伍・仁科の本領

 同刻。

 真文は目を瞠った。店の戸を覗けども、中は真っ暗で何も見えなかった。それどころか物がない。カラの箱のようだと真文はすぐに気がついた。

「あの……鳴海さん……?」

 背後にいるであろう信頼の相手を呼ぶも返事はない。真文は頬に伝う冷や汗と胸を穿つ動悸に不穏を抱いた。ゆっくりと首を回す。

 黒い人影があった。黒に塗られた人。型抜きされたような黒い人。

 それが腕を振り上げた。細く長い刀が振り下ろされる。真文は咄嗟に後ろへ仰け反り、三和土に尻を打ち付けた。

 振り下ろされた刀は戸を乱暴に斬りつける。そして、仕留め損なった真文にもう一度刀を振り上げる。

 ――逃げなくては。

 脳裏に浮かんだ言葉。その時、真文の体から何かが飛び出すように戸へと浮遊した。透き通った何かを右目で捉えればそれは同じ年頃の娘であると気がついた。その背を追うように真文は両の足を奮い立たせ、黒の脇をすり抜ける。外へと飛び込んだ。そのまま無我夢中で走る。

 走る。走る。つまづいても地を這うように橙の道を走る。

 橙の灯り――灯籠であることに気づき、見知った吹山村ではないことが分かった。橙の灯りが等間隔に並び、道を照らしている。空はぬったりと墨を塗ったような黒。

 ここは櫻並木の道である。どこまでも続く櫻道を駆け抜ける。

 真文は息を吐きながら背後を振り返った。黒の影は緩やかな速度で蠢いている。確実にこちらへ向かってきている。

 ――早く……早く……!

 脳裏を過る声は忙しない。それは真文と同じく息を切らしているようだった。ふわりと浮かぶ透けた少女は腹を抑えながら櫻の道へと消えていく。

 彼女は一体誰なのか……その答えは頭にあってもはっきりとは決められない。

 干上がった喉の痛みからか嗚咽が飛び出し、真っ白な息が止めどなく口から漏れ出ていくのを見ながら胸を抑えて咳き込む。そして後ろを振り返った。

「っ……!」

 黒の影がすぐ後ろまで来ていた。

『逃ゲラレルトデモ思ッタカ』

 低い獣のような唸りがそう言った。耳の穴から脳へと響き渡る。

 真文は腹の辺りで鋭く冷たいものを感じた。

 自身の体を貫く、その刃を見た。

 薄紅の着物がいつの間にか濃い小豆色に変わっていて自身が何者であるか見失ってしまう。

 刃が突き刺さったまま彼女はよろめいて後ずさった。黒の影はもう追っては来なかい。ただじっとこちらを見続けているだけ。

 彼女は櫻の道を一歩ずつ踏みしめた。ずるずると体を引きずってでも道の先へ行かなければならない。そうしなければいけない。逃げるためだけではない。

 その一心で向かえば、一つ早咲きの櫻が目に映った。

「あぁ……あの櫻だわ……あれが、あれこそが、あの人との約束の……」

 想いが血と共に溢れ出し、流れ落ちていく。赤い道は灯籠の灯りに煌めいている。

 早咲きの櫻は白い綿雪のような花弁を散らせて彼女の体を包んだ。櫻幹に結ばれている文が目に留まる。意識は朦朧としていた。瞼を閉じてしまえば、そのまま深く寝入ってしまいそうなくらい。

 腕を伸ばすも腹に突き刺さった刃のせいで思うように手が届かない。彼女は木にもたれかかり、か細い息を吐いた。

 まだ死ぬわけにはいかない。まだ死にたくない。それなのに……


 ――……


 目を閉じてしまうと、そこに景色は跡形もなくなってしまった。

 真文は自身が仰向けになっていることに気がついた。身動きできず、目を開こうにも瞼を動かせない。自分は死んでしまったのだろうか。そんな錯覚すら覚える。

 いや錯覚ではない。本当に死んでしまったのだろう。何が起きているのかも分からない。

 ただ、今しがたに「視た」ものが櫻幹に宿った女の記憶であることは理解していた。櫻が見せた記憶だ。

 彼女の想いと募る恨みが混沌の色を作り出し、それが真文の中で疼く。殺された彼女のために泣くことも叶わない。それがとても歯がゆく、深い悲しみとなっていく。気持ちの揺らぎが漂う何かと同じように定まらない。高くなり、低くなり……ここはまるで広い水面のよう。

