弐・天災は忘れた頃にやってくる

 その昔、百年は遡るだろうか。ナマズが大暴れし、ここ吹山村に災いをもたらしたのだと。

 鯰と口にした時、鳴海が咄嗟に出したのはこの地に伝わる鯰の怪異であった。だが、この鯰と櫻に一体何の因果があるというのだろう。

 真文はあくまで控えめに意見してみる。

「確かに大鯰が災いを起こすという話は私でも知るところですが」

「うーん……これはあたしも聞いた話だからね……その鯰じゃないのかい?」

 鳴海はしどろもどろに返し、やがては唸るように腕を組んだ。

 狐社から帰るなり、真文は中星の言いつけ通りに鳴海へと話を持ちかけた。あの口ぶりからして鳴海が何かを知るのだとばかり思っていたのだが、どうも違うらしい。

 真文は釈然とせず鳴海を不審に見やった。それから逃げるように鳴海はふいと視線を別に向ける。手伝いについてきた狐の右吉と左吉へ話を振った。

「なぁ、あんたらは知らないのかい? 鯰の災いってのは」

 だが、二匹とも首を横へブンブンと振った。

「いんや。知らねぇです」

「大体、百年も前の話だろう? 俺たちゃ生まれてもいねぇ」

「あぁ、そうだったね」

 鳴海は落胆なのか肩を落とすと眉を頼りなく下げた。

「なんだか厄介なニオイがするよ……ったく、こんな時に」

 苛々と言うものの彼にはいつもの威勢がない。仁科の不在ゆえに心なしか怯んでいるようにも見える。

 真文も脳を絞るように心当たりを探ったが、この十五年で備えた経験で役立ちそうな話は見つからなかった。

 もしかすると祖父母なら知る話やもしれない。それに鳴海が聞いたという相手は誰なのか。

「鳴海さんはどなたからそのお話を聞いたのですか?」

 今や「うーむ」と唸るばかりの鳴海に問うてみる。

「……誰だったかなぁ」

 気が抜けそうな答えである。どうも覚えが見当たらないらしい。逸る気持ちを抑えようと真文は息を吸い込む。それは虚しく溜息と変化してしまった。

 沈黙。

 空気が段々と冷え切っていき、気は重くなっていく。

「なぁ、姐さんや。ちょいと焦りすぎてやしないかい」

 右吉が溜息を吐きながら切り出す。思考を巡らせていた鳴海は、目をぱっちり開けて怪訝に眉をひそめた。

「仁科の旦那がいねぇから焦る気持ちもよぅく分かるけどよ。だが、ここはじっくりと考えて事を起こさにゃならんだろう?」

 右吉の言葉に左吉も横で「うんうん」と頷く。すると鳴海は言い返そうと口を開きかけた。だが、それは言葉にはならなかった。

 再びの沈黙。

 狐の言う通り、鳴海は珍しく頭の回転が鈍いように見える。

 真文は気丈な素振りを努めるべく笑みを浮かべた。

「ま、まぁ、私が用心したら良いのです。また思い出すことがありましたら教えてください。ね、鳴海さん」

 慰めるように言ってみると鳴海は何故か不愉快とばかりに口をへの字に曲げた。気を使われていると察したか。

「何をいっちょ前に大人ぶりやがって。いいかい、お前たち。あたしはあいつがいなくともやっていけるんだよ。舐めるんじゃない」

 ピシャリと言い放ち、鳴海は帳簿台から出ると狐二匹の首根っこを掴んで外へ放り投げた。腹いせか。

「姐さん、そりゃないですぜ。俺たち手伝ってやったのにぃ!」

「そうだそうだ! 横暴だ!」

「煩い!」

 まだまだ冷える空の下に放り出された狐たちはキャンキャンとなき喚く。それに負けず劣らず鳴海も怒号を振りかざす。

 それはなんだか繕うような空気があり、真文は悩ましく複雑な胸中でいた。

「あーもう。あいつらはやかましくてかなわんね。折角、仁がいないって時にああも騒々しいとおちおち休めやしない」

「でも……鳴海さんが静かだと私は少し心配になってしまいますよ」

