参・弱り目に祟り目
「いずれは話せなばなるまいと考えていたさ。だが、その機会が得られずにいた……今がその時なのだろう」
そんな前置きをし、岩蕗はゆったりと思いを馳せるように沈黙した。
間を過ごすのは重苦しく、むず痒く、苦手である。それでも仁科は辛抱強く岩蕗の言葉を待った。
たゆんだ瞼と頬は以前のような厳格さがなく、どこか遠のくような憂いのある面持ちだ。そんなかつての師――憎みつつもその背を越えようと羨んだ岩蕗の意外な一面にやるせなさを感じた。
「……てっきりお前は覚えているもんだと思っていたんだよ。しかし、お前があの
岩蕗は不器用に語りだした。彼自身もまた、記憶の糸をたぐるようで話は遅々とする。
「そうだ、そうだった。あんな風に怯えるなんてのは、もうとっくに忘れたはずなのにな。お前は俺のことを知らないのだと悟った」
淡々というには少々薄情であるのやもしれない。しかし、形なき情を汲み取るのが難しい仁科には岩蕗の言う「怯え」の意味が解せなかった。
岩蕗の声は確かに弱々しい。今まで言い出せずにいたということは理解出来る。ただ、その要らぬ遠慮が煩わしい。もったりと温い塊を喉に押し込むような鬱陶しさを感じた。
それでも茶々を入れるような無粋な真似は出来ない。
岩蕗は唸り、固唾を飲み、再び口を開いた。
「お前がまだ権堂家で暮らす前……お前が山の中で妖を食らっていた時代、お前を見つけたのは俺だ」
一つ呼吸をする。それはお互いにだった。
「その時にお前が持ち歩いていたのがこの短刀。刃こぼれした使えねえもんだと思っちゃいたが、それもそのはず。人を斬るものじゃなく妖を斬るための道具だったんだからな。気づいた時、俺はお前を預かることを決めた」
息を吐く。長く、休むように。
「だから、しばらくはこの家で暮らしていたんだよ。覚えてないだろうが」
「――あぁ、どうりで……懐かしい匂いがすると思ったんです」
素直に口に出せば岩蕗は僅かに眉を上げた。「そうか」と小さく感慨深げに呟きながら。
仁科は組んだ指を弄ぶ。もう幾日も切っていない前髪の隙間から岩蕗の様子を窺うように見ては意味もなく息を吸う。
会話はやはり苦手だ。間を持たすのがとにかく不得意だ。話したいことは幾らかあれど、上手くまとめられない。それは岩蕗も同じであり、口下手が二つ揃ってしまえば話の運びは特段に悪かった。
仁科は鼻の頭を掻き、再び息を吸った。
「……岩蕗さんは」
聞いても良いだろうか。探るように重たい口を開く。
「私が何で出来ているか、その時にはもう知っていたんですか?」
「いいや」
渋面が固く険しくなる。眉尻が上に向き、眉間には皺が増えていく。
「知っていたら権堂の家になんか預けるものか。あれは俺の最大の過ちだ」
不機嫌にもきっぱりと毅然な岩蕗の声に仁科は目を丸くした。
「過ちですか」
「あぁ。お前が散々な目に遭ってたのは後で知った。お前が何で出来ているかも後で知った。この世になくてはならん形なきもの……あの影狼と両極である気でも言うのか。そういうのの塊であるのだと後で知った」
だがな、と息もつかずに続ける。
「それがどうしたと言う。そんなものである前に、お前は人だろう? お前が化け物だったならば俺はあの時、影狼と同じくお前を殺してるはずだ……しょうもないことを訊くな」
岩蕗は仁科を睨んだ。その強い視線に目を泳がせてしまう。やがて得体の知れない温いものを感じた。
微笑を悟られまいと仁科は前髪に顔を隠す。そんな仕草も岩蕗は気がつかなかったらしく、腕を組み替えて静かに言った。
「俺はいつでも事が済んだ時に知る。お前のことも登志世のことも……なあ、仁。どうだ、人はこんなにも愚かで鈍い。人間ってのは複雑怪奇だろう? 単純なだけではままならんことも山とある。それなのに六十年かそこらで力尽きる弱っちい生き物だ」
「………」
「そんなものになりたがったんじゃないか、お前は。どうしてこんなものになりたがるのかは知らんが……ここまで生きてみたお前は、その辺りどう考える?」
問われれば答えるしかない。仁科はわずかに目線を上げ、顎に手を当てて唸る。