 そうか。ここは水面だ。ゆったりと揺蕩う波の中だ。



 *


 *


 *


 仁科の蒼白な顔には柄にもなく悔みと困惑が揃っていた。そんな彼を前に鳴海は平静でいようと努める。

「ほっほう……何やら慌ただしや。私はどうしましょうかねぇ、姐さん」

 状況を悟ったのか羅宇屋が問う。

「あぁ、助かったよ。聞きたいことは全部聞いたさ。また頼んだよ」

 素っ気なく言えば羅宇屋は「やれやれ」と呆れた風に肩を落とした。それから黙ったままの仁科を見やり、深々と頭を下げる。

「旦那。お久しゅうございます。しかし積もる話はまたいずれ……ではでは、これにて失礼」

 階段箪笥を背負うと、羅宇屋はたちまち風の渦に紛れて消え去った。それを見送った後、鳴海は神妙な顔つきで仁科を手招く。

「……見たほうが早い」

 そう固い声で言い、座敷の奥へ向かう。彼らの足取りは重く、歩が進むにつれて緊張が増した。

 何から言えば良いか互いに見当たらない。ともかく今は現状を見せるしかないだろう。話はそれからだ。

 襖を開ければ目に飛び込んできたのは狐火だった。白く燃えるそれは細かな火の粉を吹き、宙を漂っている。

 その真下。畳に敷かれた布団の上にはいた。

「……連絡をした、その日だよ。見つけたときにはもうこの状態だった」

 仰向けで静かに眠る真文。彼女の両目は固く閉じられ、忌まわしい傷跡がある左目からは鮮血が流れている。

 仁科は息を止めているようだった。呆然と立ち尽くしている。それを目にしてしまえば、鳴海も拳を固く握りしめる。

「魂をごっそり持ってかれた。中星が真文に忠告したその後……帰り道だった。それで……この状態さ」

 息を吐き出すように言えども湧き上がる悔みまでは取り出せない。仁科はその場にゆるゆると座り込んだ。膝を立てて項垂れる。

「……聞いてはいたけど、それでも……あぁ……なんだか、頭が真っ白だ」

 彼は短く笑った。その小さな音は脱力のあまりに渇ききっている。それまで張り詰めていたものが一斉に引いていった。喪失が天井から降りてくるようで重苦しい。

 その重さに耐えきれず、鳴海は苛立ち紛れについ口を開いた。

「あんたがそんなでどうすんだ。こちとら寝ずに鯰の正体を探っていたというのに」

「いざ目の当たりにすれば、そりゃ気落ちしますよ……」

 仁科の声は擦り切れたように小さなものだった。

 空気が冷え切っていく。沈黙。ただただ静かな時間が流れる。

 どんなに願っても目の前の少女は眠りから覚めることはない。寝息でさえ聴こえない。

 彼女は今、カラなのだ。器だけの存在であり、そこに在って居ない。体だけを置き去りに、どこかへ姿を消している。

 ふと仁科が宙へと目を向けた。白い炎が光を放っている。

「――あれは中星様の狐火ですね。あの方にも何かあったんですか」

 何を思ったのか、仁科はそんな風に問いかけてきた。鳴海は眉を顰めた。

「冬が来てから体調がすぐれないんだと」

「ふうん……」

「……それ、あんたの寿命とやらのせいじゃないのかい」

 皮肉っぽく言えば仁科はそれに対し「さぁね」と素っ気ない。引いてしまった潮が満ちるように、鬱々とした気が仁科から漂う。そのせいか隣に立つだけでも肌が粟立ち、鳴海は思わず腕をさすった。