「………」

 慰めのつもりだったのだが、鳴海は口を結んで押し黙ってしまった。

 不安はやはり拭えない。互いにおどけ合ってみても、すぐに空気は冷めてしまう。

 やり切れず鳴海は静かに帳簿台へ戻ると、腕を組んで思案に暮れる。真文も「お外を掃除してきます」と店から抜け出した。


 ***


 ぬるりと掴めぬあやかし、鯰の手がかりは唐突に降りてくる。

 店周りを掃除していた昼下がりのこと。「あぁ!」と店の中を震わすほどの大声が響いてきた。

「思い出した!」

 更に声が轟き、真文は思わず肩を上げる。一体何事か。慌てて店の戸を開き、中へ入るとすぐに鳴海と目が合った。

「真文、思い出したよ」

「本当ですか!」

「あぁ。ええと、あぁ、まずはそう、神主を呼んできておくれ」

 何やら忙しなく指示を出す。その勢いに追いつけない。

「え? 彩﨑さいざきさんですか?」

 確かに古く伝わる神社に住む者であるから、そういった事情に詳しいだろうが、彩﨑に聞いたのだろうか。

「本当は村長に聞いたんだよ。でも、いきなり呼び寄せるのは荷が重いだろう? だから神主」

 そうして筆をびしっと突きつけてくる。今すぐに呼べと言うのだろう。真文はつられるように、あたふたと店を飛び出した。


 ちょうど彩﨑は夕飯をどうするかと悩んでいた矢先だったらしい。それに構うこと無く真文は彼を強引に引きずって猫乃手へと急がせた。

「何かと思えば……ともかく真文ちゃんが危険であるということまでは理解しました。そして今は仁科くんが居ないから鳴海さんが柄にもなく不安を募らせていると」

 これには異を唱えたい鳴海だった。しかし彩﨑の穏やかな笑みの裏にある「夕飯を邪魔された」という念が見えたので荒らげることは出来やしない。

「強引に連れ出したのは大変申し訳なく思っております……あの悪気はなかったのです」

 不穏な空気には敏感な真文が消え入るように言う。すると彩﨑は眉を下げて笑った。

「いえいえ。真文ちゃんが大変ならば仕方のないこと。ちょっとからかっただけだよ」

「あんた、年々捻くれてきてやしないかい」

 面白くない鳴海がじっとりと言うが彩﨑は「どうでしょうね」と曖昧に笑うだけだった。これもからかっているのだろうか。彼は愉快そうにクスクスとなおも笑う。

「冗談はさておいて。如何にも鯰の話は父からもよく聞かされていました。ただ、父の語りは少々作りものめいていまして。定かには分からない」

 それでも良いのならと彩﨑は二人に目配せする。鳴海と真文がこくりと頷き合うと彼は「よし」と小さく意気込んだ。框に腰掛け、話を始める。


 それは百年ほど遡った話である。世は江戸も中頃、各地で地震が相次いでいたのだが、それはこの吹山村すいざんむらも例外ではなかった。

 この世の終わりだと当時の村民たちは恐怖に苛まれた。さらにこの事象を彼らは口々にこう語る。

 川の主、大鯰の仕業だと。

 記録にもあり、恐らくは村長の家に残されているはずだ。

 一体何故、鯰の仕業だと声が上がったのか。かの天下人、豊臣秀吉公も「鯰が暴れようとも崩れぬ頑丈な城を建てよ」と意気込むほど鯰を恐れていたそうだが。

 伝説というのは人の言葉によってしぶとく息づくものだ。出処など知る由もなく事実無根だと言われればそうだが、人々の記憶にすり込まれた恐怖はまことであった。

 畏れとは後世へ残すべく形を変えていくものだ。

 さて吹山村の大地震については、これもまた奇妙な話が残されている。

 まだ水土里町と分離する前の吹山地域で大地を震わす災害が発生した。地が割れ、怒りに震えるかのごとく空が轟々と音を響かせていた。人々は逃げ惑い、また多くの者が地に飲まれてしまったという。

