肆・万全の帰還

 石段を降りると、真文は地を叩くように川を横切った。猫乃手へはその道しかない。川沿いをひた走る。その流れに沿って芽吹いた草花を踏みつけて走った。

 冷たい空気が肺に入り込み、氷のように冷たい。渇く。喉が干上がるように渇いていく。

 言い知れぬ焦燥で脳内は怯えに支配されていた。底のない沼へ徐々に引きずられていくような感覚だった。

 何に怯えているかも分からず、ひたすら川沿いを走る。橋まで行くのがこれほど遠いとは。焦れた足はやがて土手を滑り降りた。陽の影となった濃い黒の川に躊躇なく足を突っ込んでいく。

 腰が浸かるまでの深さで、真文は懸命に川底の石を蹴りながら進んだ。水が跳ねるのもいとわず無我夢中で川を渡った。震えは水のせいではないと分かっていた。

「真文っ!」

 川岸から緊迫した鋭い声が響く。顔を上げると見えたのは鮮やかな紫の着物――鳴海が息を切らしてこちらを見ていた。

「何をやってんだい、あんた」

 言いながら彼は急ぐように岸から滑り降りて真文の元へと向かってくる。冷えきった肩を掴まれるとその温もりが感じられ、ようやく震えは治まった。

「な、鳴海さん……私っ……私……」

「あぁもう、いいから早く上がるよ。おいで」

 促されるまま元来た川岸へと這い上がる。草が茂る川岸に二人はゆるゆると座り込んだ。

「どうしたのさ、真文。自ら川に飛び込もうなんて馬鹿な真似を」

 息を吐き出し、鳴海は静かに問う。一方、真文は川面を見つめて放心していた。

 自分でもどうしてこんなことをしたのか分からない。ただ――

「ただ、怖かった、だけです……鳴海さん、私、あの……どうしてしまったんでしょう。物凄く、言いようのない、恐怖に襲われて、それで……」

 辿々しくも口はひっきりなしに恐怖を訴える。真文は寒さを凌ぐように腕を抱いた。

「怖かったんです。何者かに見られているような……あの、そうです。右吉さんたちと別れて、その時に私、見てしまったんです」

「見たって何を」

「黒い、影です……影が見えて……それは、きっと、鯰だと……」

 目の端を横切る黒にはっきりとした確信はない。だが全身を駆け抜ける焦燥は本能的に感じるおそれだろう。

 真文は息を吸った。まだ寒さは残るものの春の訪れは既にある。冬よりも柔らかな夜風を吸い込めば、いくらか胸の動悸は落ち着いた。

 一方、鳴海の顔色は悪かった。陽が落ちかけているとはいえ、その表情には翳りが見える。憔悴したように彼は目を瞑った。

「――お願いだから、もう二度と川に入ろうなんてしないでくれよ。でなきゃ奴の思うツボだ。いいかい、真文。絶対にもうこんなことはしないで」

 真文は目を瞠った。その心配を受け止めるようしきりに頷き、改めて心に決めた。

「ごめんなさい、鳴海さん」

「いや、分かってくれればいいんだよ。あたしだけじゃ、やっぱりどうにも……」

 そうしおらしく言うと鳴海は着物の裾を絞って立ち上がった。水がぼたぼたと落ち、草を濡らしていく。

「帰ろうか、真文」

「はい……」

 差し伸べられた手を取り、真文はふと鳴海を見上げた。

 何か違和感を覚える。

「あの、鳴海さん……」

「ん?」

「お店から出てよろしかったのでしょうか」

 違和感の正体はこれだと気付いた。問えば彼は何も言わずにいる。気が動転していたからか鳴海の反応は悪い。

「だって、仁科先生がまだお帰りになっては……」

 仁科がいないのに、どうして鳴海が外を出歩いているのか。その答えは一つしかない。

「先生、戻られたのですか?」

 問えば鳴海は真文を引っ張り上げながら「あぁ」と返した。

「ついさっき、戻ったばかりだよ」

「そうなのですね! あぁ、良かったわ……」

 聞くなり真文は着物についた泥も払わず、喜びに胸を弾ませた。それだけで安心感が一気に全身を渡る。

「いやいや。あいつ、帰ってくるなり部屋で寝転がってさ……まったく、だらしがない人でなしの碌でなしだよ」

 鳴海もようやく調子を取り戻したのか、いつもの小言が出て来る。しかし真文の綻んだ顔を見てか、鳴海も口元を緩めた。

「会ってくかい?」

「えぇ、是非! 待ちわびていたのです!」

 食い気味に言えば鳴海は呆れたように笑う。

 そして、今や夕焼けも薄れた藤色の空を見上げると彼は「それじゃあ、おいで」と


 ***


 仁科の帰還はその日の昼前である。

 二月十八日、早朝。

 寒さを凌ぎながら、あの雑書を読み耽っていればついに櫻と鯰の因果を見つけたもので、鳴海は「ふぅむ」と唸りながら思案に暮れていた。

「要するに鯰男は櫻幹の女を憐れみ、大地震を起こしたんだとあたしは思うのさ」

 帳簿台で頬杖をつき、上がり框に腰掛けている彩﨑へ言う。

「櫻幹の女、つまりは水土里町にある見世の娘ですね。むごい死に方をしたから、それを見つけて弔ったと」

「そういうこと。この鯰はどうも女にゃ優しい奴のようだから、情でも湧いたんだろう。確かに酷いよ、櫻幹の話は。さぞ無念だったろうさ……恨みというのは禍根を残すんだ。悪いものには悪いものを呼び寄せてしまう。だから、その無念を吸い取った鯰は女の怨念を晴らすために村を祟ったんだろうよ」