今までの己であれば妙に達観し、心にもない言葉を吐いただろう。だが今は違う。
岩蕗の手を自ら切り、あの村へ流れ着いた。そこで見たものと触れたもののせいで自己を形成した濃度の高い物体が薄れてしまったのだ。
獰猛な獣でもなく自我のない概念でもなく妖喰らいの化物でもなく『仁科仁』としての答えを探す。
時間を要してしまうくらいの難問だ。それを目の前の師はいとも簡単に──いや無数の時を費やして導き出したのだろうか。
――やっぱり敵わない。
仁科は力を抜き、背を丸めた。
「……もう少し知りたいと思います。知ってからまた答えを出します」
「そうか」
粗末な答えにも岩蕗は満足げに笑った。渋面が和らいでしまったので仁科も溜めた鬱屈を吐き出すように苦笑する。
「しかし、昔なら考えられないような真面目な話をしますね」
「そうだな。お前がそもそも真面目に話を聞かねぇから」
「それは岩蕗さんがすぐ怒鳴るから。何度ぶん殴られたか分からない」
「お前が聞き分けないからだろうが。その減らず口、いつか縫い付けてやるからな」
畳に拳がドンと落ちる。キリのない応酬に仁科は未だ笑っていたが、もう口出しはするまいと黙った。
岩蕗は繕うように大きく咳払いしながら膝を立てると、仏壇の引き出しを開けた。
「……ともかくお前の話はこれで終いだ。短刀は返す。今のお前ならこいつをむやみやたらに振り回すこともなかろうしな」
取り出された筒状の重い棒。それが押し付けられるように仁科の手へと渡る。岩蕗はまた目の前に座り込むと軽口を叩いた。
「こいつのおかげでいい仕事が出来たよ」
「勝手に人のもの使っておいて……まぁ、いいですけど……しかし光輝に渡さなくて良かったんですか?」
わざとそんな言い方をしてみると、岩蕗は「あぁ、その手もあったな」と本当に思いつかなかったらしく感心の声を上げた。
「まぁ、いつかお前から渡せばいいさ。光輝にはまだ早い」
「ふーん……分かりました。その時がきたらそうしましょう」
短刀を左右に引っ張れば錆と曲がった刃が現れる。切れ味の悪そうな濁った鉄色を眺め、すぐに戻した。
「しかし、またなんで
おそらく腑に落ちていなかったのだろう。岩蕗の不審な声に仁科は逡巡するフリをした。命が残りわずかだということは伏せておきたい。すると咄嗟に浮かんだのは真文だった。
「彼女の目を、治さないといけませんからね。そのためには断裁に特化したものではないと」
「ふうん……そうかい」
訝しむような目から顔を逸らす。岩蕗はもう何も聞いてはこなかった。
口の滑りも良くなってきた頃合いだが、その間を割るように仁科の腰に提げていた鈴がガランと音を立てた。鳴海が緊急を知らせている。
***
逃げる二月とは言うものの寒波は懲りずに停滞している。そろそろ雪も溶けていたのだが未だ止まない降雪に凍える寒さだった。
霊媒堂猫乃手はストーブに頼りきりである。そんな寒風を凌ぐように鳴海は
眠れないのならば思考する他ない。つい先日、彩﨑から鯰についての確かな情報を得たので黙りこくっては面を険しくさせていた。
「やはり村長の家にありましたよ。百年前の雑書が。これに鯰男の話があります」
そうやって手渡されたのは古く黄ばんだ和紙。それが麻の紐で縛られてあり、ところどころに汚れが染み付いている。中身がえらく達筆で読むのにひと苦労だった。
ここのところ鳴海は帳簿台に座っては一心不乱に雑書を読み耽っている。外に出られないからやることも限られているわけで、この古書とじっと睨み合っているのだ。そんな鳴海の邪魔にならぬよう
「お早うございます」
声と同時に店の戸がガラリと開いた。
「あぁ、お早う。川の様子はどうだった?」
二言目にはそれである。この頃の口癖となっていた。
「今日も変わらず穏やかでしたよ。まだ櫻は咲きそうにないですが……鯰らしきものも見ておりません」
「そうかい……まぁ何にせよ気をつけないとね……」
言いながら読み物の中へと戻っていく。
百年前の記述には大地震とその予兆、ありとあらゆる怪談や人々の証言が雑多に並んでいるが、どれも似通った文が連なっているので読み解くのにもそろそろ飽きが来ていた。