 生き残った者たちは先にもあった「鯰」伝説を持ち上げた。こぞって「鯰の仕業だ」と言い始めた。災いを沈める術もなくただただ嘆き、祈り、事が治まるまで辛抱するのみ。そんな暗雲立ち込める日々の中、さらに誰かがこう言った。

「この災いが起きる数日前、扁平へんぺいな顔をした男が川原に佇んでいた」

 村には扁平な顔をした男などいないのだ。いや鯰のように目が小さく口の大きい男などありふれた顔はいてもおかしくないのだが、その者が言うには人間のそれとは異なるのだと。

 でっぷりとした大きな扁平の顔が胴と繋がっているかのような。首が見えず肩に顔を乗せているかのようななんとも奇妙なものであったらしい。

 それは鯰のように長い髭を鼻の下から伸ばしており、大きな口を横へと伸ばして嫌らしくニタニタと笑うのだ。口の端などどこまで伸びていくものだから頭の後ろで端と端が引っ付いてしまうのではと訝ったとも。この話がどこまで真かは分からないが、その者が見たという話は災い後しばらくは語られていた。

 その後、大地震によって裂かれた大地に水が流れ、新たな川が出来た。

 これを鯰川と呼ぶ──


「つまり、この村には『鯰顔の男』が住んでいるという逸話があるわけです。中星様が言っているのはこの鯰ではないかと」

 話し終えると彩﨑は一つ荒い咳払いをした。

「成る程……ここに来て随分と経つというのに、まだまだ知らないことだらけだねぇ」

 鳴海は感心深げに頷く。一方、真文はやはり釈然とせず首を傾げていた。

「それで櫻とどう繋がるのですか」

 ここまで彩﨑の話を聞いていても結局は櫻との因果が浮かび上がらない。中星曰く、その鯰が真文の左目を狙っているとのことだが──

 すると彩﨑は思いついたように眉を上げて言った。

「鯰はあの櫻並木の川に住んでいると言われているんだよ。だから、ここからは僕の想像になるんだけれど」

 彼は渋い顔をさせ、真文を真っ直ぐに見やった。

「あの櫻幹と深く関わることも無きにしもあらずというのか。鯰男と言われるほどのものならば、櫻の怪物であるアレとも何かしら繋がりがあったのかもしれない」

 真文はごくりと息を飲んだ。背筋を走る悪寒に震え、目の前がくらりと傾くように意識が遠く離れていく。

 ――その話は幕末の混乱した時代……突然に櫻幹の冒頭が思い起こされた。

 足抜けを目論んだ遊女が店主の怒りを買い、入れ込んだ客の子供もろとも殺される話。女が捨てられた場所に芽吹いたのがあの古櫻。

 人を串刺しにする櫻は一体どうして狂いを孕むほどの妖力を持つこととなったのだろう。

『あの狂気はなんだか異常であるとは言え……子を守るため、身を守るため、周囲を警戒する親のようだと。そんな気がしてならないのです』

 仁科の言葉が蘇る。あの緩やかな春の日、彼はそう憂いの帯びた目で言ったのだ。

 もしそうだとしても、女の怨念だけで櫻が魔と化すことはあり得るのだろうか。あの櫻に手を貸したものがいたとしたら──その正体が川に棲む鯰なのだとしたら──

「もう夜が来る。真文ちゃんは帰ったほうがいいね。鳴海さん、僕も村長に話を聞いてきますから、仁科くんがいない今は充分に用心をしましょう」

 締めくくるように彩﨑の声に真文はハッと我にかえった。気を締めて頬を二度叩く。

「まぁ、あいつがいてもいなくても用心はしていたろうがね……悪いね、神主。変なことに巻き込んでしまって」

 気を揉むように鳴海が言う。彩﨑は「いえいえ」と快くも気遣うように返した。

「ところで仁科くんはまだ帰らないんですか?」

