早春の章 鯰川〜ナマズカワ〜
壱・雪解けの宵に目覚める
彼方にある陸地が霧の中より浮かび、視界に広がっていく。潮風がべったりと全身に張り付くのもいとわず、仁科仁は漁船の舳先でじっと腕を組み、静かに立っていた。
上空ではゆっくりと旋回するカモメがあり、彼を見下ろすようにばっさりと羽をはためかせる。その音にも無関心を決め込んでおいた。
冷たい風が強く吹き付けると柔らかな髪の毛は潮で固められてしまい、逆立つような形に変わる。
「はぁ……」
溜息は絶えない。それもそのはずで彼は港へ着いて間もなかった。関門海峡の向こう側へ渡るには、やはり時間が
どうにか山を越え、市街地から港まで辿り着いたのが年が明けた頃であり、また正月という間の悪さにより港には動く船がなかった。辺りには貨物船やら連絡船など大きな鉄の箱が並んでいる。その大きさに圧倒されるも浮かれている場合ではない。
船が動かなければ渡れない。仁科はなんとか動くものを探し当て、小さな漁船に乗せてもらう算段をつけた。それが今に至る。
「
思わず口調も荒くなる。とはいえ、愚痴が溢れるのは仕方ないことだろう。
仁科が岩蕗の家へ行こうと思い立ったのは十二月の半ばである。
影狼の騒動があった後、岩蕗の持つ
彼にも連絡用の鈴があるのだが、音に全く気が付けないほど妖力なるその手の類には反応を示すことが出来なくなっていた。これに伴うのか否か定かではないが彼は住んでいた家を売り払い、光輝を連れ、生家のある九州へ帰ってしまったという。
それを知ったのが十二月二十七日。文を飛ばしてから数日後のことである。返ってきた紙にはその旨と住所が記されていた。それから慌てて村を出たわけである。
仁科は風に煽られるもその紙を取り出して冷ややかに見つめた。
「春までに帰れるか……」
冷たい潮風のせいか、つい弱音がこぼれてしまう。
しかし行かねばなるまい。その為に岩蕗の持つあの短刀が必要なのだから。
あの秋に譲り受けておけば良かったのにと何度悔やんだものだろう。いつでも取りに行けると高をくくっていた、そのバチが当たったのか。
「いや」
仁科は閉じていた目を薄ら開けた。口角をニヤリとつり上げる。
「まず向こうへ無事に渡れるかも怪しい」
風が強く吹き、固まった髪を折り曲げていく。
先程から風の唸りが強いとは感じていた。その読みは当たりだったようで、船体が突風に煽られ傾いた。
これはもう風ではない。ざわりざわりと波が立つ。膨らんでは落ち、膨らんでは落ち、まるで脈打つかのよう。
背後では漁師ら数人の怒号があったが、波と風に飲み込まれてしまう。彼らは進路を変えようとてんやわんやだった。一方で仁科は静かに目を凝らす。
「はてさて、どんな輩の仕業か……」
冷たい潮が飛びかかってくる。それに捕まらぬよう飛び退いてはみたものの間に合わない。まともに頭から海水をかぶってしまった。濡れた頭を振るい、仁科はまたも溜息をつこうと口を開く。
「はあ……っくしょん!」
寒気には勝てないもので思わずくしゃみが飛び出してしまう。鼻をすすり、彼は苦笑した。
「あー、これだから海は嫌いだ」
そのぼやきが聴こえたのか波は更に膨らみ、船体をぐらつかせる。投げ出されないよう踏ん張っていると海面にゆらりとたなびく何かが視えた。
空は霞んで白く、光はない。だが波の合間に漂うそれはキラキラと瞬いて見えた。光沢のあるもの。
確かにここは海原である。しかし、船を傾かせる程に大きな海洋生物は仁科の知る限りだと怪魚である鯨くらい。もっともそれが鯨ではないと判っているのだが。
「海の妖……
思い当たるものを全て打ち消す。
しかし荒れ狂う波が思考を邪魔する。さらに濡れた身体に冬の風は凶器だ。すっかり冷えきって無意識に全身が震える。
「……
妖力は蓄えても所詮は人の身。走る悪寒のせいで内臓までがただならぬ予感を覚える始末。いやはや人の身とは意識に反して脆いものだと改めて気付かされた。何も恐れることはないのに――
波の中でたゆたい、さざめく光を睨む仁科は考えあぐねた。
この海には何が潜んでいるのか。正体を突き止める。
その時、濁った碧に見開かせた瞼が二つ。大きな目玉がぎょろりとこちらを見返した。