「鳴海さん、少しは休まれた方がいいですよ」
目の前に湯呑みが置かれるまで鳴海はその言葉にすら気が付かなかった。
「え? 馬鹿言わないどくれ。悠長なことをしてられないんだから。真文を助けないと」
「それもそうでしょうが……」
雑書に目を離さずに湯呑みを探り当てる。文字を追いかけながらも熱い茶を啜る。全身に渡る暖かさに思わず息を吐いた。
「はぁ……やれやれ」
気が滅入ってくる。しかし、仁科が帰るまでには鯰の正体を探っておいたほうが手間はいくらか省けるだろう。鳴海は首を回すと眉間を揉みながら雑書に向き合った。
次の紙をめくる。
「……ん?」
思わず目を滑らせていたが唐突に「櫻」の文字を見つけた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この鯰男は鯰川に棲むヌシであり、若い娘を欲する貪欲な妖ものである。長い眠りから覚めたヌシは村へと這い上がり、その日も娘を探していた。
だが、見つけたのは櫻の木の下で血と臓物を垂れ流した女であった。腹の破れた皮から何か細長いものが伸びていたという。女は破れた腹を抑え、
これを見つけたヌシは女の生気を喰らい、それでも尚執着する女の弔いのため櫻幹に女の髪を結んでおいた。
女は東の
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「怒り……?」
櫻と鯰の因果はここなのだろうか。しかし、断定するには不明瞭である。
鳴海は逸る気持ちを抑え、もう一度頭から読み込んだ。
***
日の流れに従って、真文は昼を過ぎれば家路へと向かう。彩﨑や狐らが頻繁に猫乃手を訪れては真文を丘の上まで送り届けることも通例となっていた。
家から出ないということも視野にはあったがそれでは鳴海の目には届かない。もっとも彼女の左目の安否確認という役割も果たしていたのだ。
この日は右吉と左吉が真文の供をする番だった。
何事もなく川原も穏やかそのもので、本当に鯰が潜んでいるのか疑わしく思える。そろそろ土手には新芽が吹く頃だろう。
「それじゃあね、気をつけるんだよ」
「気をつけるんだよ」
若い男のなりをした狐二匹が丘の前で手を振る。真文も「ありがとうございます」と手を振り返し、すぐさま石段を駆け上った。
ちらりと振り返れば狐は未だに手を振り続けている。
石段の中腹で真文はもう一度手を振り替えしたが、思わずその手を止めた。
狐の横を通り過ぎる何かを見た。藪の影へ隠れていき、それは一瞬のことだった。
すぐに脳裏に浮かんだのは鯰だが、定かには分からない。
真文は思わず包帯の上から揉むように左目をこすった。
「……嫌だわ」
一度、気にしてしまえば胸はざわざわと波打つ。恐れに負けぬよう強い気を持っていたはずが破綻していくかのよう。
真文は追い立てられるように石段を上がると、バタバタと家の中へ入った。
正体不明なものほど恐ろしいものはない。一度抱いた恐怖はなかなか離れてくれない。感覚が鋭敏になり、四方からじっと覗き見されているように思えた。
目が痒い。
「お、おち、落ち着かなきゃ」
口に出せば声が震えていた。喉を揺らされているのではないかというほど自身の声に説得力は皆無である。
目が痒い。
真文は細い腕で体を支えるように起き上がった。
「と、とにかく……家にいれば大丈夫……大丈夫よ。大丈夫……」
――その保証はどこにある。
勝手な相反がそう囁き、真文は頭を振った。左目を抑える。今まで気にも留めなかったはずなのに、乱れた精神のせいで左目の傷跡がやけに痒い。
一旦、感じてしまえばヒリヒリと不快が走っていく。亀裂に合わせて蠢くように。恐怖。思考は機能しない。段々と大きくなっていく脈拍にすら怯えてしまう。
「そうだわ、猫乃手……」
部屋を出て、壁伝いに早足で玄関へと舞い戻る。居間から祖母の声が聞こえたように思うが、彼女の脳までには届いてこなかった。
長靴ではなく草履に足を入れて家を飛び出せば転げるように丘を下った。
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