 框から降りて彩﨑が訊けば鳴海と真文はたちまち浮かない顔を見せる。それを察してか彼は「あぁ」とやるせなく唸った。

しらせだけはしておこうかね……まったく、どこで何をしてるのやら」

 鳴海のぼやきを背に真文も框を降りようと動く。彩﨑が「送ろう」と言うのでそれに従って三和土に長靴ブーツの底をコツンと押し当てた。

「一刻も早く、先生の帰りを願ってます」

「そうだねぇ……まぁ、あいつが帰ったとしても手に負えなかったらそれまでなんだが。ともかくあんたのことは最後まで面倒見てやるよ」

 鳴海は真文の頭に手を置いて力強く言った。頼っても良いのだと言い聞かせるように。


 ***


 少女に忍び寄る影を仁科は未だ気づく由もない。

 のどかで平らな田畑の中にぽつんとある厚い瓦屋根の家に足を踏み入れていた。造りは猫乃手のような茅葺小屋ではなく、しっかりとした家屋だ。

 岩蕗の生家には初めて訪れるはずだが、穂香に香るしきみが鼻の奥にを訴える。

「よう、無事だったようで何より」

 にべもない声音で岩蕗はボロボロの仁科を出迎えた。

「私、海は嫌いなんですよ」

 挨拶もそこそこについ文句を垂れてしまう。すると岩蕗は面白がって笑った。

磯女いそおんなにでも遭ったかい。あの赤間関あかまがせきにゃ、昔っからいるって言われてたからなぁ。まぁ、視えるんならやりあっても勝てる相手だが」

「今はもう下関しものせきって名前になったみたいですけれどね。あぁ、どうりで……もう二度と渡るものか」

 ここまで来るのにも長い時間をかけて海と山を越えたのだ。疲れはとっぷり溜まっている。口調も段々と悪くなる一方だが、岩蕗は陰険に笑うだけで労いの欠片もない。

 それが仁科の機嫌を損ねることにも繋がるのだが。帰りは贅沢に汽車と大型の連絡船で帰ってやる。その為には金をふんだくろうと目論んだ。


 居間は広く、大きく立派な仏壇があるだけで寒々しい。そこもやはり樒の香りがある。

 到着早々ではあるが速やかに用を済まそうと岩蕗は無言で部屋の中心まで進んだ。それには同意であるので、仁科もとやかく言わずにいた。

 しかし辺りを見回せば否が応でも気になってしまうもの。

「あの……光輝は?」

 ここに居るはずのあの少年を見ていない。

 すると岩蕗は畳にどっかりと腰を下ろしながら「あぁ」と息を吐いた。その音がわずかに弾んでいることを敏感に察する仁科である。

「あいつは今、山まで修行にやっているんだ。まぁ夕刻までには帰るだろ。なかなか飲み込みがいいぞ。お前たちと違って」

「ふーん……」

 彼が元気にやれているのなら何よりだ。それ以外に詮索することなく、仁科も畳に腰を下ろす。

「ええっと、文で伝えた通りなのですが……岩蕗さん。あの短刀を譲ってもらえませんか?」

 前置きも省いてしまい、再会や近況を伝える間もなく仁科は要件だけを告げた。その不躾さを非難するのか、岩蕗は白が混じった太眉を曲げる。

「まぁ……そいつに関しては譲ると言うよりもだな、むしろお前にいかんと俺も考えていたところなんだ」

 迷いのあるゆっくりとした声音に仁科は目を細めた。

「どういうことです?」

 返すとは。あの短刀は岩蕗のものではないのか。己の知らぬところで何か他にも起きていたのだろうか。

 巡らせども彼の中に眠る記憶は推定、七つ以降しか存在しない。仁科は眉間に皺を寄せ、渋面の岩蕗を見据えた。

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