またからかわれたのだ。しかし、なかなか怒れる性分ではないので、やはり溜息で消化しておく。
対し、仁科はあっけらかんと表情を崩していた。締まりのない笑みである。
「しかし、真文さんはとにかく木と縁があるようで。何か因縁めいたものがありますねぇ」
「えぇっと、櫻ですか……」
すかさず言うと、彼は「はい」とはっきり。傷をえぐるような物言いをされれば落ち込むしかない。
「なんにせよ、梅の木が何故歩いたかは判りませんが、そもそも木には精霊が宿るものです。おそらくは精霊のイタズラなのかもしれませんね。特に梅は神の遣いですから」
「精霊に神の遣い? そうなのですか」
「はい」
答えて、仁科は「言い伝えでは」と隙きを見せずに続ける。
「どうやら、昔にとある神が大事に愛でていたのが梅だそうで。その神は無実の罪によって、どこぞの辺境に飛ばされたのです。その後を梅の花が追いかけたという話があります」
「ほぉ……」
真文は感心の声を上げた。神の後を追いかけて梅が飛ぶ姿を想像する……白く儚げな花が風に乗って舞う光景。
まるで、
「花が情を持っているようですね」
ぽつりと呟き、彼女は庭の梅木を思い出す。
――あぁ、そうか。
だから、木が歩いたのだろう。
あの梅はどうしても伐られたくないのだ。
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