「――真文さんを探そう」

 仁科はポツリと言った。

 もちろんそのつもりだ。真文の体は

 それは左目に宿る櫻が繋いだものだろう。あの忌まわしい化物が保っているのだ。彼女がただの依代よりしろとして生かされているのだとしても。

「そのためにはまず鯰だ」

 仁科は一つ一つ確かめるように言った。

「鯰が襲ったということは間違いないんでしょう?」

「あぁ……ただ、羅宇屋が言うには鯰男は姿を見せない。それに頭が固いから話し合いには向かないと」

「ふうん……」

 仁科は畳を踏みしめて、ゆらりと立ち上がった。

「だったら力ずくでやるまで」

「それだとまたこの村が災厄に見舞われる……何か策はあるのかい」

 あまり大事にはしたくないが真文の生死に関わること。大事な人をタダでくれてやるわけにはいかない。

 鳴海の問いに仁科は眼鏡の奥にある瞳をギラリと光らせた。


 六畳間に仁科、鳴海、彩﨑が輪となって座る。仁科は雑書の中身をじっと見つめていた。

「……今夜にしよう」

 読み終えたのか雑書をパタンと閉じ、仁科が切り出す。

「おそらく鯰は彼女の左目を探している。その目は猫乃手ここにある。厄除けのまじないがしてあるので、ここは絶対に見つからないようになっています。それを解きましょう」

 呪いを解けば悪しきものに視えないこの店はたちまち姿を現すだろう。

「要は向こうから来てもらうんです。それから話をし、帰ってもらいます」

「話が通じる相手じゃあないらしいが」

 すぐさま鳴海が渋い顔で言った。彩﨑も眉を寄せているが黙っている。仁科は思案げに唸りながら頭を掻いた。

「そこなんですが……どこまで話が通じないのかというのがまったく判らない。相手のことが測れない。ここは穏便に済ませたいところです。ただ鯰の怒りに触れた場合は、二人にお任せしたいことがあります」

 仁科は雑書の背を畳に打ち付けながら言った。とん、とん、と一定の間隔で鳴る。それはなんだか屋根に落ちる雨粒の音に似ていた。

「鯰がどう怒るかは判らない。でも、村を揺るがす災いを起こすはずです。村への被害は抑えたい。彩﨑さんは念のため村の麓側に住む人たちを東の方へ集めてください」

 前髪の隙間から仁科は彩﨑を見た。彼は寄せていた眉を緩めてすぐさま頷く。

「分かりました」

「お願いします……鳴海、お前は真文さんのところに居てください。それだけでいい。鯰を奥の部屋には絶対に通さないこと。よろしく頼みます」

 彩﨑に向けていた目を鳴海へと移す。その目に応えるよう、鳴海は頷いた。そして一息入れて訊ねる。

「仁はどうするんだ」

 もしもの場合、鯰の怒りをどう最小限に留めるのか。見当もつかない鳴海と彩﨑は仁科の答えを待った。

 とん、とん、とん……古書の背を打ち付けながら彼はしばし考えあぐねる。そして、音を立てなくなったその時に彼の口は開かれた。横へと伸びて。

「話をして、それでも駄目なら向こうが事を起こす前に私が

 彼はそう言うと雑書を輪の真ん中へ放った。その答えに鳴海は呆れたように息を吐いた。一方、彩﨑は怪訝に顔をしかめた。

「壊す……とは?」

「壊したと見せかけるんです。壊すものがなければ、どうにもいかないでしょう? 騙すんですよ、鯰を」

 さて、この策が上手くいくのか。

 彩﨑はもう「仁科くんが言うなら」と異議はないようで、鳴海は不安を抱きつつもここは賭けてみるしかないと深い溜息をついた。


 ***


 仁科は陽が落ちたと同時に店の周りに張っていた結界や呪いを解いた。

 手筈通りに準備を重ねた。あとは鯰が来ることを待つのみ。

 鳴海は真文のいる部屋にこもっている。中星の狐火は厄除けには最適だ。いくらかは護りになるだろう。

 仁科は店の上がり框で、短刀を握り締めて座っていた。

 夜が来る。

 地を這う音が忍びもせずに向かってくる。

 近づいてくる。

 ペタリ、ペタリ。粘着質な足音。それが耳に届いた。確実に店の前へと来ている。

 仁科は持っていた短刀を帯に差し、立ち上がった。

《ゴメンクダサイ》

 戸の前に大きな風船のような影が視える。

《娘サン ヲ 貰イ受ケニ 来マシタ》

 ゴボゴボと水を含んだような音が言葉を作り出している。

 影を睨む仁科は大きく息を吸い、吐き出すと店の戸を開け放った。

「――どうも。いらっしゃいませ、霊媒堂 猫乃手へようこそ」

 彼は和やかな声音で、それを招き入れた。

 大きく膨らんだ扁平顔。それは確かに鯰そのものである。

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