***
時は流れ、二月十三日。節分もとうに済ませた時期、吹山村は一層の冷え込みに襲われていた。
そんな戸の近くでガチャンガチャンと硝子の擦れ合う音が響く。
「これと、これと……あぁ、あと胃薬。これが一番大事。忘れないでおくれよ」
籠に詰められる瓶の数に真文はわずかに怖気付いていた。
狐の社まで行き、煎じた薬を持ち帰るという遣いを頼まれたのだが、行きは空と言え帰りを思うとその重さに耐えられるか不安である。
しかし鳴海は容赦ない。嫌とも言えず真文は引きつった笑みで受けた。
「あ、ねぇ、鳴海さん。仁科先生から何か便りはありましたか?」
積まれる瓶を横目で見やりながら真文は問う。
鳴海は手を止めて「あー……」と浮かない声を上げた。
「あるにはあるんだけれどね……いつもとおんなじさ」
頭を掻き、彼は不機嫌に帳簿台を指した。
そこには折り目のついた便箋、和紙、その他に広告、新聞の切れ端などなどが幾枚も積まれてある。それらはすべて仁科からの便りだった。
意外にも彼はまめに連絡を寄越しているのだが──
『山ヲ越ス』
『市街ノ酒場ニテ。快適ナリ』
『アンパン、うまい』
『饅頭モ
『石炭とススばかり。黒い町ニテ』
『電灯ハ目がいたむ。又いづれ』
近況の小さな報せばかりである。この紙が店の窓へ放り込まれるか戸に挟まれているかがほぼ毎日続いている。これに対し鳴海は苛々と言った。
「あいつ、観光してやがるんだよ、きっと。年初めの連絡からこんなものばっかりだ」
真文は一番下にあった便箋を引っ張り出した。柔らかな紙には丸い形の文字がつらつらと並んでいる。
『近況。先ず山ヲ越え市街ヲ行ク。只、雪ニ遭へバ列車が動かズ。借りた宿ニテ年ヲ越ス。つづいて明けて直グ港へ。正月故か動く船ハ一隻モ無。船ニ乗り合へバ、海ヲ渡るニモ一難。磯ノ女ト鉢あはス。船が波ニ攫ハレ、シバシ難航ス。海峡ヲ通るニモ中々骨ヲ折ル。海ハからくてツライ。今ハ門司ニテ此レヲ書きつづる。又いづれ。 仁』
これをもう何度読んだことか。しかし読み取れることはとくになく、恐らく深い意味はないのだろうが幾許の不安は煽られるものだった。
「……つまり『磯の女』という何かに襲われたわけですよね。ただ、どうやって逃れたのかはこれだけでは分かりませんね」
「あぁ。それっきりあの調子だろう? まったく、あいつは口下手な上に手紙も碌に書けないんだね」
いつになく鳴海の言葉は辛辣である。真文は苦笑を見せてなだめた。
「ええと、それではお遣いに行ってきますね」
「あぁ、悪いね。頼んだよ」
戸口まで見送ってくれる鳴海に手を振って、瓶が詰まった籠を抱きかかえると真文は狐社まで走った。
仁科が店を空けてしまえば鳴海は外出が出来ない。それを頼まれたのだろうと真文は解釈していた。
空傘を預けられたあの日、仁科は岩蕗の元へ向かった。その道中に何やらゴタゴタとしていたらしくさらには二月も迎えたこの今でさえ、岩蕗の家へ辿り着いていないという。不安は湧くが、それでも「先生のことだから平気でしょう」と冷めた見方もしていた。
今では鳴海の代わりに村の方方を駆け回って遣いを果たしている。以前よりも慌ただしいもので思い悩む暇がなかった。
ヨビコ山の麓を行き、深くも霜だらけの落ち葉を踏み歩いて真文は白い綿息を吐いた。
社の入り口では数匹の小狐が霜を踏んで遊んでいる。パリパリと音が鳴るので、それが面白いらしい。真文の姿を認めるなり、小狐たちは笑いを止めた。
「あー、真文!」
「真文来た!」
「右吉兄ちゃん、左吉兄ちゃん、真文来たよー」
小さな子どもたちは一斉に声を上げる。こちらから言わずとも可愛い出迎えがあるので真文も困ることなく、微笑みながら右吉らを待っておいた。
しかし今日は一段と冷える。真文は籠を脇に置き、小狐の一匹に手を伸ばした。もふもふと柔らかい梅色の毛並みを抱くと小狐はまんざらでもないらしく、「わぁー」と嬉しげに真文の腕におさまった。
「ふぅ……あぁ、あったかい。幾ら寒いのが良くても霜焼けには敵わないわ」
頬ずりしながら右吉らを待つこと暫し、彼らはひょっこりと枯れ木の間から姿を見せた。
「おや、お勤めご苦労さん。今日は一体、何を買いに来たんだい」