 出した結論はこれだった。同時に昨年の夏を思い出す。

 水土里町の遊郭にて起きた呪いの蟲騒動――あれも悪いものが呼び寄せた怪異だった。あれを野放しにしていれば、櫻幹同様の惨事となっていただろう。他にも恨みつらみに引き寄せられた怪異はいくつもある。

「悪いものには悪いものを呼び寄せる……成る程。僕の時もそうだったわけだ」

 真であるかは別として、その考察と自身を関連付けたのか彩﨑も納得していた。含むように頷くと、彼は何か思い立ったのか「あっ」と手を打つ。

「そうだ。昨日、ようやく村長から話を聞いたんですがね。この大地震以降、ここ百年はそういった災いは起きていないそうなんです。櫻幹の祟りという話が広まったのもそれ以降のようで、鳴海さんの言うようにこの二つは関係の深いものであるのだと」

 しかし、と彩﨑は続ける。

「櫻幹による災いは、あの真文ちゃんの件より以前にはんです。細々とした喧嘩や不審死、怪異はあったものの、村長曰く祟りが起きたのは百年前と一昨年の冬のみ。やはり、ここ百年は櫻も鯰も眠っていたはずなんですよ」

 確かに、祟りやら戒めやら話は聞いていたものの実際に櫻の怪異に遭ったという話はない。

 鳴海は渋面をつくり、雑書を閉じて立ち上がった。

「誰が怪異の眠りを目覚めさせたのか……」

 その見当はついている。確信はあった。それでも鳴海は言葉に出来ず、帳簿台から座敷へ移ると煙管を手に取る。そして、詰めっぱなしだった刻み煙草に顔をしかめた。

「……まぁ、確信を断定させるには憶測を言い合っても駄目だね。だから、こいつを呼んで決めよう」

 カンッと雁首を盆に打ち付けた。その時。

「――お久しゅうございますなぁ。またも部屋で呼びつけるとはどういう了見ですかい」

 あたかもそこにいたかのごとく菅笠すげがさが話した。子供より一回り小さい何者かが畳に座っている。上がり框にいた彩﨑は「へぇ」と小さく、驚きのない声でそれをしげしげと眺めた。

「しばらくぶりだねぇ、羅宇屋よ」

「客人がいる時に呼びつけるもんじゃないでしょう、姐さん」

 翁の面をつけた黒装束の羅宇屋は肩に掛けた出前用の階段箪笥を畳に降ろしながら呆れ声で言う。菅笠を取り、彩﨑をちらりと見て小さく会釈した。彩﨑も笑みを返す。その落ち着き払った態度が面白くなかったのか、羅宇屋は「うむぅ」と小さく呻いた。

「……さて、お呼びなすったのはどういったご用で」

「あぁ今日は羅宇の取り替えはないんだ。あれからまだそんなに傷んでもないからね」

「はぁ……なんだ」

 生業とする羅宇の取替ではないことに羅宇屋はさらに気落ちしていく。

「まぁ、そう落ち込まんでくれよ。またそのうち呼ぶから」

何時いつになるやらですなぁ……して、どういったご用で」

 とうとう拗ねた口調で羅宇屋が訊く。

 鳴海は苦笑を浮かべ、煙管を蒸かしながら話し始めた。

「ある娘を助けたいんだがね。あんた、知ってるかい? この辺りの川に棲む鯰のこと」

「そりゃあ勿論。偏屈で頭の固い川のヌシですな。全身は柔らかでブヨブヨ、さらにヌメヌメとしているくせに頭だけは固い。それに貪欲ですから、妖だろうと人だろうとあれこれ喰っていたようで。雑食とでも言うんでしょうかねぇ」