「こんにちは。今日はこれだけのお薬をお願いされまして……ただ、帰りが心配なのですが」
小狐を降ろし、籠を引きずって見せてみる。二匹は顔を見合わせて苦笑した。
「なんだい、嫌がらせにでもあってるのかい。可哀想に」
やれやれと右吉は首を振る。
「俺らが持ってくよ。まったく真文はしょうがないやつだなぁ」
やれやれと左吉も首を振る。
そうして二匹はまた顔を見合わせてコンコンと笑った。
「そういや中星様が真文に会いたいってさ。今日は機嫌もいいみたいだから、顔だけでも出したらどうだい」
何やら思い出したように右吉が言う。左吉も「あぁ」と声を上げた。
「薬はこっちで詰めとくから会ってきな」
「まぁ、中星様が……一体なんでしょう」
これは珍しく思えた。それも冬が来るなり中星はまったく顔を見せなかったのだ。しばらく会っていなかったがゆえにこの申し出には断るわけにいかない。
真文は二匹に押されながら足早に社の中へと向かった。
そこもやはり寒いのだが重ね着した着物と更に肩掛けをぐるぐるに巻きつけていたので震えるほどではない。
ふわりと香る季節のずれたヨモギを鼻の奥へと押しやるように進む。すると白い装束の女が背を向けているのが見えてきた。
「中星様……お久しぶりでございます。真文です」
声を掛ければ中星は長い髪をなびかせて勢い良く振り返った。
「おぉ、おぉ、久しいのう、真文」
「お加減のほど如何でしょう」
「上々じゃ。まま、近う寄れ。話をしようぞ」
どうやら待ち侘びていたようだ。彼女は嬉しそうに目を細め、袖で口元を隠して笑う。
素直に従い、側へ寄ると中星は小首を傾げて真文の頬を両手で包んだ。
「どれ、顔をようく見せよ……うぅん、愛らしいのう、真文は」
その声は段々と消え入っていく。
「中星様?」
彼女は次第に目を伏せていった。何やら躊躇うようで包まれた頬を介して伝わってくる。
やがて中星は「うぅむ」と唸り、真文の頬をぐいっと更に引き寄せた。
「良いか、真文。
中星は双眸を開かせ、金銀と対の瞳を見せた。その声音は優しくも緊迫した節があり、突然の急変に真文はただただ驚くしかない。
「汝の左目を狙う輩が春の訪れと共に目を覚ますことじゃろう。その兆しが見えたのじゃ」
一体どういうことか。何も言えない真文は口を挟むことも出来やしない。
中星はゆっくりと左目の包帯に触れた。ひんやりと心地よい滑らかな感触。それは頬へ首へと下へ落ちていく。惜しむかのように。
「……汝、左目の調子はどうかえ」
「えっ、あ、ええっと……そう言えば、あまり気にしていなかったのですが……」
突然の問いには言葉が支える。わたわたと口を開き、頭を回して思案した。
「そうですね……傷が少し痒いといいますか……」
包み隠さず言ってみると中星は口の端を緩めた。同時にキリリとした目元が落ちていく。安堵の表情だろうか。彼女は息を吐き出す。
「そうかえ。では、それと同じことを鳴海にも言うが良い。またあの櫻が立つ場所へは近づかぬことじゃ」
「はぁ……分かりました。しかし中星様。私の家はあの川に近い丘の上です。通るなと言えども難しく……」
だが中星は唸るだけで言葉を返すことはなかった。もう真文から遠ざかり、用は済んだとばかりに背を向けてしまう。
「あの、一体誰が左目を狙うと言うのです?」
返してもらえるだろうか。真文はぬるい唾をごくりと飲み、中星の背をじっと見つめた。
すると彼女の頭上にぽかりと綿息が浮かんだ。
「
ピシャリと言うと中星はもう下がれと言うように袖を振るった。
仕方なく真文は頭を下げて踵を返した。
***
確かにそれが思い過ごしであれば良かったのに、兆しというのは悪いものほどよく当たる。
雪と寒風によって凍った櫻も川も今はまだ穏やかさを帯びているが、雪解けの宵が訪れたならば途端に華やぎ賑やかとなることだろう。しんと静まった土の中では動物や植物が春を今か今かと待ち侘びている。
それは川底に棲むものも例外ではない。
かつて川を統べていた主がゆるりと瞼を持ち上げた。
雪解けはもう近い。
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