 あの雑書通りの証言が妖の羅宇屋からも飛び出した。鳴海は紫煙をくゆらせながら、彩﨑は息を潜めるように黙って聞き入る。

「ただ、動きはそう軽くないんですわ。腹が減ったら川から出て娘をさらう、なんてくらいです。そして喰ったら眠る。次に起きる時は百年経った頃だか」

「それは、なんだろう……きっかり百年眠るってことなのかい」

「周期的な生活とでも言うんでしょうか」

 鳴海と彩﨑は同時に言い合った。それを交互に見つめ、羅宇屋は「ふぅむ」と不思議がる。

「私らはあまり時を気にしない質ですからな、とくに気にしたことなんかありやせん。まぁ、言われれば周期が決まっているような」

 時の流れが人よりも鈍感な生き物であるから百年という年月の長さにも大して思うことはないらしい。はっきりとはしないが百年単位であるのだと考えても良いだろう。

「ちなみに腹が空けば起きるわけで、起こすことは出来ないのかい」

 問えば羅宇屋は「はぁ」と気乗りしない声を浮かべた。

「出来ますよ。ただ無理に起こせば、あの主は大地を震わせますからオススメはしやせんがね。後は主の機嫌次第。何せ頭が固いお方ですから、気に入らないことがあれば聞きやしない。のらりくらりと姿すら見せない。到底、話し合いには向かないでしょうな」

「……こりゃ骨が折れそうだねぇ」

 鳴海は腕を組み、煙を吐き出した。確かにこれまで姿が見えないから調べに手間取っているのだ。

「鳴海さんは交渉に不向きですからね……やはり、仁科くんの帰りを待って鯰に会うしか手はないでしょう」

 彩﨑も投げやりに言う始末だ。二人は同時に肩を落とした。

「ふぅむ……こりゃまた一体、何があったんで?」

 話が見えない羅宇屋がとうとう訊いた。

 脱力した二人は顔を見合わせる。鳴海は重たくなった口を開きながら雁首を盆の縁に軽く叩きつけた。

「櫻幹の怪異を持つ娘が鯰に狙われたんだよ」

「ほぉ……あの櫻幹。あれは恨みが染み込んだ恐ろしい化物ですからねぇ、妖ものは好かない筈ですが」

「仁もそう言っていたがね……だが、件の鯰があの櫻を大事にしていたんだと、ここにあるんだ。情報のお代はこれと交換でどうだい」

 鳴海は持っていた雑書を羅宇屋に渡した。

 自身の顔よりも大きな雑書を開き、畳に広げて羅宇屋はペラリペラリと紙をめくった。

「……ほっほぅ。こんな秘密があの川と櫻にあったとは。因果というのはつくづく不思議なものですなぁ」

「あんたでも知らないことがあったとはね」

 雑書を読む羅宇屋はしきりに唸っていた。そして、パタリと閉じると鳴海に返却する。

「知らぬことだってありますとも。いやはや、この話はいつか良い品に変わるでしょうよ。まぁ何時になるやらですが……その頃には現し世も見違えるほど奇妙なつくりになっているやもしれませんねぇ」

「何時になるだろうね……その頃にはあたしはもう居ないだろうけれど」

「違いないでしょうな」

 時代が幾つか変わっても、この羅宇屋だけは変わらないような気がした。人と妖の全てを探ろうと流浪に生きる風のような妖である。

 ――では、百年前の災いも見ていたのではないか。

 鳴海は煙を吸いながらそう考えた。改めて櫻幹を思い出す。遊女ではないとも言われるが果たして――

「……時に羅宇屋。あんた、水土里町の花街にいる禿かむろ雲英きらって分かるかい?」

 唐突に脈絡ない問いを投げかけるも羅宇屋は動じずこくりと頷いた。

「えぇ、えぇ、存じておりますよ」

「あれはずっとあそこにいるのかい」

「居ますねぇ……あぁ、そう言えば櫻の化物となった女の世話もしていたような。あれ以来、あの童は見世に執着するように。何せ櫻の女が殺されるに至った見世でしたからねぇ。当時は旅籠でしたが、遊郭となんら変わらないもので。昔からああいう見世でした」

 これで確信は断定となった。

 黴雨の山彦、夏の蟲、そして秋に姿を表したあの憎き幻影師――これよりも以前に影はあったのだ。

 影狼は妖に干渉し力を与える。仁科の目を奪い、鳴海に与えたのと同じように眠っていた櫻に力を与え、目覚めさせた。

 これを知ってか知らずか今まで逃げ腰だった仁科が急に「影狼を始末する」と言い出した。

 自身の寿命もだが、真文の呪いを完全に絶ち切るには影狼の抹殺が必要なのだと判断したのだろう。呪いの根源が影狼であるならば避けては通れぬ道である。

「姐さん、そう怖い顔しなさんな。折角の美人が台無しだ」

「煩い、黙れ。事態はかなり深刻なんだよ……思ったよりも厄介で参るね、まったく」

 羅宇屋の軽口を苛々とあしらう。その時、ガラリと戸が開く音が慌ただしく鳴った。

 上がり框にいた彩﨑がすぐさま立ち上がる。寒風が部屋中に行き渡り、全員が身震いした。そこに立つのは痩身の男。

「――ただいま戻りました。話をお聞かせ願えますかね、詳しく」

 柔らかな猫毛の髪をなびかせ、肩で息をしているところ大慌てで帰ってきたのだろう。

 猫乃手店主、ようやくの帰還だ。

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